44話 球技大会が終わり
球技大会が終わった放課後。
制服へ着替えて教室に戻ると、どこか気の抜けた空気が漂っていた。
机に突っ伏している者もいれば、まだ試合の話をしている者もいる。
黒板の端には、誰かが書いた「卓球優勝、ドッジボール準優勝」の文字が残っていた。
俺は体操服を入れた袋を鞄へ押し込み、立ち上がる。
「颯斗、帰ろうぜ」
「おう」
浩透と並んで教室を出る。
廊下にも、まだ多くの生徒が残っていた。
窓から入る風が、汗の引いた首元を撫でる。
その先から、篠原さんが歩いてきた。
目が合うと、篠原さんは歩みを緩める。
「桐生くん、二日間すごかったです」
「あ、ありがとう」
突然の言葉に、少し遅れて返す。
「篠原さんも、バスケ上手かったね。お疲れ」
「ありがとうございます。では、また」
「うん、また来週」
篠原さんは小さく会釈をすると、そのまま俺たちの横を通り過ぎていった。
振り返りかけたところで、隣から浩透に肘で小突かれる。
「よかったな」
「……まあ。まさか、見られてたとはな」
「試合の合間にでも、見に来てたんだろ」
俺たちも、空いた時間に慧の卓球や篠原さんのバスケを見に行っていた。
それなら、別に不思議ではない。
隣の二組の前へ差しかかると、中から賑やかな声が聞こえてきた。
「最後のあれ、よく当てたよな!」
「七堂のパスもすごかった」
「二人とも強すぎだろ」
開いた扉から、何気なく中を覗く。
紗奈と七堂が、クラスメイトたちに囲まれていた。
紗奈は身振りを交えて何かを話し、七堂は隣で時折頷いている。
誰かに肩を叩かれると、七堂も涼しげな顔を少しだけ緩めた。
「盛り上がってるな」
「優勝したからなぁ」
浩透が少し未練の残る声で言う。
視線に気付いたのか、紗奈がこちらへ顔を向けた。
俺たちに気づくと、笑いながら片手を上げる。
俺も軽く手を上げて返し、そのまま廊下を進んだ。
「……やっぱ、勝ちたかったな」
「まだ言うか」
「お前だって思ってるだろ」
「まあ、思ってるけど」
浩透と顔を見合わせる。
階段を下りる足が、少し重かった。
試合をしていた時は気にならなかったのに、終わった途端に疲れが出てきたらしい。
「明日は一日家から出たくないな」
「だなー」
俺には明日も鍛錬があるのだが、それは今は考えないことにした。
鞄を持ち替え、昇降口へ向かった。
——
校門を出る頃には、日差しが少し柔らかくなっていた。
坂道を下っていく生徒たちの声が、前からも後ろからも聞こえてくる。
あちこちで、自分たちの試合を振り返る声が上がっていた。
「七堂、本当に動きやばかったな」
思い返しても、七堂の動きには隙がなかった。
反応が速いだけでなく、投げる球も重く、狙いも正確だった。
週末ごとに彰さんと鍛錬していなければ、あそこまで食らいつくことすらできなかったかもしれない。
「ああ。こっちが動く前に、もう場所変えてたりしたし。流石、剣道全国一位」
「そうだな。それにしても、紗奈もよくあの球取られてすぐ走れるよな」
「な。紗奈も昔から運動神経いいけど、今日は特にすごかった」
言ってから、また少し悔しくなった。
紗奈が強いことは、昔から知っていた。
それでも、最後は対応しきれなかった。
「あともう少しだったんだけどなあ」
「惜しいとこまでいけてたもんな。ま、来年頑張ろうぜ」
浩透に言われ、俺は息を吐く。
「だな」
「でも、途中の連携はよかっただろ。お前が引きつけて、俺が当てたやつ」
「うん、かなりよかった」
「だろ?」
浩透が得意げに鼻を鳴らす。
大通りを曲がると、生徒の姿は少しずつ減っていった。
住宅の塀の向こうで、洗濯物が風に揺れている。
俺たちの足音も、さっきよりはっきり聞こえるようになった。
「そういえばさ」
浩透が、鞄の肩紐を掛け直した。
「夏休み、どっか旅行に行かないか?」
「旅行?」
「そ。折角だし、泊まりでどっか行きたいなーって」
夏休み。
まだ先だが、そう遠い話でもない。
最近は目の前のことばかりで、その頃に何をするかなんて考えていなかった。
「いいな。どこか行きたいところあるのか?」
「そこまでは決めてない。海とか、山とか」
「随分広いな」
「だから、これから決めるんだって」
浩透が笑う。
「海なら泳げるし、山なら涼しそうだろ」
「山でも歩き回ったら暑いんじゃないか?」
「じゃあ、川。川で涼む」
「今、歩きたくないだけだろ」
「ちょっとある」
否定しないのか。
「それなら、紗奈も誘ってみるか」
「ああ。あいつなら来そうだな」
「行きたい場所も色々出してくれそうだし」
「俺たちが決めるより早いかもな」
確かに、候補を幾つも挙げる紗奈の姿が浮かんだ。
海も山も楽しそうだと悩んで、結局予定を詰め込もうとするかもしれない。
「ほかにも行きたい奴がいたら、一緒に行けばいいし」
「だな。まず人数と予定を合わせないと」
「紗奈には俺から聞いてみるよ」
「よろしく。俺もよさそうな場所探してみるわ」
まだ行き先も日程も決まっていない。
それでも、話していると楽しみになってきた。
「夏休みまでに、また寝込むなよ」
「分かってるって」
「旅行先でずっと寝てるとか、なしだからな」
「そんなに病弱じゃないって」
「頻繁に休む奴が言うかー?」
浩透が笑う。
からかわれながら、鞄の肩紐を握り直した。
——
やがて、いつも別れる分かれ道へ着いた。
「じゃあ、また明日」
「おう。旅行の話、忘れんなよ」
「そっちこそ」
手を上げ、浩透とは別の道へ足を向ける。
数歩進んだところで、塀の上から鳴き声がした。
顔を上げると、茶トラの猫がこちらを見ている。
目が合った途端、塀から軽やかに飛び下りてきた。
「お、何だよ」
猫は真っ直ぐ俺へ近づき、足首へ身体を擦りつける。
立ち止まって屈むと、今度は植え込みの陰から白黒の猫が出てきた。
少し遅れて、細い路地からもう一匹やってくる。
あっという間に、足元が猫で埋まった。
「……お前ら、どこにいたんだよ」
茶トラの額を撫でる。
気持ちよさそうに目を細めたと思ったら、横から白黒の猫が手の下へ頭を差し込んできた。
「おうおう、可愛いやつらだな」
背後で、笑う声がした。
振り返ると、まだ近くにいた浩透がこちらを見ていた。
「相変わらずだな」
「はは、昔からだろ?」
「だったな」
浩透がこちらへ戻ってきて、少し離れたところに立つ。
その靴へ鼻を近づけた猫が、すぐに俺の膝元へ戻ってきた。
「何でそんな寄ってくるんだろうな。餌持ってるわけでもないのに」
「さあ。俺に聞かれても」
猫の顎の下へ指を伸ばすと、ぐっと顔を上げてくる。
もう一匹は、俺の靴の上へ前足を乗せていた。
小さい頃から、こういうことはよくあった。
道で見かけた猫がついてきたり、座っているといつの間にか隣にいたり。
特別、何かをしているつもりはない。
「そういえば、お前も鹿とかによく寄られるよな」
「あー、なんでだろうな」
「あとは……狐に、狸もだろ。山に行くと、いつの間にか何かしら寄ってきてるし」
浩透は思い当たることがあるのか、少し考えてから頷いた。
「リスは鞄に入ろうとしてたな」
「お前が普通に受け入れてるからだろ」
「いや、流石に入るのは止めたって」
そういう話ではない気もする。
猫の背中を撫でながら、ふと昔のことを思い出した。
「一番びっくりしたのは、熊だけどな」
「ああ、あれか」
浩透が懐かしそうに目を細める。
以前、一緒に山へ行った時のことだ。
木々の間から熊が現れた時は、声も出なかった。
しかも、その熊は迷うことなく浩透へ近づいていった。
襲われると思ったが、鼻先を押しつけ、そのまま甘えるように擦り寄っていた。
目の前で何が起きているのか、暫く理解できなかった。
「俺が固まってる横で、お前、普通に撫でてたよな」
「あいつ、可愛かっただろ?」
「可愛いとか思う余裕なかったって」
「大人しかったじゃん」
「お前にはな」
あれほど近くで見た熊の大きさは、今でも覚えている。
浩透は平然としていたが、こっちは気が気ではなかった。
そう言うと、浩透は俺を指さした。
「でも、お前も動物園でライオンとかにも好かれてるだろ」
「あれは、なんだろうな……」
「好かれてるのは否定しないんだな」
否定しようにも、覚えがあった。
動物園でも似たようなことはあった。
豹が俺の移動に合わせて檻の中をついてきたり、ライオンが目の前で腹を見せたり。
離れようとすると、妙に名残惜しそうにされることまである。
「お前が歩くたびについてきてたもんな。あいつら」
「そうだったな」
「楽しそうにしてたくせに」
浩透が笑う。
確かに、あれは嬉しかった。
猛獣といっても、あそこまで懐かれると、つい可愛く見えてしまう。
「まあ、可愛かったけど」
「だろ?俺もそんな感じ」
「いや、熊に直接じゃれつかれるのとは違うだろ」
言い返しても、浩透はまるで気にしていない。
その間に、足元の茶トラが俺の手へ額を押しつけてくる。
止まっていた手を動かすと、満足そうに目を細めた。
「旅行、山にしたらまた何か寄ってくるかもな」
「熊はもういいぞ」
「鹿なら?」
「帰る時についてこなければな」
「それは向こう次第だろうなあ」
どうにも頼りにならない返事だった。
足元では、三匹がそれぞれ好きな場所へ落ち着き始めている。
俺も人のことばかり言っていられない。
「ほら、今日はもう帰るから」
最後に一匹ずつ撫で、ゆっくりと立ち上がる。
靴に乗っていた猫が足をどけたのを確かめ、少しだけ後ろへ下がった。
「じゃあ、今度こそ」
「おう。また明日」
浩透が手を上げ、自分の帰り道へ戻っていく。
俺も歩き始めると、茶トラが少しの間だけ隣をついてきた。
やがて気が済んだのか、低い塀へ飛び乗り、そこで毛繕いを始める。
その姿を見送り、前へ向き直った。
家に帰ったら、紗奈へ連絡してみよう。
旅行に誘えば、きっと行き先を聞かれる。
まだ何も決まっていないと言ったら、呆れられるだろうか。
そんなやり取りを思い浮かべながら、夕日の差す道を歩いていった。




