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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
1章

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55話 遠き日の面影 - ロイ視点

 子供の笑い声が、まだ耳に残っていた。


 主様たちと、黄泉の街を歩く。


 人へ戻ってから、こうして街を歩くことにも少しずつ慣れてきた。


 腹が減ること。

 疲れれば休みたくなること。


 どれも、怨屍だった頃には意識することのなかった感覚だった。


 ふとした瞬間、自分が再び人として生きていることを忘れそうになる。


「——じゃろう。のう、ロイ?」

「え……あ、はい。そうですね」


 返事はしたものの、何の話をしていたのかほとんど頭に入っていなかった。

 

 先ほど見かけた、三人の姿が頭から離れない。


 父と母の間で、両手を繋がれていた子供。

 話を聞くために身を屈めた父親。

 その二人を見て、笑っていた母親。


 どこにでもいる家族だった。


 けれど、私にも、あのように歩いていた日があった。


 もう、何百年も前のことだ。


「椿……」


 誰にも届かぬほどの声で、その名を呼ぶ。


 一度も忘れたことはない。


 名前も、顔も。

 私を呼ぶ時の、あの声も。


 ——


 私が日本へ渡ったのは、十七世紀のことだった。


 英国の侯爵家に生まれ、暮らしに困ることはなかった。

 それでも、生まれた土地で知り得ることだけが、世の全てだとは思えなかった。


 海の向こうに、何があるのか見てみたかった。


 そんな折、知人の一人が東の国へ渡ると聞いた。


 迷う理由はなかった。

 私も同行したいと申し出ると、幸いにも受け入れてもらえた。

 

 長い船旅の末、オランダ船から降り立った異国の地は、何もかもが違って見えた。


 建物の造り。

 人々の衣服。

 通りに漂う食べ物の匂い。


 交わされる言葉は、どれも聞き取れなかった。


 こちらへ興味を示し、話しかけてくる者もいた。

 遠巻きに眺める者も、露骨に顔を背ける者もいた。


 髪も、目の色も違う。


 珍しがられることには慣れたが、言葉が伝わらないのには困った。


 椿と出会ったのも、そうして言葉に苦労していた頃だった。


 道を尋ねようとして、うまく説明できずにいた私へ、彼女は足を止めた。


 何度も言い直す私の言葉を、急かさずに聞いていた。


「……ああ、そっちへ行きたいの?」


 指さされた方を見て、頷く。


 椿は笑い、自分もそちらへ行くのだと身振りで示した。


 それだけの出会いだった。


 私を見て怯えることも、髪に勝手に手を伸ばすこともない。

 

 言葉の通じにくい相手として、少しゆっくり話してくれる。


 それが、ありがたかった。


 何度か顔を合わせるうちに、椿は私へ言葉を教えるようになった。


 私が知らないものを指すと、その名を答えてくれる。

 同じ言葉を繰り返すと、発音が違うところを直してくれた。


「箸」

「……はし」

「それだと、川に架かっている方」


 椿が笑う。


 私には、殆ど同じに聞こえた。


 納得できずにもう一度繰り返すと、彼女は二本の箸を持ち上げ、丁寧に言い直した。


「こっち。箸」

「箸」

「そう、それ」


 頷いてもらえた時は、妙に嬉しかった。


 私も、自分の国の言葉を教えた。


 今度は椿が眉を寄せ、聞き慣れない音を口にする。


 笑いそうになると、すぐに睨まれた。


「今、変だと思ったでしょう」

「少しだけ」

「ロイだって、さっき間違えたのに」


 そう言いながら、椿も楽しそうだった。


 食べ物や家の造りについて話せば、互いに驚くことばかりだった。

 話したいことが増え、言葉を覚えるのも早くなった。


 用事がなくても、彼女を捜すようになった。


 椿の方も私を見つけると、手を止めて顔を上げてくれた。


 その笑顔を見るために、遠回りをしたこともある。


 気づけば、椿と過ごす時間が何より楽しみになっていた。


 ——


 椿と出会って、二年が経った。


 その頃には、私たちは同じ家で暮らすようになり、この国にも帰る場所ができていた。


 生まれ育った家より、ずっと小さな家だった。


 雨の強い日には、屋根の一角から水が落ちた。

 風が入る場所を塞ぎ、使いにくい棚を直し、二人で少しずつ手を入れた。


 娘が生まれると、家の中はさらに賑やかになった。


 初めて抱いた時は、腕の置き方さえ分からなかった。

 椿に支えられながら、小さな身体を恐る恐る抱えた。


 柔らかな指が、私の指を握った。


 それだけで、動けなくなった。


「そんなに固くならなくても大丈夫よ」

「……あまりにも小さくて」

「そりゃ、赤ん坊だもの」


 椿は可笑しそうに目を細めた。


 あの子が歩くようになってからは、帰宅するたび、足元へ飛びついてきた。


 抱き上げると、私の髪を引っ張った。

 痛いと言っても、嬉しそうに笑うばかりだった。

 椿はそれを見て、手を離すように言っていた。


 そんな日々が続くのだと思っていた。


 私にとって大切なのは、遠い国の家柄でも、持って生まれた立場でもなかった。


 戸を開けた時に、こちらを振り返る二人だった。


 ——


 村の中には、椿が外国の出である私と暮らしていることを、快く思わない者もいた。


 最初は、聞こえるように陰口を言われる程度だった。


 椿は気にしなくてよいと言った。

 私も、その言葉に甘えていたのだと思う。


 だが、挨拶をしても返されなくなった。

 以前は応じてもらえた頼み事を、断られるようになった。


 椿が近づくと、話をしていた者たちが口を閉ざす。


 それでも彼女は、家へ戻ると普段と同じように振る舞っていた。


「今日は、何かありましたか」

「……何もないわ」


 椿はいつものように笑った。


 何もないはずがなかった。


 ある日、子供が泥だらけになって帰ってきた。


 転んだのかと尋ねても、首を振るだけだった。

 膝や手の平には擦り傷があった。


 椿が手を洗ってやると、あの子は小さな声で尋ねた。


「私の髪、変なの?」


 椿の手が止まる。


 私はその場にしゃがみ、その顔を見た。


「変ではないよ」

「でも……」


 小さな頭を撫でる。


 あの子は暫く俯いていたが、やがて私の服を掴んだ。


 私はその手を、離せなかった。


 夜、子供が眠った後で、椿と話をした。


「ここを出ましょう」

「……出て、どうするの?」

「別の土地で暮らすんです。三人で。この国が無理なら、私のいた国に行きましょう。あの人たちならきっと……」


 椿は眠っている子供へ目を向けた。


 生まれ育った場所を離れることに、迷いはあったのだろう。

 それでも、最後には頷いてくれた。


 私は荷物をまとめ始めた。


 もっと早く、そうするべきだった。


 ——


 戸が壊された音を覚えている。


 椿が子供を抱き寄せたことも。

 私が二人を背後に庇い、前へ出たことも。


 何人いたのかは、覚えていない。


 話をしようとしても、聞く者はいなかった。

 出ていくと言っても、もう遅いと返された。


 振り上げられた刃を避け、一人を押し返す。


 その間に、別の者が横を抜けた。


「椿!」


 振り返ったところで、背中へ衝撃が走った。


 膝が落ちる。

 立ち上がろうとした手を踏まれた。


 子供の泣き声が聞こえた。


 椿は、あの子を離さなかった。

 誰かが腕を引いても、抱き締めたまま首を振っていた。


「やめろ!」


 叫んだ。


 何でもする。

 私だけなら、どうなっても構わない。


 二人には、何もしないでほしかった。


 しかし、私の声が聞き入れられることはなかった。


 手を伸ばした先で、椿が倒れる。


 子供の声が途切れる。


 私は床を這い、二人へ近づこうとした。

 だが、指先は、椿の袖にすら届かなかった。


 何故、椿が殺されなければならなかった。


 何故、あの子まで。


 誰に何をしたというのか。


 視界が暗くなっていく。


 自分が死ぬことよりも、二人が動かないことが恐ろしかった。


 椿。


 返事をしてほしい。


 いつものように、名前を呼んでほしかった。


 雨音だけがやけに耳に残っていた。


 ——


 気が付いた時、足元には青白く冷えた自分の身体が横たわっていた。


 その先には、椿と娘。


 そして家の外には、私たちを殺した者たちの亡骸が転がっていた。


 壊れた戸。

 倒れた器。

 子供のために作った、小さな木の玩具。


 守りたかったものは、何一つ戻っていなかった。


 何が起きたのかは、考えるまでもなかった。


 怒りも、憎しみも、確かに残っていた。

 それなのに、胸の内はひどく空っぽだった。


 殺したところで、椿は戻らない。

 あの子も、もう私の名を呼ばない。


 全て失った後に残ったのは、自分だけだった。


 何故、自分だけが残っているのか。

 その理由を考える気力すら、当時の私には残っていなかった。


 ——


 いつしか、異界へ身を置くようになっていた。


 そこでは、弱い者が強い者に喰われる。


 何もせずに立っていれば、襲われた。

 退けても、別の怨屍が来た。


 斬り、倒し、喰らった。


 生き残るためだった。


 だが、何のために生き残りたいのかと問われれば、答えられなかっただろう。


 復讐はとうの昔に終わっていた。


 帰る家も、待つ者もいない。

 それでも、喰われることだけは受け入れられなかった。


 二本の剣を振るい続けた。


 一方で受け、もう一方で斬る。

 正面から通らなければ、角度を変える。

 水を刃へ纏わせ、届かない相手へ放つ。


 戦うたびに、できることが増えていった。


 何年が過ぎたのか。

 いつから、周囲の怨屍が私を避けるようになったのか。


 数えなくなって、久しかった。


 ハジメ様と出会ったのは、そのような頃だった。


 一目で、それまでの相手とは違うと分かった。


 黒い髪に、同じ色の瞳。

 人に近い姿をした怨屍が、こちらを見ていた。


 その身に宿る霊力の深さが、測れない。


 私へ襲いかかる様子はなかった。

 ただ、進む先に私がいたため、足を止めたようだった。


『退(ど)け』


 低い声がした。


 私は動かなかった。


 この相手に、自分の刃は届くのか。


 久しく覚えていなかった関心が湧いた。


『一度、お相手願えますか』


 二本の剣を抜く。


 黒い瞳が、私の手元へ向いた。


『ほう、俺に挑むか』

『ええ』


 相手は短く息を吐き、刀へ手を掛けた。


『来い』


 踏み込んだ。


 右の剣を斜めに振り下ろし、左を脇腹へ通す。


 刀が右の剣を受け流した。

 同時に身体を捻られ、左の刃が空を切る。


 そのまま回転し、背へ斬りつけた。


 届かない。


 斬撃を避ける動きは小さい。

 それなのに、次の一撃を入れようとする頃には、私の方が体勢を崩されていた。


 剣へ水を纏わせる。


 距離を取り、水刃を放った。

 それを追うように、もう一方の剣を振るう。


 相手の足元で、影が立ち上がった。


 水刃が砕かれる。


 黒い刃がこちらへ伸び、私は左右の剣で弾いた。

 その直後、足首へ影が絡みついた。


 引き剥がすより先に、刀が迫る。


 咄嗟に二本の剣を重ねた。


 衝撃が腕を抜けた。

 片方の剣が手を離れ、地面へ落ちる。


 残る剣を返すこともできなかった。


 気づけば、私は倒れていた。


 首元へ、刀が突きつけられている。


 完敗だった。


 積み上げてきた技術も、喰らって得た力も、この相手には及ばなかった。


 動けば終わる。


 そう思った時、切っ先が離れた。


 影が足首から解ける。


 相手は刀を収め、そのまま背を向けた。


『……何故、殺さない』


 呼び止めると、男は顔だけをこちらへ向けた。


『殺す必要がないからだ』


 それだけだった。


 私を倒した。

 喰らおうと思えば、できるはずだった。


 それなのに、何も奪わずに去ろうとしている。


 私は身体を起こした。


 自分から挑み、敗れ、見逃された。

 屈辱よりも、目の前の相手への疑問が強かった。


『……ならば、貴方に付き従いましょう』


 今度は、相手が振り返った。


『何故だ』

『私を打ち負かした者が、何を求め、どこへ行くのか。興味が湧きました』


 黒い瞳が、私を見下ろす。


 暫くして、短い答えが返った。


『好きにしろ』


 私は落ちた剣を拾い、その後を追った。


 ——


 初めは、ただその背を追っていた。


 共に過ごすうちに、口数は少なくとも、何も考えていないわけではないと分かった。


 理不尽を嫌い、従えとは言わない。

 ついてくる者が何かを語れば、黙って聞いていた。


 こちらへ何も尋ねない日も多かった。


 触れたくないことまで、口にせずに済んだ。


 それが、私には心地よかった。


 気づけば、ただ行き先を知りたいだけではなく、その先を妨げるものがあるなら私が退けたいと思うようになっていた。


 誰かに命じられたわけではない。


 私自身がそう決めたのだ。


 主(あるじ)と呼ぶようになったのが、いつだったかは覚えていない。


 呼びかけた時、いつもと同じように振り返られた。

 それだけは、覚えている。


 それからも、長い時間を傍で過ごした。


 主が怨屍としての生を終えると知った時も、私の答えは変わらなかった。


 同じところへ行きたい。


 それだけだった。


 死神の男——彰に核を砕かれた時、抵抗しようとは思わなかった。


 黒く澱んだ霊力がほどけ、怨屍としての身体が崩れていく。


 次に意識がはっきりした時には、もうあの身体ではなかった。


 やがて、主も同じ場所へ来た。


 そして、私自身も確かに残っていた。


 ——


 意識を戻せば、周囲には人の声が満ちている。

 彼処にはなかった、食事の匂いがする。


 私は自分の手を見た。


 もう、怨屍の身体ではない。


 誰かを喰らわなくても、争わなくても、ここに立っていられる。


 家族を奪った者たちへの憎悪は、長い年月の中で、少しずつ薄れていたのだろう。


 怨屍となった私が、彼らを殺した事実も忘れてはいない。


 それでも、今、椿を思い出して最初に浮かぶのは、あの家で倒れていた姿ではなかった。


 箸を持ち、発音を教えてくれた顔。

 子供を抱く私を見て、笑っていた姿。

 帰宅した私へ、手を止めて向けてくれた目。


 なぜ奪われたのかと考えるより先に、会いたいと思っていた。


 黄泉へ来てから、魂が転生していくという話を聞いた。


 現世での生を終え、黄泉へ来る。

 そして、再び現世へ。


 それならば。


 椿も、どこかでまた生きているのだろうか。


 あの子もまた、誰かに手を引かれて歩いているのだろうか。


 違う姿かもしれない。

 別の名前で、別の家族と暮らしているかもしれない。


 私のことなど、きっと覚えていないだろう。


 魂そのものが失われていないのなら、もう一度、会ってみたいと思った。


 私を思い出してくれなくても構わない。

 どこかで無事に、笑って暮らしているのなら……それを確かめたかった。


 彰から死神へ誘われた時は、主と同じ道を選ぶ気持ちが大きかった。


 人へ戻った私に何ができるのか、試してみるつもりでもあった。


 だが、今はそれだけではない。


 死神になれば、活動する範囲は今よりずっと広がる。

 多くの人や魂と接する機会もあるだろう。


 都合よく巡り会えるとは思わない。


 どのように捜せばよいのかも、分からない。


 何も望まずに剣を振るっていた頃とは違う。


 今度は、自分から動いてみてもよいのかもしれない。


「ロイ。どうした」


 肇様が振り返っていた。


 いつの間にか、少し距離が開いていたらしい。


「いえ」


 足を速め、隣へ並ぶ。


「また昔のことを考えていたのか」

「少しだけ」


 通りを振り返る。


 先ほどの家族は、もう見えなかった。


 それでも、椿の顔は、はっきりと思い出せた。


「主」

「何だ」

「死神になれば、現世へ行く機会は多いのでしょうか」

「……どうだろうな」


 肇様がこちらを見る。


「行きたいところでもあるのか」


 私は笑った。


「少し、捜してみようかと思いまして」

「何をだ?」

「……昔、失ったものを」


 肇様は、何も言わず私を見ていた。


 やがて前へ向き直る。


「そうか」


 それ以上は、尋ねられなかった。


 先で待っている久瀬たちのもとへ歩いていく。


 明日も、講義がある。

 今の身体で剣を扱い、死神として必要なことを覚えなければならない。


 実際に任務へ出るには、まだ時間がかかるだろう。


 それまでにできることは沢山ある。


 椿。


 今度は、復讐のためではない。


 いつか、貴女に会うために。

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