プロローグ 終わりと始まり
暗く淀んだ空。
荒れ果てた大地。
生き物の気配はなく、植物も枯れ落ちている。
少し先の地面に、一振りの刀が突き刺さっていた。
柄から刀身に至るまで、すべてが黒い。
刀身の一部が地中に埋まり、露わになった刃が鈍い光を放っていた。
その傍らに、持ち主らしき姿はない。
何故、こんな場所に刀があるのだろうか。
視線を上げる。
さらにその先には、黒い何かがいる。
それは人の形をしているのかさえ、よく分からなかった。
俺は何故か、その何かに手を伸ばしていた。
だが、触れる寸前、誰かの手が俺の手を強く握った。
目の前が黒く染まっていく。
その瞬間——
目覚まし音が鳴り響く。
音を止めようと動いた時、こめかみに激痛が走った。
「……っ、なんだよ、これ」
両手で頭を押さえても、痛みは少しも和らがない。
内側へ指を差し込まれ、脳を直接掻き回されているようだった。
会社に休むと連絡した時も、まともに話せていた自信はない。
普段なら嫌味の一つでも返してくる上司が、俺の声を聞くなり、すぐに休めと言ったほどだ。
寝不足か。
それとも、残業続きの疲労が原因か。
考えようとするたび、頭の奥へ鋭い痛みが走る。
原因なんて、もうどうでもよかった。
一刻も早く、この痛みから逃れたい。
だが、鎮痛剤は切らしている。
病院に行くしかない。
痛みを堪えながら私服に着替え、財布と携帯を鞄へ押し込む。
壁へ手をつきながら玄関まで辿り着き、そのまま家を出た。
近所の病院までは、歩いて五分もかからない。
そのはずだった。
一歩進むたびに頭痛が増し、視界が明滅する。
何度も立ち止まり、乱れた呼吸を整えなければ歩けなかった。
普段ならすぐに着く道が、今日はどこまでも続いているように感じられる。
それでも、ようやく病院の建物が見えてきた。
あとは、目の前の横断歩道を渡るだけだ。
歩行者信号が青へ変わる。
俺は浅く息を吐き、重い足を前へ出した。
横断歩道の半ばまで進んだ時だった——。
右手から、地面を震わせるような轟音が迫ってきた。
ブレーキ音ではない。
速度を緩める気配のない、エンジンの唸りだった。
顔を向ける。
大型トラックが、赤信号を無視して交差点へ突っ込んできていた。
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
逃げなければならない。
頭ではそう理解しているのに、足が動かない。
トラックの白い車体が、視界を埋め尽くす。
ようやく踏み出した一歩は、あまりにも遅かった。
衝撃が、全身を貫いた。
肺から空気が押し出される。
骨が軋む音を聞いた気がした。
身体が宙へ投げ出され、空と地面が目まぐるしく入れ替わる。
周囲の音が、急に膜を隔てたように遠くなる。
景色のすべてが、現実から切り離されたように緩慢に流れていく。
回転する視界の中で、俺を撥ねたトラックの運転席が見えた。
運転手の男は目を閉じていた。
両腕はハンドルから外れ、力なく垂れ下がっている。
次の瞬間、地面が迫った。
身体がアスファルトへ叩きつけられる。
何度か地面を弾み、硬いアスファルトを転がった末、俯せに倒れ込んだ。
声を上げることもできない。
息を吸おうとしても、喉の奥でひゅう、と掠れた音が鳴るだけだった。
やがて、その痛みさえ遠のいていった。
辛うじて瞼を持ち上げる。
目の前のアスファルトには、赤黒い血がゆっくりと広がっていた。
それが自分のものだと理解するまで、少し時間がかかった。
遠くで、金属が激しくひしゃげる音が響いた。
あのトラックが、どこかへ衝突したのだろう。
あれほど頭を割るようだった痛みも、もう感じない。
治ったわけではない。
全身の感覚が、少しずつ失われているだけだ。
視界の端から、ゆっくりと暗闇が滲んでくる。
指一本、動かせそうにない。
助けを呼ぶ声すら出なかった。
ああ。
俺、ここで死ぬのか。
まだ、やりたいことがあった。
伝えられなかったことも、取り戻せなかったものもある。
最後にもう一度、あいつに会いたかった。
叶うはずのない願いだけが、今さら胸の奥へ浮かんでくる。
意識が沈む。
音も、光も、何もかもが遠ざかっていく。
——チリン。
完全な闇へ落ちる、その寸前。
どこからか、澄んだ鈴の音が響いた。
事故の喧騒から切り離されたように、その音だけが不自然なほど鮮明だった。




