52話 肇との再会
『旅行か。随分と呑気なものだな』
振り返る。
街灯の光が届く道の端に、男が立っていた。
黒い髪に、黒い瞳。
着物の上から羽織を纏ったその姿を見た瞬間、身体が強張る。
あの時の終禍だ。
刀を顕現させると同時に、一歩後ろへ下がった。
『そう身構えるな。今日は貴様を殺しに来たのではない』
「……それを、信じろって?」
刀を握る手に力が入る。
刃を受け止めた時の重さも、何もできずに追い詰められた感覚もまだ覚えていた。
男は俺の刀へ目を落とした。
けれど、自分の武器を出そうとはしない。
『話がある』
「……」
『……あの死神を呼べ。その方がまだ安心できるだろう』
彰さんのことだろう。
表情を窺う。
苛立っている様子も、こちらへ踏み込んでくる気配もなかった。
それでも、刀は下ろせない。
家にはばあちゃんがいる。
隣には、紗奈たちもいるのだ。
「……先に場所を変えたい」
『構わん』
あっさりと頷かれた。
俺は男から目を離さないまま、空いた手で通信機器を取り出した。
——
河川敷へ着いてから、さほど待たずに彰さんが現れた。
「颯斗君。怪我は?」
「ありません」
「なら良かった」
彰さんは俺の隣へ立つと、男へ視線を向けた。
口元には薄く笑みが浮かんでいる。
だが、その手にはすでに刀が握られていた。
「それで、何用かな。まさか、そちらから会いに来るとはね」
『争うつもりはない』
「前回のことがある。言葉だけで信用するのは難しいかな」
彰さんは、俺より僅かに前へ出た。
「それで、話というのは?」
男が俺を見る。
『前に貴様へ言ったことだ』
「俺が、お前の兄を殺したって話か」
『ああ』
黒い瞳が、俺の右耳へ向いた。
『俺は、貴様が兄者を殺し、その霊力を奪ったのだと思っていた』
「……」
『しかし、今は違うと分かっている。……兄者は、貴様の中にいる』
彰さんからも、似たような話は聞いていた。
あの時、俺の様子が変わり、別人のように戦っていたことも。
だが、自分では何も覚えていない。
『そういえば、名乗っていなかったな。俺の名は、ハジメだ』
ハジメ。
その名前には、覚えがあった。
療養中に目を覚ました時、何故か知っていた名前。
この終禍が、いつかまた俺の前へ現れるということも、確かに覚えていた。
けれど、誰から聞いたのかだけは思い出せない。
「……ハジメ」
『何だ』
「いや」
小さく首を振る。
名前を知っていたからといって、目の前の男への警戒が消えるわけではなかった。
「その、兄さんも怨屍なのか?」
『そうだ。少なくとも、俺と別れてからも、長くその姿で生きていた』
「どうして、その人が俺の中に?」
『知らん』
ハジメは目を細めた。
『だが、あの時、俺の前へ現れたのは間違いなく兄者だった』
あの時。
俺が意識を失った後、何を話したのだろう。
聞きたいことは幾つもあるのに、何から尋ねればいいのか分からなかった。
隣の彰さんは、黙って話を聞いている。
「……どうして、怨屍になったんだ?何かあったのか?」
ハジメは遠くを見た。
『二千年以上も昔の話だ』
やがて、ハジメが口を開いた。
『俺たちは、同じ日に生まれた。そして、村の者どもに殺された』
——
兄が隣にいることは、当たり前だった。
朝になれば顔を合わせ、くだらないことで言い合い、腹が減れば共に飯を食べる。
俺が腹を立てていても、兄者は大抵、いつもの調子で話しかけてきた。
それが時には鬱陶しくもあった。
だが、次の日も、その次の日も、そうして生きていくものだと思っていた。
あの日までは。
最近は日照り続きで、雨が三月以上降っていなかった。
そんな中、家に村の者どもが押しかけてきた。
「動くな」
背中を踏みつけられ、顔が土へ押しつけられた。
後ろ手に縛られた腕が痛む。
身を捩ると、足に込められる力が増した。
「なんだお前ら!俺たちが何をしたっていうんだ……!」
土を吐き出しながら、顔を上げようとする。
周りを囲んでいるのは、知った顔ばかりだった。
昨日まで言葉を交わしていた者もいる。
誰も、まともに目を合わせなかった。
災いだの、村のためだの、水神さまへの供物だの。
口にする言葉は違っても、俺たちを殺すという結論だけは変わらなかった。
何を叫んでも、聞き入れられなかった。
「兄者……!」
少し離れた場所に、兄者が倒れていた。
こちらへ顔を向けている。
何かを言おうと、唇が動いた。
その声を聞く前に、俺の前へ男が立った。
手にしているものを見て、息が止まる。
男は、俺の顔から目を逸らした。
殺すつもりなら、俺を見ろ。
そう叫ぼうとした。
だが、声になることはなかった。
——
次に目を開けた時、痛みは消えていた。
縄も、背中を押さえつける足もない。
起き上がり、足元を見た。
俺が倒れていた。
少し先には、兄者もいる。
どちらも動かなかった。
村の者どもは、背を向けて歩いていた。
面倒な仕事を済ませた後のように。
それを見て、ようやく分かった。
俺たちは、殺されたのだ。
何もしていないのに。
何を言っても、聞いてもらえないまま。
あいつらは、家へ帰るのだろう。
飯を食べ、眠り、明日になればまた起きる。
俺たちから奪った日常を、自分たちだけは当たり前のように続けていく。
何故だ。
何故、俺たちだけが。
胸の奥から、黒い感情が湧き上がった。
怒りに任せて伸ばした手には、黒い靄が纏わりついていた。
自分のものとは思えない力が、身体の内側へ満ちていく。
誰かが振り返った。
その顔が恐怖に歪むのを見て、自然と口角が上がった。
今更、恐れるのか。
俺たちの声には、耳も貸さなかったくせに。
そこから先のことは、今でもよく覚えている。
一人も逃がさなかった。
手を下した者も、見ていた者も、その場にいなかった者さえも。
泣いていた。
許してくれと、叫んでいた。
それでも、その声に耳を貸すことはなかった。
やがて、村から声が消えた。
それでも、胸の中にあるものは消えなかった。
俺も兄者も、もう元には戻れない。
それくらいのことは、分かっていたはずなのに。
「肇」
背後から、声がした。
振り返ると、兄者が立っていた。
俺と同じように、死んだはずの身体を離れて。
兄者は村を見渡し、それから俺を見た。
何か言われると思った。
だが、兄者は何も言わなかった。
俺は、その顔を見ていられずに目を逸らした。
——
『それが、始まりだ』
ハジメの声で、意識が目の前へ戻る。
夜風が、羽織の裾を揺らしていた。
『村を滅ぼしたところで、何が変わるわけでもなかった。だが、俺はその後も怨屍として生き続けた』
「……お前の兄さんも?」
『ああ。暫くは共にいた』
淡々とした声だった。
理不尽に殺された。
その言葉だけでは分からなかったものが、少しだけ見えた気がした。
けれど、それでハジメのしてきたことを受け入れられるわけではない。
俺は殺されかけた。
あの襲撃では、俺以外にも傷ついた人がいる。
亡くなった人もいる。
目の前の男に同情する気持ちと、許せないという気持ちが、胸の中で入り混じっていた。
「それから、ずっと兄を捜し続けていたのか?」
『いや。お互い、束縛するような性格ではない。それぞれ好きに生きていた。姿を見ることがなくとも、霊力を辿れば、まだどこかにいることは分かったからな』
ハジメが、再び俺を見た。
『だが十四年ほど前、兄者の霊力が突然消えた』
「十四年前……」
俺が生まれた年に近い。
『死んだのだと思った。だが、何が起きたのかも分からぬままでは、納得できなかった。それで捜し始めた』
それまで、どこかにいると分かっていた相手が、突然いなくなった。
二千年以上も生きてきたこの男にとっても、それは見過ごせないことだったのだろう。
『捜しても、どこにも気配がなかった。それが先日、貴様の中から感じられた』
「だから、俺がその人を殺して、霊力を奪ったと思ったのか」
『……そうだ』
ハジメは否定しなかった。
隣で、彰さんが口を開く。
「颯斗君は、まだ十三歳だ。君の兄の霊力が消えた時期を考えれば、無理のある話だ」
『今なら分かる。だが、あの時は、それ以外何も目に入らなかった』
その言葉に、先ほど聞いた昔話が頭を過った。
何を言っても聞き入れてもらえず、理不尽に殺された。
それなのにあの時のハジメは、俺の言葉には耳を貸さなかった。
皮肉な話だと思った。
『言い訳をするつもりはない。貴様の言葉を聞き入れなかったのは、俺だ』
低い声が返ってくる。
言い訳をしてほしいわけではない。
今更謝られたところで、あの時の恐怖がなくなるわけでもなかった。
『そして俺は、兄者が守ろうとしている貴様を、この手で殺しかけた』
ハジメはそこで初めて俺から目を逸らし、足元へ視線を落とした。
『許しを求めるつもりはない。それを口にする資格もなかろう』
ハジメは静かに言った。
それに俺は、何も返せなかった。
許すとも、許さないとも、すぐには言えない。
だが、分かったような顔で頷くことだけはしたくなかった。
「……それを伝えるために来たのかい?」
彰さんが尋ねると、ハジメは小さく首を振った。
『それだけではない』
視線が、再び俺へ向けられる。
『二千年以上だ』
「え?」
『怨屍として、それだけ生きた。もう、十分だ』
その言い方に、胸の奥が落ち着かなくなる。
ハジメの顔に、怒りはなかった。
初めて会った時の、こちらを押し潰すような憎しみも感じられない。
『俺たちを殺した者どもは、とうにいない。あの村も、今は跡形すらない。それでも、俺だけは生き続けていた』
「兄さんを捜すために?」
『この十数年は、そうだったのかもしれん。……だが、兄者がここにいると分かった。消えたわけではなかった』
ハジメは、俺の顔を見つめた。
その目だけが、先ほどよりも少し穏やかに見えた。
『それが分かれば、もうよい。現世に未練はない』
「……何をするつもりなんだ?」
尋ねると、ハジメは俺の刀へ目を落とした。
『俺の、怨屍としての生を終わらせてほしい』
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「俺に……?」
『ああ』
思わず彰さんを見る。
彰さんは笑っていなかった。
刀を下ろすこともなく、ハジメを見据えていた。
「それなら、僕でもできる」
『分かっている』
「それでも、颯斗君を選ぶのかい?」
『兄者の魂を宿す者だ。その手で終えるのなら、それでよい』
俺を殺そうとして。
勘違いだと分かったら、今度は自分を斬れと言う。
勝手な話だ。
そう思うのに、目の前の男をただ突き放すこともできなかった。
「俺は、その人のことを何も知らない」
『それでもだ』
「その人が、本当に俺の中にいるのかだって、分からないんだ」
『俺には分かる』
ハジメは、迷いなく答えた。
『だが、貴様にとっては俺の都合でしかない。それも承知している』
刀の重さが、急に気になった。
身を守るために出したものだ。
また襲われるかもしれないと思って、握っていた。
その刃で、今度は目の前の相手を終わらせろと言われている。
すぐには答えられなかった。
『頼む、颯斗……俺の核を、お前の手で壊してくれ』




