56話 残火 - 久瀬視点
踏み込んできた相手の刀を、大太刀で受け流す。
刃に引かれて、相手の身体が前へ傾いた。
その足元へ一歩入り、柄で手首を押し上げる。
「あっ」
刀が手から離れた。
宙へ浮いたそれが地面へ落ちるより先に、妾は切っ先を相手の喉元へ向けていた。
「なんじゃ。もう終わりか?」
目の前の女が、口元を引き攣らせた。
「いや……貴女が強すぎるんですよ……」
「これでも加減はしておるぞ」
「それで、ですからね」
切っ先を下ろすと、相手はようやく息を吐いた。
妾の背丈は、相手の胸にも届かぬ。
大太刀を持って訓練場へ入った時には、持ち上げられるのかとまで聞かれたものだ。
持てぬ武器を、わざわざ選ぶはずもなかろうに。
「腕だけで止めようとするから、身体ごと持っていかれるのじゃ。足も使え」
「はい。もう一度、お願いします」
「うむ」
相手が刀を拾い、構え直す。
怨屍だった頃とは、身体の具合が違う。
以前と同じつもりで踏み込めば間合いが足りず、霊力を込めすぎれば、かえって動きが乱れることもあった。
じゃが、積み重ねてきたものまで消えたわけではない。
こちらへ向けられた切っ先を見ながら、妾は大太刀を握り直した。
——
「休憩!」
訓練を見ていた教官の声に、周囲の者たちが武器を下ろした。
向こうでは、ロイが左右の剣を鞘に戻していた。
他の者たちも、水を飲んだり、互いの動きを確かめたりしている。
少し前までは、揃って異界——亜霊道にいた連中だ。
それが今では、死神になるために同じ場所で訓練をしている。
未だに、妙な光景だと思ってしまう。
「姐さん、最近どうだ?」
長い黒髪を一つに束ねた男が、こちらへ歩いてくる。
怨屍だった頃の同胞、優だ。
「悪くはない。まだ少し、力の入れ方に慣れぬがな。お主はどうだ?」
「僕もだ。中々感覚が掴めない」
優は自分の手を開いたり閉じたりした。
「姐さん。この後、僕とも手合わせいいか?」
「ん、よいぞ」
「ありがとう」
優は嬉しそうに頷いた。
訓練場の向こうへ目を向けると、主様は訓練用の刀を手に、教官と何かを話していた。
いつも通りの、素っ気ない顔。
こちらに気づいた主様へ手を振ると、小さく顎を引いて返された。
妾も大太刀を脇へ置き、片手を開く。
掌の上に、小さな炎が灯った。
怨屍となってから手に入れた力。
今は、その熱を自分の意思で抑えられる。
炎は、もう恐ろしくない。
それでも、この色を見ると思い出すことがある。
梁が燃え落ちる音。
煙の向こうで、妾を呼んでいた声。
そして、そのずっと前。
髪を撫でてくれた者の手を。
——
「婆様!」
家の前を掃いていた老婆が、顔を上げた。
「おや、久瀬。またきたのかい」
「うん!母上が、今日はここにいてよいと言ったのじゃ!」
「そうかい。ちょうどよいところに来たのう。ほれ、お菓子があるよ」
差し出された手を取り、その家へ入る。
妾は、商いを営む家に生まれた。
食べるものにも、着るものにも困った覚えはない。
父上も母上も忙しかったが、帰ってくれば話を聞いてくれたし、欲しい物をねだれば、困った顔をしながら買ってくれることもあった。
この老婆は、そんな我が家の近くに住んでいた。
両親が手を離せない時には、よく妾の相手をしてくれていたのだ。
「ほら、こっちを向いてごらん」
「何じゃ?」
「髪が乱れておるよ」
口の中の菓子を飲み込み、背を向ける。
指が髪を梳き、解けかけた紐を結び直してくれた。
少し引っ張られて顔をしかめると、すぐに手が緩む。
「痛かったかい」
「ちょっと」
「すまないね。もう終わるよ」
その手は、母上のものより硬かった。
けれど、触れられるのは好きだった。
縁側に座り、菓子を食べながら取り留めのない話をした。
帰る時には、いつも門のところまで見送ってくれた。
「またおいで」
「うむ。また来る」
そう返すことに、何の疑いもなかった。
明日も、その次の日も。
呼べば、同じ声が返ってくると思っていた。
——
目を覚ました時、喉が痛かった。
焦げた臭いが鼻を刺す。
身体を起こそうとして、手首に痛みが走った。
「……何じゃ、これ」
縄が巻かれている。
見覚えのない部屋だった。
古びた板壁。
窓には外から板が打ちつけられ、戸も閉ざされている。
少し離れたところには、父上と母上がいた。
「母上……?」
母上が顔を上げる。
「久瀬!」
その声に、ようやく昨日のことを思い出した。
夜道を歩いていた時だった。
突然、後ろから口を塞がれた。
父上の怒鳴り声。
母上の叫び。
それから先は、ほとんど覚えていない。
「父上……此処はどこじゃ?」
「分からぬ」
父上が縄を解こうと身体を捩る。
「だが、まず此処を出る」
その時だった。
外から人の声が聞こえた。
「奴らばかり儲けやがって」
「それも、これでもう終わりだ」
聞き覚えのある声だった。
店へ来たことのある者。
道ですれ違ったことのある者。
何故。
何故、そんなことを言っている。
鼻を突く、油の臭いがした。
壁際には、油を染み込ませた藁が積まれている。
「……まさか」
父上の顔色が変わった。
次の瞬間、壁の向こうが明るくなった。
火が走る。
「久瀬!」
母上が妾へ身体を寄せる。
父上は縄を引き千切ろうと必死にもがいた。
「誰か! 開けろ!」
戸へ身体をぶつける。
一度。
二度。
だが、外から何かで塞がれているのか、びくともしなかった。
窓も板で塞がれている。
逃げ道など、初めから用意されていなかった。
炎が壁を這い、天井へ広がっていく。
熱い空気が肌を焼いた。
「いやじゃ……」
母上が妾を抱き寄せる。
「母上……怖い……」
「大丈夫。大丈夫だから……」
その腕も震えていた。
父上が何度も戸へ体当たりする。
やがて、頭上で大きな音がした。
「危ない!」
母上が妾を庇うように覆い被さる。
梁が落ちた。
熱い。
息ができない。
「母上……」
返事がない。
「父上……?」
もう、誰の声も聞こえない。
どうして。
妾たちが、何をしたというのじゃ。
ただ、家族で暮らしていただけなのに。
熱さも、苦しさも消えぬまま、目の前が暗くなった。
——
次に目を開けた時、妾は焼け落ちた家の中に立っていた。
知らない家だった。
屋根は落ち、柱は黒く焼けている。
その中に、父上と母上が倒れていた。
二人は妾を守るように被さっていた。
『……母上』
呼びかけても、返事はない。
触れようとした手が、その身体をすり抜けた。
『母上……?』
もう一度手を伸ばす。
同じだった。
抱き起こすこともできない。
父上へ触れることもできない。
その時、焼け跡の外から声が聞こえた。
「これで、少しはましになる」
振り返る。
昨夜、外にいた者の一人だった。
他にも数人いる。
焼け落ちた家を眺めながら、誰かが笑っていた。
胸の奥が、熱くなる。
何が、ましになるというのじゃ。
父上も母上も死んだ。
妾も死んだ。
それを見て、何故そんな顔ができる。
気づいた時には、男の足元から炎が噴き上がっていた。
「うわああっ!」
悲鳴が響く。
男は火を払おうとした。
だが、手を振れば袖へ燃え移り、転がれば周囲の草へ広がった。
妾を焼いた火と、同じ色だった。
怖がればよいと思った。
妾たちがどれほど熱かったか。
どれほど苦しかったか。
お主らも知ればよい。
逃げ出した者がいた。
『待て』
妾は、その後を追った。
どこへ行くのかは分かっていた。
村だった。
妾が生まれ育った場所。
逃げ込んだ男の背へ向けて、炎を放つ。
火は男を呑み込み、そのまま近くの家へ燃え移った。
人が飛び出してくる。
その中に、見覚えのある顔がいた。
昨夜、妾たちを攫った者。
あの声を上げていた者。
『お主も……!』
炎が走る。
だが、火はその者だけを焼いてはくれなかった。
屋根へ燃え移り、隣の家へ広がっていく。
風に煽られ、さらに向こうへ。
泣き声がした。
妾より小さな子が、母親に抱かれていた。
あの子ではない。
そのつもりだった。
けれど、炎は止まらなかった。
『待て……』
伸ばした手の先で、さらに火が膨れ上がる。
怒りも、悲しみも、恐ろしさも。
何もかもが炎になり、妾の周りへ溢れていった。
『やめろ……もう、やめてくれ……!』
誰も答えなかった。
ただ、燃える音だけが続いていた。
——
火が収まった後、妾は村を歩いた。
黒くなった家。
崩れた塀。
道に落ちた、持ち主のいない履物。
見慣れていたはずの道が、まるで別の場所になっていた。
それでも、一軒の家の前で足が止まった。
門の脇に、小さな箒が倒れていた。
『……婆様?』
返事はない。
崩れた入口の近くに、人が倒れていた。
見覚えのある着物が、僅かに残っていた。
妾の髪を整えてくれた手は、もう動かなかった。
あの人は、何もしていない。
父上にも母上にも、いつも笑って挨拶をしていた。
妾には菓子をくれた。
泣けば、隣に座ってくれた。
昨夜の声の中にも、あの人の声はなかった。
『婆様……』
膝をつく。
またおいでと、言ってくれたのに。
妾は、その家を焼いた。
妾を迎えてくれた人を、自分で殺した。
何をした。
妾は、何をしたのじゃ。
家族を焼いた者たちを憎んだ。
その妾が、あの者たちと同じことをしていた。
小さな手を見下ろす。
そこに火が灯りかけ、慌てて握り潰した。
こんなものが、自分であるはずがない。
でも、目を背けても、焼け跡は消えなかった。
こうして妾は、化物になった。
——
それでも、妾は消えずに残った。
帰る家も、待つ者もいない。
幼い姿のまま、幾度も季節を見送った。
やがて異界に行き、襲ってくる怨屍と戦うようになった。
喰われぬために斬り、焼き、倒した相手を喰らう。
炎は強くなっていった。
いつしか、身の丈よりも大きな刀も手に入れた。
だから何だというのだ。
強くなったところで、焼いた者が戻るわけでもない。
人間は嫌いだった。
父上と母上を殺した。
妾から何もかも奪った。
けれど、すべてを憎もうとするたび、婆様の顔が浮かんだ。
あの人も、同じ人間だった。
他にも、妾を可愛がってくれた人はいた。
それを思い出すことが、何より苦しかった。
——
主様と出会ったのは、そのような頃だった。
岩陰で休んでいた妾の前を、一人の怨屍が通りかかった。
姿は人そのもの。
だが、纏う霊力はそれまで出会ったどの怨屍よりも深く、底が知れなかった。
妾は大太刀を引き寄せ、立ち上がった。
『何用じゃ』
相手が足を止める。
『用などない』
そのまま歩き出そうとするので、かえって戸惑った。
この場所では、近づく者は大抵、妾を喰おうとする。
そうでなければ、妾を見て逃げていく。
どちらでもない者は、珍しかった。
『……妾を、喰わぬのか』
『何故だ』
『怨屍じゃろう』
『だから何だ』
問い返され、言葉に詰まる。
相手は近くの岩へ目を向けた。
妾が焼いた跡が、黒く残っていた。
『お前の炎か』
『……そうじゃ』
柄を握る手に力がこもる。
『妾は、人を焼いた』
『そうか』
『妾を殺した者だけではない。何もしておらぬ者までじゃ』
『そうか』
それだけだった。
驚きもしない。
褒めもしない。
『……何故、何も言わぬ』
何を言われたかったのか、自分でも分からぬ。
酷いことをしたと。
化物になったのだと。
そう言われれば、そうだと頷けたのかもしれない。
『殺したからといって、お前の全てが変わったわけではない』
顔を上げる。
『……妾は化物になった』
優しかった人まで焼いた。
今では、他の怨屍を喰らって力を得ている。
もう、菓子を貰って喜んでいた頃の妾ではない。
相手は、微かに目を細めた。
『なら、俺も同じだ』
『……何?』
『俺も人間に殺された。恨んで怨屍となり、人を殺した』
ただ、淡々と男は告げた。
妾は、その顔を見つめた。
『一度死んだ身だ。これからどうするかくらい、自分で決めればいい』
『……妾が、決めてよいのか』
『他に誰が決める』
そう言って、相手は再び歩き出した。
妾を許すとは、一言も言わなかった。
殺した者のことを忘れろとも、悪くないとも言わなかった。
それでも、ここにいる妾を消そうとはしなかった。
『待て』
気づけば、呼び止めていた。
大太刀を担ぎ、後を追う。
『……ならば、妾はお主についていく』
相手が振り返った。
少しだけ妙な顔をしたが、すぐに前を向く。
『……好きにしろ』
妾は頷き、その背中についていった。
——
それから、千年以上の時が流れた。
主様の名を知り、他の者たちとも出会った。
戦いを重ねるうちに、妾も肆禍となった。
主様は、妾に側へいろと命じたことはない。
だが、離れようと思ったこともなかった。
腹が立てば言い返し、気に入った物があれば見せに行く。
話を聞いておるのかと問い詰めれば、ちゃんと内容を覚えている。
そういう時間が、少しずつ増えていった。
村を焼いた記憶がなくなったわけではない。
それでも、主様の後ろを歩いている間は、次に何をするかを考えられた。
だから、主様が怨屍としての生を終えると決めた時も、妾に迷いはなかった。
『主様が行くのであれば、妾も行く』
主様のいないあの場所へ、一人で戻る理由などない。
彰の刀が核を砕いた時、身体の奥にあった熱が、解けるように広がった。
長く纏っていたものが剥がれ、意識が遠のいていく。
次に気づいた時には、もう怨屍の身体ではなかった。
やがて、主様も同じ場所へ来た。
妾は、その袖を掴んだ。
今度は、手がすり抜けることもなかった。
——
「久瀬。炎が揺れているぞ」
主様の声で、顔を上げた。
掌の炎が、少し大きくなっている。
息を吐き、霊力を整えると、元の小さな火へ戻った。
「考え事か」
「……少しな」
主様は、それ以上聞かなかった。
妾も炎を消し、大太刀を手に取る。
休憩は終わり。
その後の訓練では、約束通り優と一戦交えた。
院生相手とは違い、遠慮なく踏み込める。
久々に、腕が鳴る相手だった。
訓練が終わる頃には、腕にも足にも、程よい疲れが残っていた。
大太刀を下ろし、近くにいた主様へ声を掛ける。
「主様」
「何だ」
武器を片づけ始めた院生たちへ目を向ける。
「……妙なものじゃな」
「何がだ?」
「少し前まで、妾たちは死神に斬られる側だった。それが今では、死神になるためにこうして稽古をしておる」
主様は周囲を一瞥した。
「今度は斬る側になる。それだけだろう」
「……主様らしいのう」
思わず笑う。
それで済むほど簡単でもなかろう。
主様は昔から、物事をそう割り切るところがある。
失った者が、生き返るわけではない。
父上や母上、そして婆様の手を、もう一度取ることはできない。
あの時は仕方がなかったと、自分に言い聞かせるつもりもなかった。
それでも、今、掌にある炎をどう使うかは、妾が決められる。
「何だ」
「いや。何でもない」
主様が訝しげに見るので、首を振る。
怨屍として得た生では、この人についていくことを選んだ。
人へ戻った今も、その気持ちは変わらない。
誰に命じられたわけでもない。
妾が、そうしたいと思ったのだ。
「……そうだ、今度彰が来たら聞いておくか」
「何をじゃ?」
「颯斗の様子だ。鍛錬は続けているのだろうが、あれからどうしているかと思ってな」
主様を見上げた。
「……またあやつの話か」
あれから、主様は彰と会っては、あの小僧——颯斗のことを聞いていた。
そして、いずれは自分もあやつに指南するのだと言っていた。
主様の兄の子なのだから、気に掛ける理由もわかる。
あやつを守ると決めたことも知っている。
とはいえ、こうも何度も話に出されると、何となく面白くない。
「何だ。妬いているのか?」
「妬いてなどおらぬ!」
すぐに言い返したのに、主様は笑った。
その顔が、余計に気に入らない。
「……今日も誰にも負けなかったぞ」
「見ていた」
「術の制御も前よりできるようになった」
「ああ。よく抑えていたな」
言葉が止まる。
不意に、頭へ手が乗った。
一度だけ撫でられ、驚いて顔を上げる。
その時にはもう、主様はロイたちの方へ歩き出していた。
「帰るぞ」
「……うむ」
妾は大太刀を担ぎ直した。
千年以上前、炎の中で、全てが終わったと思った。
その後も生きている自分を、酷く醜いものだと思っていた。
だが、今は帰る場所がある。
明日、顔を合わせる者たちもいる。
「久瀬、置いていきますよ」
ロイの声がした。
「今行く!」
返事をし、数歩先にいる主様の背中を見る。
誰に命じられたわけでもない。
今の生き方も、妾自身が選んでいる。
ただ、昔とは違うこともある。
今度は誰かを焼くためではなく、救うためにこの力を使う。
掌に小さく灯した炎を握り消し、主様たちの後を追った。




