6話 再び化け物と謎の青年
アスファルトを蹴るたび、足の裏に鈍い痛みが走る。
喉は焼けるように熱く、肺は今にも破裂しそうだった。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
背後から、重い足音が迫ってくる。
『愉シイナァ、人間』
粘ついた声を浴びせられ、歯を食いしばる。
「何が、だっ……!」
吐き捨てるように返し、俺は住宅街を駆け抜けた。
——
今日は朝から家に籠もるつもりだった。
昨日は何事もなく学校へ行けたとはいえ、一昨日には異形に襲われている。
篠原さんや飛翠さんから話を聞けるまでは、なるべく外出を控えた方がいいと考えていた。
だが、昼前になって、ばあちゃんから買い物を頼まれた。
近所のスーパーまでなら問題ない。
そう思って家を出た帰り道、また異形と鉢合わせしてしまった。
昨日一日、何も起こらなかったことで、どこか油断していたのかもしれない。
「ああ、もうっ!こうなるかもしれないから、外に出たくなかったのに……!」
悪態を吐きながら、角を曲がる。
ここから神社や寺までは、走っても三十分以上かかる。
病み上がりの体力で、そこまで逃げ続けられるとは思えなかった。
今回の異形は、一昨日遭遇した猿のような化け物とは姿が違う。
狼に似た巨体。
額や肩、胴にまで八つの目が浮かび、裂けた口の両端からは巨大な牙が突き出していた。
周囲には、赤黒い煙のようなものが纏わりついている。
腐った獣の臭いが鼻の奥へこびりつき、息を吸うたびに吐き気が込み上げた。
何より異様なのは、言葉を話すことだった。
一昨日の化け物も、俺を見つけた時に一言だけ声を発していた。
だが、こいつは明確な意思を持ち、逃げる俺を弄ぶように語り掛けてくる。
すぐに追いつけるにもかかわらず、あえて一定の距離を保っているのだ。
八つの目は楽しげに細められ、口元からは濁った唾液が絶え間なく垂れている。
追い詰めてから食い殺すつもりなのだろう。
どうすれば逃げ切れる。
周囲を見回した時、建物の間にある細い路地が目に入った。
「そうだ。あの巨体なら……!」
すぐさま方向を変え、路地へ飛び込む。
異形の身体は、トラックを上回るほど大きい。
この道幅では、追ってこられないはずだ。
人一人がようやく通れるほどの路地を駆け抜ける。
室外機の唸る音が耳を掠め、狭い空間に自分の足音と荒い呼吸が反響した。
角を見つけるたびに曲がり、少しでも異形から距離を取ろうとする。
慣れ親しんだ街であっても、入り組んだ路地の奥まで把握しているわけではない。
自分がどちらへ向かっているのか、次第にわからなくなっていった。
それでも、今はあの化け物を振り切ることだけを考える。
どれほど走っただろう。
いつの間にか、背後から聞こえていた足音が消えていた。
俺は速度を緩め、恐る恐る振り返る。
誰もいない。
「撒いた、のか……?」
安堵しかけた、その時だった。
赤黒い煙が、曲がり角の奥から這い出してくる。
続いて現れた異形の姿に、息を呑んだ。
先ほどまでトラックを上回るほど巨大だった身体が、今は狭い路地を通れるほどに縮んでいた。
「は……?まじかよ……!」
『童、モウ終ワリカ?』
化け物の口元が、愉悦に歪む。
後ずさった足が、何かにぶつかった。
背後を確かめる。
冷たいコンクリートの壁が、行く手を塞いでいた。
袋小路。
逃げ道を探して周囲を見回すが、左右にも高い壁が続いている。
異形の横を抜けようにも、その身体が狭い路地を塞いでいた。
最悪だ。
逃げ場がない。
背中が壁へ触れる。
冷たさが服越しに伝わり、汗ばんだ肌を粟立たせた。
異形は俺が逃げられないとわかっているのか、ゆっくりと近づいてくる。
一歩進むたび、爪がアスファルトを擦った。
耳障りな音が、狭い路地へ響く。
巨大な牙を持つ口が、徐々に開いていく。
奥には、赤黒く濡れた舌と、幾重にも並んだ細かな歯が見えた。
俺を食うつもりだ。
何かないのか。
武器にできそうなものを探すが、手にあるのは買い物袋だけだった。
地面にも、立ち向かうために使えそうなものは落ちていない。
助けを呼ぼうにも、近くに人の気配はなかった。
仮に誰かが来てくれたとしても、あの化け物が見えないのなら、巻き込むだけだ。
心臓が、胸を突き破りそうなほど激しく脈打つ。
また死ぬのか。
過去へ戻り、ばあちゃんや浩透と再会できたばかりなのに。
何一つ変えられないまま、ここで食い殺されるのか。
嫌だ。
死にたくない。
それでも、抗う手段が見つからなかった。
異形が地面を蹴る。
巨大な口が、目前まで迫った。
反射的に目を閉じ、顔を庇うように両腕を上げる。
ごめん、ばあちゃん。
心の中でそう呟き、来るはずの衝撃に身構えた。
しかし、いつまで待っても痛みは訪れない。
代わりに聞こえたのは、何かが空を裂く鋭い音だった。
「……あれ?」
恐る恐る腕をずらし、その隙間から正面を見る。
異形は目の前にいた。
だが、その動きは止まっている。
八つの目を大きく見開き、口を開いたまま固まっていた。
『ナ……何ガ——』
異形の身体に、黒い線が走る。
次の瞬間、その巨体が上下にずれた。
甲高い音が響き、異形の身体が真っ二つに断たれる。
「いやあ、間に合ってよかった」
異形の向こうから、穏やかな声がした。
「そこの君、大丈夫かい?」
両断された身体が、端から砂へ変わっていく。
赤黒い煙も風に攫われるように薄れ、やがて跡形もなく消えた。
鼻の奥へこびりついていた腐臭が遠のき、代わりに乾いた土の匂いが漂ってくる。
砂となって崩れる異形の向こうに、一人の青年が立っていた。
黒い髪に、同じ色の瞳。
身に纏っているのは、見慣れない意匠の軍服だった。
その右手には、一振りの刀が握られている。
光を吸い込むような黒い刀身が、昼の日差しを鈍く返していた。
時代錯誤な格好のはずなのに、不思議なほど青年へ馴染んでいる。
傍から見れば撮影か何かに見えるかもしれないが、今しがた化け物を斬り捨てた以上、作り物であるはずがなかった。
青年は刀を下ろし、柔らかな笑みを浮かべる。
「怪我はなさそうだね」
「あ……はい」
身体の力が一気に抜けそうになる。
どうにか踏み留まり、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!助かりました」
「どういたしまして。間に合って何よりだよ」
青年は俺の頭から足元までを確かめたあと、小さく息をついた。
「ただ、そんな無防備な状態で出歩くのは、やめた方がいい」
無防備。
自分の格好を見下ろす。
半袖の上着に、動きやすいズボン。
この季節に出歩く服装としては、特におかしくないはずだ。
防具服でも着て歩けという意味だろうか。
疑問は残ったが、今は異形のことが先だった。
「あの、化け物はもういなくなったんですよね?」
「ああ。怨屍なら僕が倒したから、もう消えたよ。安心していい」
青年は、化け物が消えた場所へ視線を向けた。
「君が怨屍に狙われたのは、これが初めてかい?」
「怨屍……?」
あの化け物の名前だろうか。
俺は首を横に振った。
同じものではないが、似たようなものには襲われている。
「二日前にも、別の姿をしたやつに襲われました。あの時は神社へ逃げ込んで助かったんですけど……」
「ああ、なるほど」
青年は顎へ手を添え、何かを考えるように目を細めた。
「神域へ逃げ込めば身を守れることは知っているんだね」
「知り合いから、何かあったら神社か寺へ逃げろと言われたんです」
「その知り合いは、怨屍について知っているのかな」
「それは、まだわかりません。聞こうとは思ってるんですけど、なかなか会えなくて」
飛翠さんは神出鬼没だ。
昨日も今日も、まだ姿を見掛けていなかった。
「そうか。なら、最低限のことから説明した方がよさそうだね」
青年はそう言うと、黒い刀から手を離した。
地面へ落ちるかと思った、その時だった。
刀が淡い光に包まれた。
黒い刀身は空気へ溶けるように消え、乾いた地面には何も残らなかった。
「えっ……刀はどこに?」
「刀?ああ、これに戻したんだよ」
青年は耳に掛かっていた髪を退け、右耳を見せる。
そこには、黒い石の嵌められたピアスがいくつも並んでいた。
よく見れば、反対側の耳にも同じようなピアスがいくつもつけられている。
予想以上の数に目を見開く。
思わず身を引くと、青年は傷ついたように眉を下げた。
「ちょっと、そんなに引かないでよ。好きでたくさんつけているわけじゃないんだからさ。これは全部必要なものだからね」
「す、すみません。思ってたより多かったので……」
先ほど化け物を一刀で斬り捨てた人物とは思えない反応に、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。
青年は気を取り直すように咳払いし、右腕を前へ伸ばした。
「見ていて」
耳にある石の一つが、ほのかに光る。
直後、青年の手の中に、先ほどの黒い刀が現れた。
それと同時に、右耳に並んでいた石が一つ消えている。
「どうなってるんですか……?」
「ここにあった石が、この刀へ姿を変えたんだよ」
青年が柄から手を離す。
刀は再び光へ変わり、耳元へ吸い込まれていった。
消えていた黒い石が、先ほどと同じ場所に現れる。
手品のようにしか見えなかった。
けれど、あの化け物も、目の前で起きた出来事も現実だ。
「この石は、すべて武器なんだ」
「全部……?」
青年の両耳を見る。
並んでいる石がすべて武器になるのなら、一体何本の刀を持ち歩いていることになるのだろう。
「信じられないのはわかるよ。でも、これは現実だ」
青年はそう言ってから、俺の胸元へ視線を落とした。
「それに、君も霊珠を持っている。これくらいは知っていると思ったんだけど」
「霊珠って、何ですか?俺はそんなもの——」
「そのリングのことだよ」
青年が、俺の胸元を指さす。
服の内側から、首に掛けていたチェーンを取り出した。
先端には、青い石の嵌められたリングが通されている。
母さんの形見。
物心がついた頃から、肌身離さず持ち続けているものだ。
「これが、霊珠……?」
「そう。それも、僕のピアスと同じように武器へ姿を変えられるはずだよ」
「このリングが?」
指先で、青い石へ触れる。
冷たい感触は、いつもと何も変わらない。
これが先ほどの刀と同じように武器へ変わるなど、とても信じられなかった。
「そもそも、霊珠って何なんですか?」
「怨屍と戦うための武器、と考えておけばいいよ。詳しいことは、順を追って説明するから」
青年はリングを見つめ、わずかに首を傾げた。
「君、青の血族の子だろう?両親から何も聞いていないのかい?」
「青の血族……?何のことですか?」
色を表しているのだろうが、それが血族とどう結びつくのかわからない。
怨屍。
霊珠。
青の血族。
聞き慣れない言葉ばかりが、次々と増えていく。
困惑する俺を見て、青年は意外そうに目を瞬かせた。
「もしかして、何も知らない?」
「はい。怨屍って名前も、初めて聞きました」
「それは困ったな……」
青年が考え込んだ、その時だった。
電子音が、路地へ響く。
俺の携帯電話ではない。
青年は軍服のポケットへ手を入れると、薄い板状の機器を取り出した。
携帯電話にも見えるが、画面は見慣れたものとは少し違っていた。
表示された内容を確認した青年の表情が、わずかに曇る。
「ごめん。話の途中だけど、用事ができたみたいだ」
青年は機器をポケットへ戻し、申し訳なさそうに眉を下げた。
「怨屍のことも、霊珠の使い方も、改めて説明するよ。明日は空いているかい?」
「明日ですか?」
特に予定はない。
できるだけ家から出ないつもりではあったが、怨屍について教えてもらえるのなら話は別だ。
「一日、空いてます」
「そうか。なら、朝の九時頃に迎えに行くよ。庭へ出て待っていてくれるかな?」
「庭に?」
なぜ店とかではないのだろう。
疑問に思ったものの、青年は急いでいるようだった。
ここで細かく尋ねる時間はなさそうだ。
「……わかりました」
「ありがとう。それじゃあ、また明日」
青年はそう言い残し、地面を蹴った。
次の瞬間、その身体が建物の屋根を遥かに越え、空高く舞い上がる。
そして、何もないはずの宙を蹴り、そのまま空を駆けていった。
青年の姿は、瞬く間に小さくなっていく。
「えっ……」
あまりに人間離れした動きに、しばらく声が出なかった。
「いや、ちょっと待て……空を走ってなかったか……?」
思わず目を擦り、青年が消えた空を見上げる。
確かに、あの人は何もない空中を走っていた。
どれほど脚力が優れていようと、そんなことができるはずがない。
怨屍を一刀で斬り捨て、石を刀へ変え、挙げ句の果てには空を駆ける。
どう考えても、普通の人間にできることではない。
あの人は、一体何者なのだろう。
そこまで考えたところで、別の疑問が浮かんだ。
「……あの人、俺の家を知ってるのか?」
名前すら伝えていない。
それなのに、明日の朝、家まで迎えに来ると言っていた。
しかも、なぜか近くの店ではなく庭を指定された。
今さら追いかけようにも、青年の姿はもう見えない。
どうやって家を突き止めるつもりなのだろう。
そう思ったが、あんな人外じみた動きをする人だ。
俺が想像できない方法で来るのかもしれない。
ひとまず考えるのをやめ、地面へ落としていた買い物袋を拾い上げる。
袋の底から、透明な液体が滴り落ちていた。
嫌な予感がして、中を覗き込む。
「あ……卵、割れてる……」
ほとんどの卵に罅が入り、白身と黄身が袋の中へ流れ出していた。
割れずに残った卵まで、べったりと汚れている。
このまま帰れば、頼まれた買い物をやり直すことになる。
ばあちゃんへ何と説明すればいいのかも思いつかなかった。
怨屍に追いかけられて落としたなどと言えるはずもない。
深いため息を吐く。
割れた卵の入った袋を提げ、俺は再びスーパーへ向かって歩き出した。




