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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
序章

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1話 巻き戻った世界

 けたたましいアラーム音が、部屋中に鳴り響いた。


 意識が急速に引き上げられ、反射的に身体を起こす。


「……今、何時だ?」


 枕元で鳴り続けている携帯を手繰り寄せ、アラームを止める。

 画面に表示されていた時刻は、午前七時三十分だった。


「まずい、寝過ごした」


 始業まで、あと一時間しかない。


 布団を跳ね除け、立ち上がる。

 急いで着替えようと、いつもスーツを掛けている場所へ目を向けた。


 だが、そこにハンガーラックはなかった。


 代わりに目へ入ったのは、どこか懐かしい木目の柱と、薄い染みの残った襖だった。


「……あれ?」


 見覚えがある。


 けれど、ここにあるはずのないものだった。


 状況を理解できないまま部屋を見回す。

 畳の匂い。壁際に置かれた学習机。棚へ無造作に並べられた漫画や教科書。


 どれも、記憶に残っているものばかりだ。


「ここ、は……」


 何か大切なことを忘れている。


 そう思った瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 視界が大きく揺らぐ。


 白い車体。

 迫り来る轟音。

 身体を貫いた衝撃。

 血に濡れたアスファルト。


 そして、意識が途切れる寸前に聞こえた鈴の音。


 断片的な光景が、濁流のように脳裏へ押し寄せてきた。


「そうだ……俺、トラックに……」


 病院へ向かう途中、信号を無視した大型トラックに撥ねられた。


 アスファルトへ叩きつけられ、身体は指一本動かなかった。

 流れ出した血が地面へ広がっていくのを、ただ眺めていた。


 助かるような状態ではなかった。


 俺は、死んだはずだ。


 それなのに、今こうして息をしている。


 恐る恐る自分の身体を確かめる。

 服の下にも、露出した腕にも、傷一つ見当たらない。


 それどころか、高校時代にできた膝の傷痕まで消えていた。


 手のひらを見つめる。


 記憶にあるものより小さく、指も手首も細い。

 どう見ても、大人の身体ではなかった。


「どうなってるんだ……」


 此処は病院ではない。

 事故に遭うまで暮らしていた家でもなかった。


 社会人になるまで過ごしていた、実家の自室だ。


 だが、この家にはもう誰も住んでいない。

 実家を離れてからも何度か足を運んだが、部屋は当時の面影を残しながら、少しずつ古びていった。


 目の前にある部屋は、記憶の中に残る姿と寸分違わない。


 夢なのか。


 頬を抓ってみる。

 指先に力を込めると、遅れて鈍い痛みが広がった。


「夢じゃ、ない……?」


 それなら、ここはどこなのか。


 手にしたままだった携帯へ目を落とす。

 画面に表示されている日付が、ふと目に入った。


 二〇一三年四月十八日、木曜日。


 息が止まった。


「嘘だろ……」


 何度見直しても、数字は変わらない。


 カレンダーを開く。

 日付は同じだった。


 ニュースサイトを開き、記憶にある事件や災害を手当たり次第に検索する。


 だが、どれだけ調べても、該当する記事は見つからなかった。


 携帯の日付が狂っているわけではない。

 目の前にある部屋も、俺自身の身体も、記憶にある十三年前の姿そのものだった。


 携帯を布団の上へ落とす。

 身体から力が抜け、そのまま仰向けに倒れ込んだ。


「本当に、過去に戻ったのか……」


 口に出しても、現実味はなかった。


 病院へ向かう途中で、俺はトラックに撥ねられた。

 死を覚悟し、意識を失った。


 そして目を覚ますと、十三年前の実家にいた。


 どう考えても、まともな出来事ではない。


 死にかけたから時間が戻ったのか。

 それとも、俺はすでに死んでいて、これは死ぬ間際に見ている夢なのか。


 いくら考えても答えは出なかった。


「また、中学からやり直すのかよ……」


 仕事へ行かなくてもいい。

 もう一度、学生時代へ戻れる。

 これから起きる出来事を知っているのなら、以前とは違う人生を選べるかもしれない。


 本来なら、喜ぶべきことなのだろうか。


 けれど、そんな気持ちにはなれなかった。


 十三年という時間の中で積み重ねてきたものが、すべて失われている。


 苦労して覚えた仕事も、人とのつながりも、ようやく手に入れた生活も、今はどこにも存在しない。


 これまでの人生は、一体何だったのか。


 答えのない思いを抱えたまま布団へ顔を伏せていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。

 一段ずつ、静かに近づいてくる。


 その足音を、俺は知っていた。


 胸の奥がざわつく。


 この頃、この家で暮らしていたのは俺を含めて二人だけだ。

 足音の主として思い当たるのは、一人しかいない。


 やがて足音が部屋の前で止まった。


「入りますよ。颯斗(はやと)さん、起きておりますか?今日は学校へ行けそうですか?」


 聞き覚えのある声と共に、襖がゆっくりと開かれる。


 そこに立っていたのは、着物を綺麗に着こなした一人の女性だった。


 息を呑む。


「ばあちゃん……」


 間違えるはずがない。


 十三年前のばあちゃんが、目の前に立っていた。


 記憶にある最期の姿よりも若い。

 背筋は真っ直ぐに伸び、顔にも晩年ほど深い皺は刻まれていなかった。


 もう二度と会えないと思っていた。


 病室のベッドで、次第に細くなっていった呼吸。

 冷たくなった手の感触。

 何もできないまま見送ることしかできなかった、あの日。


 それらの記憶が蘇り、視界が滲む。


 ばあちゃんは、部屋の入口に立ったまま、不思議そうに首を傾げた。


「どうしたのです?そんなに見つめて。私の顔に何かついておりますか?」

「……いや、何でもない」


 声が震えそうになるのを堪える。


 何年も聞くことのできなかった声が、こんなにも近くにある。


 今すぐ抱きつきたいような衝動に駆られた。

 だが、突然そんなことをすれば、不審に思われるに決まっている。


 ばあちゃんが生きている。


 その事実を確かめるように、俺は目の前の姿を見つめた。


「それより、学校へ行けそうかって、どういうこと?」

「あら、覚えておりませんの?貴方、ここ三日ほど高熱に魘されていたのですよ。少し顔色は戻ったようですが、体調はいかがです?」


 三日も高熱を出していた。


 そんな記憶はなかった。

 もっとも、十三年も前の出来事だ。

 単に忘れているだけかもしれない。


 身体に熱っぽさはない。

 先ほどの激しい痛みも、今ではほとんど治まっていた。


 学校へ行こうと思えば行けるだろう。


 だが、今は状況を整理する時間が欲しかった。

 明日から始まる学校生活についても、思い出さなければならないことが多い。


「熱はないと思う。でも、まだ少し頭が痛いかな」


 こめかみへ手を当てる。


 完全な嘘ではなかった。

 頭の奥には、鈍い痛みがまだわずかに残っている。


 ばあちゃんは俺の顔をしばらく見つめた後、静かに頷いた。


「……そうですか。でしたら、今日まで学校は休んでおきましょう。ご飯は食べられそうですか?」

「うん。多分、大丈夫」

「では、後でお粥を持っていきます。まだ万全ではないのですから、部屋で安静にしておきなさい」

「わかった。ありがとう、ばあちゃん」


 ばあちゃんは小さく頷くと、襖を閉めて部屋を出ていった。


 足音が階段の方へ遠ざかっていく。


 その音が聞こえなくなってから、ようやく張り詰めていた息を吐いた。


 今日だけでも学校を休めたのは助かった。


 今の状況すら理解できていないまま、中学校へ行くのは無理がある。

 まずは、この十三年間に何があったのか、記憶を整理する必要がある。


 布団へ横になり、先ほどのばあちゃんの姿を思い返す。


「若かったな……」


 まだ六十にもなっていない頃だ。

 元々年齢より若く見える人だったが、晩年の姿を覚えているだけに、別人のようにさえ感じられた。


 ばあちゃんは生きている。


 なら、もしかすると——。


 ある人物の顔が脳裏へ浮かんだ。


「そうだ。あいつも……」


 携帯を手繰り寄せ、トークアプリを開く。


 目的の名前は、探すまでもなかった。


 九重浩透(ここのえひろゆき)。


 トーク一覧の一番上に、懐かしい親友の名前が表示されていた。


 指が止まる。


「ああ……そうだよな。ばあちゃんがいるんだ。お前も、いるよな」


 浩透から届いていたメッセージを開く。


『大丈夫か?』

『熱、まだ下がらない?』

『学校来れそうなら連絡して』


 画面に並ぶ短い文章は、記憶にある浩透のものと何も変わらなかった。


 高校二年の秋。


 突然知らされた、浩透の死。

 事故だった。


 前日まで普段と変わらず話していた。

 また明日と別れたはずなのに、その明日は二度と訪れなかった。


 葬儀で見た浩透の顔も、泣き崩れていた家族の姿も、今なお記憶に焼きついている。


 携帯の画面が滲む。


「……また、会えるのか」


 声にした途端、胸の奥から込み上げてきたものを抑えられなくなった。


 ばあちゃんだけじゃない。

 浩透も、まだ生きている。


 もう二度と会えないと思っていた。


 伝えたいことがあった。

 聞きたいことも、共に過ごしたかった時間も、数えきれないほど残されていた。


 そのすべてを、取り戻せるかもしれない。


 十三年を失ったことへの戸惑いは、まだ消えていない。

 何故過去へ戻ったのかも、これが本当に現実なのかもわからない。


 それでも、ばあちゃんと浩透が生きている。


 それだけは、確かなことだった。


「今度は、死なせない」


 浩透が事故に遭う未来を知っている。

 ばあちゃんが病に倒れることも知っている。


 以前の俺には何もできなかった。

 だが、今なら未来を変えられるかもしれない。


 浩透を事故から救う。


 ばあちゃんの病気も、手遅れになる前に見つける。


 過去へ戻った理由が何であれ、この機会だけは無駄にしたくなかった。


 明日、学校へ行けば浩透に会える。


 その事実を胸の中で繰り返す。


 先ほどまで息苦しいほど重く感じていた胸が、少しだけ軽くなっていた。


 携帯を枕元へ置き、静かに目を閉じた。

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― 新着の感想 ―
過去に戻った主人公が、喜ぶのでは無く、中学生以降の人生で積み重ねてきた経験を失ったことにショックを受けるのが、リアルだなぁ
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