4話 化け物との遭遇
見つかった。
そう理解した瞬間、硬直していた身体が弾かれたように動いた。
踵を返し、全速力で駆け出す。
背後で、地面を打つ重い足音がした。
腐臭が追い縋ってくる。
振り返る余裕はなかった。
背後から迫る足音と腐臭が、あの化け物に追われていることを嫌でも知らせてくる。
何故、俺なんだ。
あれは、一体何なんだ。
疑問は浮かんでも、答えを考えている暇はなかった。
捕まれば、殺される。
それだけは、確信できた。
住宅街を駆け抜け、角を曲がる。
道の向こうに、通行人が見えた。
一瞬、助けを求めようと口を開く。
だが、誰もこちらを見ていなかった。
あれほどの巨体が追いかけてきている。
足音も、鼻を塞ぎたくなるほどの腐臭もある。
それなのに、人々は何事もないように歩いていた。
「見えて、ないのか……?」
息の合間に呟く。
もしそうなら、助けを呼んでも意味がない。
それどころか、何も見えない人を巻き込めば、その人まで襲われるかもしれなかった。
家へも戻れない。
ばあちゃんがいる。
ようやく、また会えたのだ。
あんなものを連れて帰るわけにはいかない。
通行人のいる道を避け、別の角を曲がった。
足が重い。
三日も寝ていた身体は、思っていた以上に早く息が上がった。
胸が痛み、吸い込む空気だけでは足りなくなる。
背後の足音は、少しずつ近づいていた。
このままでは追いつかれる。
何処へ逃げればいい。
その時、飛翠さんの声が頭を過った。
『もし何かあったら、神社か寺へ逃げ込むといい』
「そうだ、神社……!」
此処からなら、そう遠くない。
何故、神社なのかは分からない。
だが、飛翠さんは何かを察していたようだった。
あの忠告は、こうなることを予想していたからなのかもしれない。
今は、他に頼れるものがない。
進む方向を変え、神社へ向かった。
背後から、濁った唸り声が響く。
口の中に鉄のような味が滲んでいた。
足が縺れかけ、前へ倒れそうになる。
どうにか踏み堪え、そのまま走った。
住宅の隙間から、石造りの鳥居が見える。
あと少しだ。
残っている力を振り絞り、鳥居へ向かう。
化け物の息遣いが、すぐ後ろで聞こえた。
首筋へ、生温い息が触れる。
振り返らない。
石段を駆け上がる。
最後の一段を蹴り、鳥居を潜って境内へ飛び込んだ。
「っ……!」
途端に、空気が変わった。
肌へまとわりついていた不快な気配が薄れる。
肺へ入る空気から、腐臭が消えた。
足がもつれ、地面へ手をつく。
荒い呼吸のまま、背後を振り返った。
化け物は、鳥居の外で止まっていた。
身体中の目が俺を睨み、幾つもの口が開閉している。
しかし、境内へは入ってこない。
長い腕が、こちらへ伸びた。
思わず身を引く。
だが、その指先は何もない空間で弾かれた。
黒ずんだ皮膚が裂け、煙が立ち上る。
化け物は腕を引き戻し、苦しげに身を捩った。
入ってこられないのか。
飛翠さんの言った通りだった。
神社が、本当に俺を守ってくれている。
「助かった……」
その場へ座り込む。
手足の震えが止まらなかった。
地面へついた指に力を込めても、上手く支えられない。
鳥居の外では、化け物がまだこちらを見ていた。
俺はそこから目を離せなかった。
暫くすると、化け物は境内へ入ることを諦めたらしい。
恨めしそうに睨んだ後、ゆっくりと道の向こうへ去っていった。
姿が見えなくなっても、すぐには動けなかった。
呼吸が少しずつ落ち着くのを待ちながら、今起きたことを整理する。
あれは、普通の生き物ではない。
街を歩く人々は、姿にも、足音にも、臭いにも反応しなかった。
誰にでも見えていたなら、今頃大騒ぎになっているはずだ。
他の人には見えず、俺には見える。
幽霊か、悪霊か、それとも妖怪か。
今までなら信じなかっただろう。
けれど、実際に追い回された後では、気のせいだと片づけられなかった。
一度死んだことと、関係があるのだろうか。
それとも、過去へ戻ったせいなのか。
正体も、俺を追ってきた理由も分からない。
ただ、この世界には、今まで知らなかったものがいる。
それだけは、認めるしかなかった。
——
境内を見回すと、拝殿の前に賽銭箱があった。
助けてもらったのだ。
礼もせず帰るわけにはいかない。
ポケットへ手を入れ、それから財布を持ってきていないことを思い出す。
あるのは、携帯電話と家の鍵だけだった。
「財布、持ってくればよかったな……」
まだ震えの残る足で立ち上がり、拝殿へ向かった。
賽銭は入れられないが、感謝を伝えることはできる。
鈴緒へ手を伸ばし、軽く揺らす。
澄んだ音が境内へ響いた。
二度深く頭を下げ、二度手を打つ。
神様、助けていただき、ありがとうございました。
もう二度と、あんな目には遭いたくありません。
ですが、もしまた襲われることがあったら、その時もどうか助けてください。
心の中で告げ、最後にもう一度頭を下げた。
顔を上げると、木々の葉が風に揺れていた。
化け物の足音も、唸り声も聞こえない。
その静けさに、ようやく肩の力が抜けた。
それからも境内に留まった。
化け物が戻ってくるかもしれない。
そう思うと、すぐに鳥居を出る気にはなれなかったのだ。
携帯で時間を確かめる。
化け物が去ってから、三十分ほど経っていた。
ばあちゃんには、十分もしないうちに帰ると言ってしまった。
今頃、心配しているだろう。
「……帰ろう」
拝殿へもう一度頭を下げ、鳥居へ向かう。
外の道を慎重に窺った。
化け物の姿はない。
腐臭も感じなかった。
意を決して、境内から出る。
春の風が、汗で冷えた頬を撫でた。
何度も周囲を確かめながら、俺は家へ急いだ。
——
門の前では、ばあちゃんが待っていた。
俺を見るなり、安堵したように胸を撫で下ろす。
だが、その表情はすぐに険しくなった。
「颯斗さん。すぐに戻ると言いましたよね」
「……大変申し訳ございません」
「……大変、申し訳ございません?」
ばあちゃんが、きょとんとした顔で俺を見つめた。
しまった。
上司に叱られた時の癖が、つい出てしまったらしい。
「あ、いや……ごめんなさい」
慌てて言い直すと、ばあちゃんは小さく息を吐いた。
「まったく……。心配したのですよ」
「うん。本当にごめん」
ばあちゃんは、それからも暫く小言を続けた。
病み上がりで、止められたのに勝手に出かけた。
しかも、約束した時間を大きく過ぎている。
完全に俺が悪い。
化け物に追われていたとは説明できず、ただ大人しく叱られるしかなかった。
けれど、ばあちゃんの声を聞いていると、帰ってこられたのだと、遅れて実感が湧いた。
——
夕食と風呂を済ませ、自室へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「疲れた……」
布団へ腰を下ろす。
病み上がりで全力疾走した足は、まだ重かった。
身体は休みたがっているのに、頭の中では明日のことを考えていた。
今日は神社へ逃げ込めた。
だが、次も同じように助かるとは限らない。
通学路なら、何処に神社があるか確かめておくことはできる。
けれど、学校の中で襲われたらどうする。
今日の神社までは距離がある。
周りには、生徒も教師もいるはずだ。
何処へ行っても、近くに神社や寺があるわけではない。
逃げる以外に手段がなければ、いずれ追いつかれる。
「どうにかしないと……」
まずは、何に襲われたのかを知りたい。
何故狙われたのかが分かれば、避ける方法もあるかもしれない。
相談相手として、最初に思い浮かんだのは飛翠さんだった。
あの人は、神社か寺へ逃げろと言った。
そして実際に、神社は俺を守ってくれた。
化け物について、何か知っている可能性は高い。
ただ、飛翠さんは神出鬼没だ。
屋敷を訪ねても、戻っているとは限らない。
明日、すぐ会える保証はなかった。
他に、神仏や心霊のことに詳しそうな人はいないだろうか。
記憶を辿るうち、一人の同級生が浮かんだ。
篠原雪。
神社の娘で、成人後には、巫女として家の神社を手伝っていたはずだ。
今の彼女が、何処まで知っているかは分からない。
それでも、俺よりは何かを知っているかもしれなかった。
「篠原さん、か……」
中学時代は、殆ど話したことがない。
授業で同じ班になった時に、必要な会話を交わす程度だった。
俺が女子へ積極的に話しかける方ではなかったし、彼女にも、少し近寄り難い雰囲気があった。
そんな相手へ、いきなり化け物の話をしたら、不審がられるだろうか。
その可能性はある。
だが、何もせずにいるよりはいい。
明日、話せる機会があれば声をかけてみよう。
飛翠さんにも、会えたら今日のことを聞く。
そこまで決めて、布団へ横になった。
学校へ行く準備は、もう終わっている。
今夜のうちに出来ることも、これ以上は思いつかなかった。
あの化け物が何なのか。
知らないまま、また襲われるわけにはいかない。
そう考えながら、目を閉じた。




