45話 保健医の正体
土日の鍛錬も終え、月曜日の昼休み。
俺は職員室から教室へ戻る廊下を歩いていた。
担任に頼まれた提出物を届けただけなのだが、今日は少し身体が重い。
階段を上がるたびに、脇腹の傷が引き攣った。
「……っ」
踊り場で足を止め、制服の上からそっと脇腹へ手を当てる。
昨日、彰さんとの鍛錬を終えた後、いつものように呪域へ連れられていた。
怨屍との戦闘で躱し損ねた爪が、脇腹を浅く裂いたのだ。
血はすぐに止まり、帰ってから自分で手当てをした。
この程度で、わざわざ琴葉さんに来てもらうのも悪いと思ったのだ。
朝はそれほど気にならなかったが、授業を受けているうちに痛みが増してきた。
土日の疲れも、まだ抜けきっていない。
早く教室へ戻って、昼飯を食べよう。
その後、机に伏せていれば楽になるだろう。
そう思い、再び歩き出したところで、前から来た白衣姿の男性と目が合った。
「おや、颯斗君」
三条先生だった。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。……どうした?随分と疲れてるね」
三条先生が俺の前で足を止める。
「ちょっと、昨日動きすぎたみたいで」
「なるほどね。それで、脇腹の方は?」
思わず、添えていた手を離す。
三条先生はその動きを見て、軽く首を傾げた。
「痛むんだろう?さっきから庇って歩いてるよ」
「……分かりますか」
「まあね」
誤魔化しても仕方がなさそうだ。
周囲に人がいないのを確かめ、声を落とした。
「昨日、怨屍を倒していたんですけど、その時にちょっと」
「ああ、そういうこと。治療は?」
「自分で手当てはしました。大した傷じゃなかったので……」
「そう。じゃあ、軽く見せてもらおうかな」
「え?」
「保健室、すぐそこだしね。昼休みはまだ時間あるだろう?」
三条先生が廊下の先を示す。
確かに、移動するだけでも痛みはある。
何より、次の授業は体育だ。
このまま午後の授業を受けるより、見てもらった方がよさそうだ。
「……お願いします」
「うん。じゃあ、行こうか」
いつもの軽い声に促され、俺は三条先生の後へ続いた。
——
保健室には、俺以外に生徒はいなかった。
窓から差し込む日が、白いカーテンを明るく照らしている。
微かな消毒液の匂いを感じながら、三条先生に示された丸椅子へ腰を下ろした。
「シャツを捲ってくれるかな」
「はい」
シャツの裾を持ち上げ、脇腹に貼ったガーゼを見せる。
三条先生は椅子を寄せると、傷を覆っていたテープへ指をかけた。
「剥がすよ」
ゆっくりとガーゼが外される。
傷の周囲に触れられ、身体が強張った。
「傷は浅いね。ただ、動くと引っ張られる場所だから、気になるだろうな」
先生は傷を確かめてから、脇腹の上へ手を翳す。
その手元に、淡い光が灯る。
触れられた場所が、じんわりと温かくなった。
張り付いていたような痛みが、段々と薄れていく。
その光を見て、以前のことを思い出した。
体育の授業で転んだ篠原さんを、ここへ連れてきた時だ。
あの時も、三条先生の手元が一瞬だけ光っていた。
「三条先生」
「ん?どうかした?」
「前に、篠原さんの足を治した時も、こうしてたんですか?」
「ああ。あの時、見えてたんだね」
「少しだけ。気のせいかと思ってたんですけど」
三条先生が小さく笑う。
「痛むまま帰すのも憚られたからね。ちょっと治しといたんだ」
「やっぱり……」
今なら、何をしていたのか分かる。
そして、あの怨屍の襲来の時。
三条先生は、彰さんたちと共に戦っていた。
普段は白衣を着て、保健室で生徒の怪我を診ている人が、当然のように怨屍と向き合っていたのだ。
「……そういえば、あの時、話してくれるって言ってましたよね」
「そうだったね」
「先生も、死神なんですか?」
直球で尋ねると、三条先生は手元へ目を落としたまま頷いた。
「そうだよ。でも今は人間だ」
「今は?」
「うん。私たち死神も人になることができるんだよ」
三条先生の手元の光はもうなくなっていた。
人になる。
その言い方が、妙に引っかかった。
「どういうことですか?」
「簡単に言えば、死神が人へ転生することだよ。黄泉では、それを天下りって呼んでいる」
「天下り?」
「神が人の世に下るから、ってね」
三条先生は脇腹に翳していた手を離す。
「なるほど?じゃあ、先生も気分転換で?」
思わず三条先生の顔を見る。
もっと、何か大きな事情があるのかと思っていた。
だが、三条先生は特に深刻そうな顔もせず、頷いた。
「長く生きていると、たまには違う暮らしをしてみたくなることもあるだろう?」
「……そういうものなんですかね。それで、先生は人間に?」
「そう。黄泉も楽しいところではあるけど、人の世も、時代が変われば色々なことがあって面白いんだよね」
休日にどこかへ出かけるような調子で言われ、返す言葉に困った。
転生となれば、生まれ変わるということだ。
住む場所を変えるだけとは、随分と違う気がするのだが。
「じゃあ、先生も普通に生まれて、学校に通ったりしたんですか?」
「もちろん。最初からこの格好で保健室にいたわけじゃないよ」
「それは、そうですけど……」
三条先生が楽しそうに口元を緩める。
その様子につられて、俺の肩からも力が抜けた。
目の前にいる先生にも、俺のように制服を着て授業を受けていた頃がある。
当たり前のことなのに、元は死神だと聞いた途端、それまで当たり前だったことまで不思議に思えてくる。
「実際のところ人間として暮らすのは、どうなんですか?」
「色々あるけど楽しいよ。こうして学校にいると、毎日誰かしら来るしね」
「あれ、怪我人ばかりじゃないんですか?」
「そうでもないよ。少し休みに来たり、話しに来たり。授業を抜け出したくて来る子もいたりってね」
「それ、いいんですか?」
「人それぞれ事情があるからね」
三条先生は、まるで珍しいことでもないように言った。
元は死神だという話をしているはずなのに、その口調は普段と何も変わらない。
ふと、さっきの「長く生きている」という言葉が引っかかった。
「先生って、元は何歳なんです?」
「えー、それを聞くかい?君は何歳だと思う?」
「えっ……二百歳とか?」
「残念。その十倍でも足りないかな」
「って、二千歳は超えて……!」
思わず声が大きくなる。
二百でも十分現実味がないと思っていたのに、桁が一つどころではなかった。
「私らに寿命という概念はないからねぇ。ちなみに、彰も私と同じぐらいだよ」
「マジですか!?」
「本当だよ。その様子じゃ、彰だけじゃなくてあの人たちの歳も聞いてなさそうだね」
「知らないです……」
「ふふっ、なら今度蒼介さんたちに会ったら聞くといいよ。あの人たちは私らよりもうんと生きているからね」
おじいちゃんたちまでとなると、もう何歳なのか想像もつかない。
見た目だけで判断するのは、完全に諦めた方がよさそうだ。
「よし、一度動いてみようか」
俺は頷くと、言われた通り、ゆっくりと身体を捻る。
先ほどまであった、傷の引き攣る感覚がない。
腕を上げても、深く息を吸っても、痛みは戻らなかった。
「痛くないです」
「うん。塞がってるね」
「ありがとうございます」
脇腹を確かめてから、シャツを下ろす。
それだけで、随分と動きやすくなった。
もっと早く頼めばよかったのかもしれない。
「傷は治したけど、まだ疲れは残っているだろう?今日は無理しない方がいい」
「そうですね」
「軽い怪我でも、気になるなら見せにおいで。そのための保健室だからね」
「……分かりました」
少し痛むだけだから、そのうち治る。
そう考えていたのだが、階段を上がる時も、授業中に姿勢を変える時も、結局は傷を気にしていた。
大したことがないと、自分で決めつけすぎていたのかもしれない。
先生は使ったガーゼを片づけると、壁の時計へ目を向けた。
「昼ご飯は、もう食べた?」
「いえ。提出物を職員室へ持っていって、その帰りだったので」
「ああ、それなら早く戻らないとね。食べる時間がなくなっちゃうよ」
俺も時計を見上げる。
まだ余裕はあるが、教室へ戻って弁当を広げていれば、ちょうどいいくらいだった。
椅子から立ち上がる。
「色々とありがとうございました」
「いえいえ。また何かあればおいでねー」
その声は、篠原さんと一緒に来た時と変わらなかった。
元は死神だったと聞いても、目の前にいるのは、いつもの三条先生だ。
俺はもう一度頭を下げ、保健室の扉へ向かった。
——
廊下へ出たところで、こちらへ早足に近づいてくる女性が目に入った。
保健室に用があるのだろう。
扉の前を空けるように横へ寄る。
女性は俺へ軽く会釈すると、そのまま隣を通り過ぎた。
ふと、その横顔が気になった。
初めて会う人のはずだ。
それなのに、目元にも、顔を傾けた時の表情にも、どこか見覚えがある。
「先生。病院から連絡がありました。急患が入ったので、早く来てほしいと」
「ああ、分かった。すぐに行くよ」
三条先生の返事が聞こえる。
女性は頷くと、扉の脇へ身体を寄せた。
「颯斗君?」
名前を呼ばれ、はっとする。
三条先生が保健室から出てきていた。
「どうかした?」
「あ、いえ。何でもないです」
「そう?じゃあ、お大事にね〜」
「はい。ありがとうございました」
三条先生は軽く手を上げると、女性と共に廊下を歩いていった。
俺は二人の背中を見送る。
途中で女性が先生を見上げ、何かを話した。
その仕草を見た瞬間、また同じ感覚が引っかかった。
あの人自身を、知っているのではない。
誰かに、似ているのだ。
「……誰だったかな」
小さく呟く。
二人の姿が廊下の角へ消えてからも、その答えは出てこなかった。




