第17話 霧の広場で始まる真実の修理
朝、霧は広場の石畳をすっかり覆っていた。
時計塔の輪郭さえ見えないほど濃い霧だったが、広場にはいつもより多くの人が集まっていた。掲示板には、前夜までに写し取られた手紙と証言が貼られている。名前を出すことをためらった者は印だけを記し、子どもたちは聞き取った時刻を色の違う糸で結んだ。
鐘は鳴らない。
それでも、街区の人々は時刻を失っていなかった。
「これで全員そろったようです」
ユアンが言った。
彼は机の上に置かれた記録を一枚ずつ確かめていた。文字の濃さ、紙の折り目、証言した人の署名。昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、目だけは静かに澄んでいる。
「全員ではありません」
私は塔の入口を見た。
霧の向こうから、商会の代理人と二人の技師が現れた。技師たちは大きな工具箱を抱えている。
「本日、契約に基づく最終検査を行います」
代理人は、昨日までと同じ笑顔を浮かべた。
「時計塔の修理は商会の管理下に置かれるべきです。素人が手を入れれば、危険が増す」
「では、検査を見届けてください」
私は工具箱を開いた。
中には、外した中心軸、削られた歯車、ひびの入った留め具が並べてある。どれも昨日まで塔の内部にあったものだ。私は部品のそばに、採取した金属粉を入れた小瓶を置いた。
「ここからが、真実の修理です」
代理人の笑顔がわずかに崩れた。
私は仮支柱に固定された中心軸を指で示した。
「この軸は、自然に折れたものではありません。表面に、内側から外側へ向かう傷があります。工具を差し込み、力をかけてねじった跡です」
「推測でしょう」
「なら、こちらをご覧ください」
老人が前へ出て、灰色の金属片を机に置いた。
「塔の床板の隙間から見つけた。私が拾った時刻も書いてある」
パン屋の女主人が続いた。
「私の店の裏で、商会の技師が同じ形の削りくずを捨てていたよ。掃除の前に拾っておいた」
霧の中で、いくつもの手が上がった。
床板の釘。外された鍵。夜中に塔へ運び込まれた油壺。商会の工房で使われる特殊な刃の欠片。住民たちは、それぞれの家から持ち寄った小さなものを机へ置いていく。
ばらばらだった記憶が、今度は物の重さを持って並べられた。
私は金属片を中心軸の傷に重ねた。ぴたりとはまる。
誰かが息をのんだ。
「それは、商会の道具ではありません」
代理人が言った。
「この刃は、以前あなたの工房から持ち出された型で作られています」
私は親方の手紙を広げた。
「設計図を買いに行った技師がいた。工房から部品の型が持ち出された。つまり、あなたたちはこの街区の時計だけでなく、私たちの職人の技術まで盗んで使った」
「証言者は、あなたに恨みを持っているのでは?」
「そうかもしれません」
私は否定しなかった。
「だから、証言だけに頼らない。傷の形、金属の成分、工具の幅、作業した時刻。それぞれを照らし合わせます。嘘なら、どこかで噛み合わなくなる。でも今、噛み合っているのはあなたたちの工作のほうです」
霧が風に押され、塔の足元からゆっくりと薄れていった。
ユアンが住民たちへ向き直る。
「ここからは、修理の手順を公開する。リゼットが中心軸を調整し、鍛冶屋の老人が留め具を作る。歯車の歯数は子どもたちが記録と照合し、パン屋の女主人が作業時刻を読み上げる」
「私は何をすればいい?」
少年が尋ねた。
「聞こえた音を記録してくれ」
私が答えると、少年は胸を張った。
「わかった」
作業が始まった。
中心軸を仮支柱から外し、傷の周囲を細い鑢で整える。削りすぎれば軸は痩せ、残せば歯車が傾く。私は軸を回しながら、指先に伝わるわずかな揺れを探った。
以前の工房では、親方の命令を聞きながら、奪われる前に成果を仕上げなければならなかった。誰かに見せるための修理だった。
今は違う。
背後には、私の手元を見つめる人々がいる。失敗すれば、その場で理由を説明し、皆で次の方法を考える。隠す必要も、取り繕う必要もなかった。
「少し左です」
ユアンの声がした。
「見えるの?」
「見えなくても、音でわかる。あなたが軸を戻すたび、床板の震えが変わる」
私は軸をほんの少しだけ左へ押した。
遠くで、歯車がかすかに噛み合った。
広場から小さな歓声が上がる。
「まだ鳴らしてはいけません」
私は笑いながら言った。
「急げば、また壊れます」
「では、急がない」
ユアンはそう答えた。
その言葉が、霧の向こうまで届いたようだった。
昼を過ぎるころ、中心軸は本来の位置へ戻った。歯車を一枚ずつ合わせ、仮の重りを吊るす。鐘を鳴らす仕組みは、まだ完全ではない。だが、時計は自分の力で動き始めていた。
秒針の代わりに、小さな歯車が一度、二度と回る。
代理人は黙ってそれを見ていた。
ユアンが記録の最後に署名をした。
「本日の検査結果。故障は偶然ではなく、外部からの破壊による可能性が極めて高い。修理は継続し、契約の執行は保留する」
「そんな権限があなたに――」
「この街区の時計を守る権限ならある」
ユアンは代理人を見た。
「そして、ここに住む人々には、自分の家を売るかどうか決める権利がある」
霧が晴れた。
塔の上で、止まっていた針が一目盛り進んだ。
鐘はまだ鳴らない。
けれど、真実の修理は、確かに始まっていた。




