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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
序章

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2話 心象世界

 次に目を開けた時、俺は見知らぬ部屋にいた。


 自室の布団へ横になり、目を閉じたところまでは覚えている。

 眠りに落ちた感覚はなかった。


 それなのに、目の前にある景色は一変している。


「ここは……?」


 身体を起こし、辺りを見回す。


 畳敷きの広い部屋だった。

 隅には棚と机、座椅子が置かれている。それ以外に目立った家具はなく、ひどく整然としていた。


 人が暮らしているようには見える。

 だが、不思議と生活の温もりが感じられない。


 障子の向こうから、淡い光が差し込んでいた。


 畳へ手をつく。

 指先へ伝わってきた感触はひやりとしていて、夢にしてはあまりにも鮮明だった。


 ふと、自分の格好が変わっていることに気づく。


 身に纏っていたのは、眠る前まで着ていた服ではなく、黒一色の着流しだった。

 袖を摘まんでみると、滑らかな布の感触が指先へ伝わってくる。


 着替えた覚えなどない。

 それなのに、着流しは身体へ馴染み、窮屈さも重さも感じなかった。


 意識もはっきりしている。


「今度は、夢なのか……?」


 十三年前へ戻ったばかりだというのに、今度は見知らぬ場所にいる。


 眠った覚えも、此処へ来た覚えもない。


 何が現実で、何が夢なのか。

 ますます分からなくなってきた。


 布団から出て、障子へ手を掛ける。

 戸を引くと、柔らかな光が部屋の中へ流れ込んできた。


 その先には、長い縁側と広大な庭園があった。


 丁寧に刈り込まれた木々。

 澄み切った水を湛える池。

 池の中央には、小さな朱塗りの橋が架かっている。


 木々の葉は風に揺れているのに、鳥や虫の声は一つも聞こえない。

 美しい庭であるはずなのに、静かすぎることが、かえって落ち着かなかった。


 見覚えはない。


 なのに、何故か懐かしさを覚えた。


 庭の造りが、実家のものとどことなく似ているからだろうか。


「誰かいないのか?」


 声を上げても返事はない。

 俺の声だけが、静かな庭へ吸い込まれていった。


 縁側には、まるで俺が来ることを知っていたかのように、一足の草履が用意されていた。


 誰のものかはわからない。

 だが、いつまでも部屋に留まっていても何もわからないだろう。


 草履を借り、庭へ降りる。


 涼やかな風が頬を撫でた。

 草木の青い香りに混じって、ほのかな花の香りが漂ってくる。


 池に架かった橋を渡り、その香りを辿るように庭の奥へ進んでいく。


 やがて、一際大きな桜の木が見えてきた。


 太い幹から伸びた枝には、淡い色の花が咲き誇っている。

 風が吹くたび、薄紅色の花弁が静かに舞い落ちていた。


 その根元に、人影があった。


「人……?」


 一人の青年が、桜の幹へ背を預けて座っていた。


 身に纏っているのは、光を吸い込むような漆黒の着物。

 同じく黒い長髪が肩から流れ、地面へ触れそうなほど長く伸びている。


 青年は目を閉じ、穏やかな寝息を立てていた。


 この場所について尋ねたい。

 だが、気持ちよさそうに眠っているところを、無理に起こすのも気が引けた。


 ほかに人がいないか、先に捜してみよう。


 そう考えて踵を返した時だった。


「おや。もう行ってしまうのかい?」


 背後から、穏やかな声がした。


 驚いて振り返る。


 先ほどまで眠っていた青年が、いつの間にか目を開けていた。


 髪と同じ漆黒の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。


 口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 だが、その眼差しには、どこか寂しげな色が滲んでいた。


「あ、すみません。起こしましたか?」

「いや、気にしなくていいよ。せっかくだから、少し話していかないかい?」


 青年はそう言って、俺を手招いた。


「君が知りたいことにも、少しは答えられると思うよ」


 ここがどこなのか。

 どうして自分が此処にいるのか。

 今見ているものは現実なのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 青年が本当に答えを持っているのかはわからない。

 それでも、今の俺が頼れそうなのは、目の前にいるこの人だけだった。


「……わかりました」

「うん。ほら、こちらへおいで」


 青年は自分の隣を軽く叩いた。


 そこへ座れということらしい。

 だが、初対面の相手と肩が触れそうな距離へ座るのは、さすがに憚られた。


 俺は青年の正面まで歩き、少し距離を空けて腰を下ろした。


 青年は一瞬だけ残念そうな顔をしたものの、すぐに目を細めて笑った。


「まさか、君とこうして話せる日が来るなんてね」


 その言葉に、違和感を覚える。


 俺はこの青年を知らない。

 記憶にある限り、一度も会ったことはなかった。


 それなのに、青年は以前から俺を知っているような口ぶりをしている。


「まずは、何を聞きたい?」


 聞きたいことは多い。

 だが、その前に確かめるべきことがあった。


「俺達、初対面ですよね?」

「そうだね。僕が君を一方的に知っているだけで、君は僕のことを知らない」


 青年は何でもないことのように答えた。


「今日こうして話せたことも、偶然に近い。僕にとっても予想外だったよ」

「俺のことを、どこで知ったんですか?」

「それについては、今は上手く説明できないんだ。ごめんね」


 はぐらかされたようにも聞こえる。

 だが、青年の表情からは、俺を騙そうという悪意は感じられなかった。


 初対面のはずなのに、不思議と懐かしさを覚える。

 この庭へ感じたものと、よく似ていた。


「この屋敷は、あなたの家ですか?俺、さっきまで自分の部屋で寝ていたはずなんですけど」

「この屋敷かい?」


 青年は屋敷の方へ目を向けた。


「僕の家でもあり、君の家でもあるよ」

「俺の家?」

「此処は、君の心象世界だからね」


 聞き慣れない言葉だった。


「心象世界……?」

「君の心を映して形作られた世界、と言えば伝わるかな」


 青年は桜の幹へ背を預けたまま、空を見上げる。


「君の心が深く沈めば、此処には雨が降る。穏やかであれば、空は晴れる。目に映るもののすべてが、君の内側とつながっているんだ」


 つられて空を仰ぐ。


 雲一つない青空が、桜の枝の向こうに広がっていた。


「晴れてる……」

「今の君は戸惑っているけれど、心のすべてが乱れているわけではないみたいだね」


 自分では、とても落ち着いているとは思えない。


 試しに腕を抓ってみる。


 指先へ力を込めても、痛みを感じなかった。

 さらに強く抓っても、皮膚を押されている感覚があるだけだ。


「痛くない……」

「此処では、君自身が痛いと思わない限り、痛みは生まれない。君の心から作られた世界だからね」

「だったら、あなたも俺が想像した人なんですか?」


 青年は、ゆっくりと首を横に振った。


「いや。僕は君が生み出した存在ではないよ」

「では、どうして此処に?」

「僕は……この世界の住人、といったところかな」

「ほかにも誰かいるんですか?」

「いや、いないよ」


 青年の答えは、穏やかでありながら断定的だった。


「此処はあくまでも君の世界だ。本来なら、君以外の誰も立ち入ることはできない」

「でも、あなたはいる」

「そうだね」


 青年はそれ以上説明せず、ただ静かに微笑んだ。


 話の辻褄が合わない。

 だが、この人には何か事情があるのだろう。


 これ以上尋ねても、今は答えてくれそうになかった。


「そういえば、まだ名乗っていなかったね」


 青年は姿勢を正し、改めて俺へ向き直った。


「僕は朔弥(さくや)。よろしくね」

「桐生(きりゅう)颯斗です。よろしくお願いします」

「うん。知っているよ」


 やはり、名前まで知られている。


 朔弥と名乗った青年は、俺が名乗ったこと自体を喜ぶように笑みを深めた。


「それと、敬語は使わなくていいよ。もっと気楽に話してくれると嬉しいな」

「でも、初対面ですし……」

「僕がそうしてほしいんだ。お願いできるかな?」


 そこまで言われれば、断る理由もない。


「……わかりました。じゃなくて、わかった」

「うん。それでいいよ」


 朔弥さんは満足そうに頷いた。


 俺の言葉一つで、どうしてこれほど嬉しそうにするのだろう。

 まるで、長い間待ち望んでいたものを、ようやく手に入れたかのようだった。


「それでは、次は何を聞きたい?」


 朔弥さんの表情から、わずかに笑みが薄れる。


「例えば、君がいた世界のこと、とか」


 一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


 それが時間の巻き戻りを指していると気づき、思わず身を乗り出す。


「時間が巻き戻ったことは?」


 朔弥さんは静かに頷いた。


「知っているよ。ただ、僕にも何故こんなことが起きたのかはわからないんだ。誰が、何のために時間を巻き戻したのかもね」


 朔弥さんはゆっくりと目を閉じた。


 穏やかだった表情に、ほんのわずかな苦悩が滲む。


「僕も長い時を生きてきたけれど、こんなことは初めてだ」


 長い時を生きてきた。


 その言葉が引っかかった。


 見た目は若い。

 少なくとも、俺と大きく年齢が離れているようには見えなかった。


「朔弥さんは、一体……」

「今は、僕のことよりも君自身のことを考えた方がいい」


 穏やかな口調ではあったが、これ以上は聞かせないという意思が感じられた。


「これから、君の日常は大きく変わる」

「それって、どういうこと?」

「本当なら、僕が君を守ってあげられればよかったんだけどね」


 朔弥さんの指先が、地面へ落ちていた桜の花弁に触れる。


 その横顔に浮かんだのは、諦めにも似た寂しさだった。


「ちょっと待って。さっきから、一体何の話を——」

「君一人では対処できないことが、もう起き始めている」


 朔弥さんはふと空を見上げた。

 何かの気配を探るように、わずかに目を細める。


「けれど、幸いなことに、この街には今、あの子が来ている」

「あの子?」

「もし君が何かに襲われても、彼ならきっと助けてくれる。その時が来たら、彼に聞いてみるといい」


 何に襲われるというのか。

 何故、相手が俺を助けてくれるとわかるのか。


 問い返そうとしたが、朔弥さんはそれを遮るように続けた。


「それと、これを渡しておこう」


 朔弥さんが、軽く指を鳴らす。


 乾いた音が響いた直後、右耳へ突然熱が集まった。


「熱っ……!」


 耳を押さえる。


 焼けるような熱は一瞬で消えた。

 恐る恐る右耳へ触れると、耳たぶに小さく硬いものがあった。


 指先へ伝わる感触は、石のように冷たい。


 ピアスだろうか。


 穴を開けられた痛みはない。

 それどころか、初めからそこにあったかのように肌へ馴染み、異物感すら覚えなかった。


「これは?」

「君が危険に直面した時、立ち向かうための助けになるものだよ」

「このピアスが?」

「今は、お守りだと思っていて。いずれ、使い方がわかる時が来る」


 耳元へ触れたまま、朔弥さんを見る。


 小さなピアスが、どうやって身を守る手段になるというのか。

 尋ねても、今は答えてくれそうになかった。


「……わかった」

「うん。決して失くさないでね」


 朔弥さんは安堵したように微笑んだ。


 その時、庭を照らしていた光が急速に弱まった。


 空を見上げる。


 先ほどまで雲一つなく晴れ渡っていた空が、端から黒く塗り潰されていく。

 夕暮れを飛び越え、朝から夜へ変わるように、世界が暗闇へ沈み始めていた。


「何が……?」

「そろそろ時間みたいだ」


 朔弥さんは暗くなっていく空を見上げ、残念そうに息を吐いた。


「まだ話したいことがたくさんあるのに、早いな……」

「待って。俺はまだ何も——」

「残念ながら、もう君が目を覚ます時間なんだ」


 木々も、池も、屋敷も、輪郭を失い始めていた。

 薄紅色の桜だけが闇の中に残り、それも少しずつ色褪せていく。


 何も見えなくなっていく。


 その光景に、言いようのない恐怖が込み上げた。


「起きたら此処での出来事を忘れているかもしれない」


 朔弥さんは桜の幹から離れ、立ち上がった。


 黒い着物の裾が、吹き始めた風に揺れる。

 辺りを覆う闇が、足元まで迫ってくる。


 胸が締めつけられるように苦しい。

 逃げようにも、身体が思うように動かなかった。


 やがて身体の感覚が薄れ始め、声を出すことさえ難しくなっていく。


 朔弥さんは真っ直ぐに俺を見つめていた。


「これだけは覚えていてほしい」


 それまでの優しげな声とは違う。

 切実な願いが、その言葉には込められていた。


「君には、まだ残されているものがある」


 漆黒の瞳が、別れを惜しむように揺れる。


「だから、諦めないで。どれだけ無様でもいい。足掻いて、生き延びるんだ」

「朔弥さん、何を……」


 問いかける声は、もうほとんど音にならなかった。


 朔弥さんは寂しそうに、それでも優しく微笑んだ。


「またね」


 その姿を最後に、俺の意識は闇へ沈んだ。

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