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壊れた時鐘を直したら、忘れられた街に春が来た  作者: 銀細工ナギ


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第18話 鐘の音が暴いた買収工作

 鐘が鳴ったのは、夕暮れの少し前だった。


 まだ修理の途中だった。中心軸は仮の留め具で支えられ、鐘を打つ槌には細い革紐が結ばれている。完全な時刻を知らせる音ではない。ただ、動き始めた機構を確かめるため、重りを一つだけ吊るしたのだ。


 それでも、塔の奥で歯車が回り、槌がゆっくりと持ち上がった。


 誰も息をしなかった。


 槌が鐘に触れる。


 澄んだ音が、霧の残る街路へ広がった。


 一度。


 二度。


 三度。


 音は三つで止まった。


「三時ではないよ」


 パン屋の女主人が言った。


「鐘の針は、まだ二時半を指している」


 私は塔の内部を見上げた。規則正しい時刻の音ではない。だが、三つの響きには妙な間があった。一つ目と二つ目の間は短く、二つ目から三つ目までは長い。


 ユアンが顔を上げた。


「合図かもしれない」


「誰かが仕掛けたの?」


「この塔には、昔から時刻以外の音を鳴らす決まりがある」


 ユアンは古い記録帳を開いた。


「火事、洪水、外敵。街区に異変が起きた時、鐘の数と間隔で知らせた。三打、長い間、三打なら――」


「港の倉庫から出火」


 老人が記憶をたどるように呟いた。


「だが、今は火なんてないぞ」


 その時、塔の外で怒鳴り声がした。


「止めろ! 鐘を鳴らすな!」


 商会の代理人だった。彼は階段の下で、二人の技師に押さえられるようにして立っていた。技師の一人が、手にした紙を隠そうとしている。


 私は駆け寄り、その紙を奪った。


 そこには街区の家々の名前と、金額らしい数字が並んでいた。名前の横には、丸印や三角印が記されている。


「これは何です?」


「検査の資料だ」


 代理人が答えた。


「家屋の評価表に決まっている」


「評価表なら、どうして『黙らせる費用』『迷っている者への前金』と書いてあるの?」


 私が紙を広げると、住民たちが一斉に近づいた。


 女主人の名前の横には、パン屋を閉めさせるための金額があった。鍛冶屋の老人には、工房を移転させる代金。時計塔の鍵を預かるユアンには、監督官の職を残す代わりに署名させるという条件まで書かれている。


 ユアンは紙を見つめたまま、何も言わなかった。


「俺は、そんな話を受けていない」


 老人が低く言った。


「受けていなくても、商会は払うつもりだったのでしょう」


 私は紙の端を指で押さえた。


「ここに日付があります。買収契約の締結日より前。つまり商会は、時計を壊して街区を不安にさせる前から、誰を買えるか調べていた」


 代理人の顔から血の気が引いた。


「それは技師が勝手に作ったものだ」


 技師の一人が俯いた。


 もう一人は、ゆっくりと口を開いた。


「違う。指示された」


「黙れ!」


 代理人が叫んだ。


 だが、その声をかき消すように、鐘が再び鳴った。


 三打。


 今度は、はっきりとした音だった。


 塔の上から落ちてきた振動が、床板を伝って足元に届く。私は機構のそばへ戻った。槌を動かしていたのは重りだけではない。中心軸の裏側に、細い針金が結ばれている。


 誰かが外から引いたのだ。


 塔の壁に開いた小さな通気口。その向こうから、糸の端が垂れていた。


「鐘を鳴らしたのは、商会の人間?」


 少年が尋ねた。


「たぶん違う」


 私は糸をたどった。塔の外壁を回り、路地裏の古い倉庫へ続いている。そこには、商会の印が押された木箱が積まれていた。箱の一つから、別の書類が風にめくれている。


 ユアンが拾い上げる。


「売却予定地の一覧だ」


 その中には、街区の家だけではなく、時計塔そのものも含まれていた。


「塔を壊すつもりだったのね」


 私の声が震えた。


「鐘が鳴らなくなれば、街区は役に立たない場所だと思わせられる。住民が不安になったところで、安い値段を示す」


 ユアンは書類を握りしめた。


「そして、買収に応じない者には、生活を続けられないと思わせる」


 技師の一人が膝をついた。


「俺たちは、ただ部品を壊せと言われただけだ。鐘を止めれば、商会が修理を引き受けると……」


「その後、街区を取り壊す予定だった」


 女主人が書類を読み上げた。


「倉庫街を拡張し、住民は立ち退き。代替地はまだ決まっていない」


 広場が静まり返った。


 誰も、自分の家を売る話として聞いていなかった。商会は最初から、街区を人の暮らしではなく、空いた土地として見ていたのだ。


 ユアンは深く息を吸った。


「この書類と証言を、明日の公開修復会で提出する」


「明日まで待つの?」


 私は尋ねた。


「今夜、商会は動く。証拠を消すかもしれない」


「なら、私たちも動く」


 私は鐘の機構を見上げた。


「この鐘を、明日の朝までに正しく鳴らす。時刻を知らせるだけじゃない。街区中の人が、同じ場所に集まれる音にする」


「壊されるかもしれない」


「だから、皆で見張る」


 少年が真っ先に手を挙げた。


「僕も起きてる」


 女主人が笑った。


「子どもは寝な。代わりに、朝のパンを届けるよ」


 次々と手が上がる。鍛冶屋は塔の扉を補強し、老人たちは倉庫の書類を写し取る。ユアンは証言の順番を組み、私は中心軸の仮留めを外した。


 鐘はもう一度、三つ鳴った。


 今度は、街区の誰もがその意味を知っていた。


 音は、脅しではなかった。


 買収されなかった人々を呼び集める、最初の合図だった。

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