7話 怨屍
怨屍に襲われた翌朝。
昨日の青年に言われた通り、俺は庭へ出ていた。
「ここで待っていればいいんだよな……?」
携帯を見ると、八時五十分を指している。
空は薄い雲に覆われ、湿り気を含んだ風が庭木の葉を揺らしていた。
低い位置を飛ぶ鳥の姿を見る限り、今日は雨になるのかもしれない。
本当に、あの人は来るのだろうか。
名前も住所も伝えていない。
それにもかかわらず、青年はここへ迎えに来ると言っていた。
そもそも、どうやって来るつもりなのだろう。
そんなことを考えながら待っていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「やあ、お待たせ」
顔を上げる。
次の瞬間、黒い影が勢いよく舞い降りた。
「うわっ!?」
昨日の青年が、空から降ってきた。
黒い軍服の裾を翻し、俺の目の前へ音もなく着地する。
思わず後ずさった拍子に、踵が庭石へ引っ掛かった。
「おっと、危ない」
身体が傾いた瞬間、青年に腕を掴まれる。
そのまま軽々と引き戻され、どうにか転ばずに済んだ。
「驚かせたみたいで、ごめんね」
「……いえ。助かりました。ありがとうございます」
早鐘を打つ胸へ手を当て、呼吸を整える。
昨日も何もない空中を駆けていたが、改めて見ても人間離れした動きだ。
これからは、何が起きても驚かないようにしよう。
そうでなければ、心臓がいくつあっても足りそうにない。
青年の手が離れたところで、玄関へ身体を向ける。
「家の中に入りますか?」
「いや、別の場所へ移動しよう。少し下がっていてくれるかな」
「別の場所……?」
疑問に思いながらも、言われた通り一歩下がる。
青年は右手を上げ、空中へ人差し指をかざした。
何もない場所を指先が滑っていく。
その軌跡に沿って、淡い光の線が描かれ始めた。
「何をしているんですか?」
「見ればわかるよ」
青年が書いているのは、文字のようだった。
やがて、空中へ二つの文字が浮かび上がる。
——開門。
最後の一画が書き終えられた直後、文字が強い光を放った。
光は周囲へ広がり、溶け込むように消えていく。
直後、目の前の景色が大きく歪んだ。
「なっ……!?」
家も、庭木も、その向こうに見えていた住宅も。
水面へ映した景色のように揺らぎ、輪郭を崩していく。
目を擦っても、何も変わらない。
その場から動けずにいる間にも、周囲の景色は別のものへ塗り替えられていった。
歪みが収まり、視界が晴れていく。
気づけば、見慣れた自宅の庭は跡形もなく消えていた。
代わりに広がっていたのは、手入れの行き届いた広大な庭。
その奥には、古い日本家屋を思わせる大きな屋敷が静かに佇んでいた。
周囲に住宅は見当たらない。
遠くに並んでいたマンションも、車の走る音も消えていた。
「えっ……ちょっと待ってください。ここ、どこですか?俺の家は?」
「まあまあ、落ち着いて。まずは中へ入ろうか」
慌てて周囲を見回す俺に、青年は苦笑を浮かべる。
「ほら、行くよ」
「あ、はい……」
促されるまま、屋敷へ向かう。
何が起きたのか、まるで理解できなかった。
俺達が別の場所へ移動したのか。
それとも、家の周囲だけが別の景色へ変わったのか。
混乱したまま、俺は青年のあとに続いて屋敷へ入った。
——
通された居間で、俺達は卓を挟んで向かい合っていた。
「そういえば、まだ自己紹介をしていなかったね」
青年は姿勢を正し、穏やかな笑みを浮かべる。
「僕は黒宮彰。君の名前は?」
「桐生颯斗です。よろしくお願いします、黒宮さん」
「桐生颯斗君か。よろしく。僕のことは、名前で呼んでくれていいよ」
「わかりました。じゃあ、彰さんで」
彰さんは満足そうに頷くと、近くの棚から菓子を取り出した。
饅頭に煎餅、大福。
いくつかの菓子を皿へ並べ、卓の中央へ置く。
「これくらいしかなくてごめんね。ここには寝に帰る程度だから、食べ物はあまり置いていないんだ」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
彰さんは急須を手に取り、二つの湯呑みへ茶を注いだ。
白い湯気と共に、爽やかな茶葉の香りが漂ってくる。
「どうぞ」
「いただきます」
湯呑みを手に取り、茶を口へ含む。
熱すぎない、程よい温度。
まろやかな甘みが、口の中へ静かに広がった。
美味しい。
張り詰めていた身体から、少しだけ力が抜ける。
「少しは落ち着いたかな?」
「はい」
「それなら、昨日の続きを話そうか」
彰さんは湯呑みを置いた。
「今から話すことは、君にとって信じ難いものだと思う。それでも、できれば信じてほしい」
「……はい」
「それから、これから知ることは、なるべく他の人へ話さないでほしいんだ」
「わかりました。誰にも話しません」
俺が頷くと、彰さんは微笑んだ。
「ありがとう。とはいえ、一度にすべて説明しても混乱するだろうからね。今日は、君の身を守るために必要なことだけを話そう」
「お願いします」
彰さんは少しだけ表情を引き締めた。
「人は死ぬと、肉体を離れて魂になる。本来なら、その魂は現世を離れ、輪廻へ戻っていく」
「輪廻……」
「けれど、何らかの理由で現世に留まり続ける魂もいる。そうした魂は、長く留まるほど穢れに蝕まれ、やがて本来の姿や意思を保てなくなる」
彰さんは一度言葉を切った。
「そうして壊れた魂が、怨屍になるんだ」
昨日の化け物が脳裏に浮かぶ。
八つの目。
巨大な牙。
腐った獣の臭いと、赤黒い煙。
「あれが、元は人間だったんですか……?」
「すべてが人の魂とは限らないけれど、昨日の怨屍はそうだろうね」
「……そう、ですか」
あの異形と、自分と同じ人間だったものが結びつかない。
言葉を話してはいた。
だが、そこに人間らしさなど一片も残っていなかった。
「そして、怨屍は魂や霊力を喰らう。中でも君のように強い霊力を持つ人間は、奴らにとって格好の餌になる」
「餌、ですか」
「言い方は悪いけれど、事実だよ」
三日前と昨日、続けて怨屍に襲われた。
偶然にしては出来すぎていると思っていたが、俺自身が呼び寄せていたということなのか。
「君は自分の霊力に気づいていない。だから、抑えることも隠すこともできず、周囲へ垂れ流している状態なんだ」
「それが、昨日言っていた無防備って意味ですか?」
「そういうこと。怨屍からすれば、自分の居場所を知らせながら歩いているようなものだね」
彰さんが俺の格好を指しているのではなかったらしい。
納得すると同時に、背筋が冷たくなる。
「じゃあ、これからも怨屍に襲われる可能性があるんですか?」
「可能性は高い。少なくとも、今のままならね」
彰さんは淡々と告げた。
「次も誰かが助けてくれるとは限らない。だから君には、自分の身を守る術を身につけてもらう必要がある」
「身を守る術……」
昨日、彰さんは怨屍を一刀で斬り捨てた。
つまり、俺も同じように戦えということなのだろうか。
「俺も、怨屍を倒せるようにならないといけないんですか?」
「無理に戦いへ身を投じろとは言わないよ。ただ、襲われた時に逃げるだけでは限界がある。最低でも、自分の身を守れるだけの力は必要だ」
その言葉に、何も返せなかった。
三日前は、偶然近くに神社があったから助かった。
昨日は、彰さんが助けてくれた。
どちらか一つでも欠けていれば、俺は死んでいたかもしれない。
だが、昨日から信じられないことばかり起きている。
怨屍。
霊珠。
霊力。
空中へ書かれた文字と、一瞬で変わった景色。
その上、自分の身を守るために、怨屍と戦う力まで身につけなければならないらしい。
正直、頭が追いつかなかった。
「あはは。まあ、そういう顔になるよね」
彰さんが困ったように笑う。
「でも、既に二度も怨屍を視ただろう?」
「……はい」
猿に似た異形と、巨大な狼の姿が脳裏を過ぎる。
思い出しただけで、背筋が粟立った。
「今までは運よく助かったけれど、次もそうなるとは限らない。だからこそ、君自身に力をつけてほしいんだ」
その通りだ。
昨日も、彰さんが来るのがあと少し遅ければ、俺は怨屍に喰われていた。
逃げ続けるだけでは、いつか追い詰められる。
怨屍に襲われるたび、誰かが助けてくれることを願うわけにもいかない。
声音は穏やかだったが、その言葉に冗談の気配はない。
膝の上で、拳を握る。
「……俺にも、できるでしょうか?」
「もちろん」
彰さんは迷うことなく頷いた。
「君は青の血族だ。それに、霊珠も持っている。条件だけを見れば、かなり恵まれているよ」
彰さんの視線が、俺の胸元へ向けられる。
服の内側には、青い石の嵌められたリングがある。
母さんの形見。
昨日、霊珠だと教えられたもの。
「まずは、その霊珠を扱えるようになるところから始めようか」




