3話 外出
「颯斗っ、颯斗っ!」
切羽詰まった声が、遠くから聞こえてきた。
「颯斗っ、どうしたのです!」
肩を掴まれ、身体を何度も揺さぶられる。
沈んでいた意識が、急速に引き上げられていった。
「……ん、ばあちゃん?」
重い瞼を開く。
すぐ傍に、ばあちゃんの顔があった。
何かに怯えたように目を見開き、俺を覗き込んでいる。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「どうしたのではありません。貴方、ずっと胸を押さえて、苦しそうに魘されていたのですよ。まだ具合が悪いのではありませんか?」
胸へ手を当てる。
鼓動は少し速いものの、痛みも息苦しさもなかった。
夢を見ていたような気はする。
けれど、何を見ていたのか思い出せない。
美しい庭と、誰かの声。
その断片へ意識を向けた途端、肝心な部分が遠ざかっていった。
「夢を見てただけだと思う。身体は何ともないよ」
「本当に大丈夫なのです?」
「うん。もう苦しくもないから」
身体を起こして見せる。
ばあちゃんは俺の顔色を確かめ、ようやく小さく息を吐いた。
「……そうですか。お粥は食べられそうです?無理そうでしたら、下げますけれど」
「食べる」
考えるより先に答えていた。
ばあちゃんのお粥だ。
食べないという選択肢は、初めからなかった。
あまりの即答ぶりがおかしかったのか、ばあちゃんが小さく笑う。
「では、こちらへ置いておきますね。無理に全て食べなくてもよいのですよ」
「うん。ありがとう」
「食べ終わっていたら、お盆ごと部屋の外へ置いておきなさい。後で取りに来ますから」
ばあちゃんは、もう一度俺の顔を見てから立ち上がった。
襖が閉まり、階段を下りていく足音が遠ざかる。
相変わらず心配性な人だ。
そう思いながら、枕元の盆を机へ運んだ。
ばあちゃんが亡くなって、三年。
その前から長く入院していたため、手料理は五年以上口にしていない。
もう二度と食べられないと思っていた。
「いただきます」
手を合わせ、土鍋の蓋を開ける。
湯気と共に、米と出汁の柔らかな香りが立ち上った。
匙で一口分を掬い、冷ましてから口へ運ぶ。
昔と変わらない味だった。
穏やかな温かさが喉を通る。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
もう会えないと思っていた人が、今は階下にいる。
俺を心配して、こうして料理まで作ってくれた。
戻ってきたのだと、ようやく少し実感が湧いた。
この調子では、明日浩透と会った時、本当に泣いてしまうかもしれない。
そんなことを思いながら食べ進め、気づけば土鍋は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
もう一度手を合わせ、食器を盆へ戻した。
——
明日は、十三年ぶりの中学校だ。
この身体にとっては、数日休んだだけなのだろう。
けれど、二十六歳まで生きた俺には、随分と遠い昔の場所だった。
部屋の隅から学生鞄を引き寄せる。
時間割を確認し、必要な教科書やノート、体操着を詰めた。
勉強は、どうにかなるだろう。
全て覚えているわけではないが、授業を聞けば思い出せることも多いはずだ。
それより気になるのは、人間関係だった。
浩透のことは覚えている。
親しかった友人達の顔も思い浮かぶ。
だが、当時どんな話をしていたのか、誰とどの程度親しかったのか。
細かなところまでは曖昧だった。
昔から知っているつもりで余計なことを言えば、不審がられるかもしれない。
「……気をつけないとな」
鞄を元の場所へ戻し、畳へ寝転がる。
もう一度眠ろうかと思ったが、目を閉じても眠気は来なかった。
先ほどまで寝ていたのだから、当然かもしれない。
無心で天井を眺めていたが、いつまで経っても眠気は訪れない。
このまま寝転がっていても仕方がない。
そう思い、身体を起こした。
「少し、外でも歩いてみるか」
この町を離れてから、何年も経っている。
十三年前の街並みを、自分の目でも確かめたかった。
過去へ戻ったという現実を、まだ信じきれていないのだろう。
近所を少し歩くだけなら、大した負担にはならないはずだ。
着替えて携帯と家の鍵を持ち、食器を載せた盆と共に階下へ下りる。
台所で食器を洗って片づけ、洗面所へ向かった。
鏡の前に立ち、寝癖の残った髪を整える。
映っているのは、見慣れた大人の顔ではなかった。
まだ幼さが残り、肩幅も狭い。
「やっぱり、本当に戻ってるんだな」
十三年前の自分が、鏡の向こうからこちらを見返している。
その時、右耳で何かが光を反射した。
「ん?」
顔を近づける。
耳たぶの中央に、小さな黒い石が嵌まっていた。
「あれ……これ、いつから?」
指先で触れると、ひやりと冷たい。
自分でピアスを開けた記憶はない。
中学生だった頃も、こんなものは身につけていなかったはずだ。
けれど、見覚えはあった。
何処で見たのか。
誰から受け取ったのか。
思い出そうとすると、記憶へ霞がかかったように、肝心なところだけが分からなくなる。
夢の中で、誰かと会った。
何かを渡され、大事なことを言われた。
忘れてはいけない、何かを——。
「っ……!」
記憶を辿ろうとした瞬間、こめかみの奥に鋭い痛みが走った。
反射的に額を押さえる。
洗面台へ手をつき、目を閉じて耐えていると、やがて痛みは引いていった。
「また、頭痛……」
やはり、外出は控えた方がいいのかもしれない。
それでも、何も分からないまま部屋にいるのは落ち着かなかった。
一度町を見て、今がどうなっているのか確かめたい。
痛みは、もう治まっている。
「すぐに戻れば大丈夫だろ」
そう言い聞かせ、玄関へ向かった。
靴へ片足を入れた時、引き戸が開く。
「あら、颯斗さん。どちらへ行かれますの?」
身体が固まった。
顔を上げると、箒と塵取りを持ったばあちゃんが立っていた。
外の掃き掃除をしていたらしい。
「ば、ばあちゃん……」
ばあちゃんは引き戸を閉め、その前へ立った。
「少し、身体を動かしてこようかなって。三日も寝てたんだろ?それに、明日から学校だし」
「まだ本調子ではないのでしょう。今日は大人しくしていた方がよろしいのではなくて?」
俺の顔を見て、眉を寄せる。
「顔色も、あまり優れないようですし」
「本当に少しだけだから。五分か、長くても十分ぐらい、近所を歩いたら戻るよ」
「ですが——」
「大丈夫。無理はしないから」
もう片方の靴も履く。
ばあちゃんは、まだ何か言おうとしていた。
その前に、横へできた隙間をすり抜ける。
「すぐ戻るから!」
「こらっ、颯斗!待ちなさい!」
珍しく荒らげられた声を背中に受けながら、俺は家を飛び出した。
——
門を出ると、柔らかな春の日差しが降り注いだ。
ばあちゃんが追いかけてくる気配はない。
帰ったら叱られそうだと思いつつ、中学校のある方へ歩き始める。
隣に建つ幼馴染の家。
幼い頃に遊んでもらった、近所のお兄さんの家。
友人達と駆け回った公園。
十三年前でも、街そのものは意外と変わっていなかった。
ただ、公園には後に撤去された遊具が残っている。
家々の塀や外壁も、記憶にあるものより新しかった。
「意外と変わらないものなんだな」
「何が変わらないんだい?」
背後から声がして、肩が跳ねた。
「うわっ!?」
振り返ると、見知った青年が立っていた。
「驚かせないでくださいよ、飛翠さん」
「ふふ、ごめんね」
近所に住む飛翠さんは、悪びれる様子もなく微笑んだ。
陽光を弾く白い髪に、黄金色の瞳。
日本人離れした容姿でありながら、着流しと羽織が不思議なほど似合っている。
「こんな時間に歩いているのが珍しくて。今日は学校じゃなかったのかい?」
「昨日まで熱を出してたので、念のため今日まで休むことになったんです。もう大丈夫なので、少し散歩でもしようかと」
「ふぅん……」
飛翠さんが俺の顔を覗き込み、目を細める。
その姿に、ふと違和感を覚えた。
この人は、昔から容姿が変わっていない。
幼い頃に初めて会った時も、十三年後に会った時でさえ、今と殆ど同じだった。
一体、何歳なのだろう。
尋ねようか迷っていると、飛翠さんが道の先へ視線を向けた。
「今日は、あまり出歩かない方がいい」
「え?」
「それに体調も、まだ完全には戻っていないようだからね。なるべく早く帰った方がいいよ」
笑みが、少し薄れていた。
ただ病み上がりの身体を心配しているだけには聞こえず、俺もつられて道の先を見る。
だが、特に変わったものは見当たらない。
「そうですね。近所を少し歩いたら帰ります」
「んー、それくらいなら……」
飛翠さんは言葉を切り、周囲へ目を向けた。
「飛翠さん?」
「そうだ。もし何かあったら、神社か寺へ逃げ込むといい。覚えておきな」
「神社か寺……ですか?」
「ああ。きっと、君を守ってくれる」
何から守ってくれるのだろう。
突然の言葉に戸惑ったが、飛翠さんの口調は穏やかなままだった。
「……分かりました」
「うん。それじゃあ、俺はこれで」
いつもの飄々とした笑みを浮かべ、飛翠さんは歩いていった。
その背中を見送る。
まるで、この後何かが起こると知っているような言い方だった。
神社や寺へ行けというだけなら、厄除けの話かとも思う。
けれど、逃げ込めとは、どういう意味だろう。
首を傾げながら、再び歩き始めた。
——
飛翠さんと別れて、少し歩いた頃だった。
前方から、鼻を刺すような異臭が漂ってきた。
「うっ……」
思わず鼻を押さえる。
生ごみを何日も炎天下へ放置したような臭い。
そこへ獣臭と、腐った血の生臭さを混ぜたような、耐え難い腐臭だった。
「何だ、この臭い……」
風が吹くたび、鼻の奥へ臭気がまとわりつく。
この先へは、行かない方がいい。
理由を考えるより先に、そう思った。
学校まで歩く必要もないし、ばあちゃんにはすぐ戻ると言ってある。
引き返そうとした瞬間、腐臭が一気に強くなった。
「っ……!」
粘ついた息遣いが聞こえる。
ゆっくりと振り返った。
道の先にある曲がり角から、巨大な何かが姿を現す。
猿に似ていた。
だが、それを猿と呼ぶには、あまりにも異様だった。
二メートルを優に超える身体は不自然に膨れ、歪んだ四肢が地面へ垂れ下がっている。
黒ずんだ皮膚の至るところに、無数の目と口が浮かんでいた。
目玉はそれぞれ別の方を見回し、半開きの口からは濁った唾液が糸を引いている。
ぐちゃり、ぐちゃりと、濡れたものを噛み潰すような音がした。
その周囲では、黒い煙のようなものが蠢いている。
何だ、あれは。
理解が追いつかなかった。
ただ、危険だということだけは分かった。
今すぐ逃げなければならない。
それなのに、足が動かない。
心臓の音が、頭の中で大きく響く。
息を吸おうとしても、喉が引き攣った。
化け物は、まだ俺に気づいていない。
今なら逃げられる。
「動け……」
震える足を拳で叩く。
どうにか、一歩後ろへ下がった。
靴底が、小石を弾く。
乾いた音が響いた。
化け物の身体にある無数の目が、一斉にこちらを向く。
『見イツケタァ』




