41話 休み明けの学校
療養明けの朝。
制服に着替え、鏡の前で髪を整える。
身体を動かしても、どこにも痛みはない。
昨日まで残っていた気怠さも、今朝は殆ど感じられなかった。
床に置いていた鞄を持ち、玄関へ向かう。
「それじゃ、行ってきます」
「ええ。無理はしないように」
「はーい」
ばあちゃんに見送られ、玄関を出る。
外はよく晴れていた。
心地よい風を受けながら、そのまま隣の家へ向かう。
門を開け、玄関の呼び鈴を押した。
「はぁい」
扉の向こうから聞こえてきたのは、紗奈ではない。
少しして顔を出したのは、長い黒髪に赤い目をした綺麗な女性。
紗奈の母親である麗羅さんだった。
「おはようございます」
「あらあら、颯斗君じゃない。おはよう」
麗羅さんは俺を見ると、柔らかく目を細めた。
こうして顔を合わせるのは、随分と久しぶりだ。
おっとりとした話し方も、笑った時の目元も、俺の記憶にある麗羅さんとそう変わらない。
「紗奈から聞いたのだけど、身体は大丈夫なの?」
「はい。昨日も一日休んだので」
「そう。それならよかったわぁ。あの子も心配していたのよ」
「あはは。昨日、お見舞いに来てくれました」
「ええ。帰ってから聞いたわ」
麗羅さんは頷くと、俺の顔から足先まで、全身を確かめるように視線を移した。
「それにしても、颯斗君。随分と逞しくなったわねぇ」
「そうですか?」
自分の腕へ目を落とす。
鍛錬を始めてから、少しは筋肉がついたのかもしれない。
だが、毎日見ている自分では、あまり違いが分からなかった。
「ええ。前よりもしっかりした感じがするわ」
「お母さん、誰と話して……って、颯斗じゃん。おっはよー」
家の奥から紗奈が顔を出した。
制服姿で鞄も持っている。
準備万端のようだ。
「おはよ。もう出る?」
「うん。ちょっと待ってね」
紗奈が玄関へ下り、靴を履く。
麗羅さんはそんな紗奈へ目を向けると、楽しそうに笑った。
「ふふ。これなら、颯斗君に紗奈のことを任せても良さそうねぇ」
「お、お母さん!何言ってんの!」
紗奈が勢いよく振り返る。
靴に踵を入れかけていたせいで、身体がぐらりと傾いた。
「おい、転ぶぞ」
「うわっ!」
咄嗟に腕を掴み、もう片方の手で身体を支える。
「大丈夫か?」
「うん……ありがと」
紗奈がしっかりと両足をついたのを確かめ、手を離した。
俺の袖を掴んでいた指も、少し遅れてほどける。
紗奈の顔はまだ赤いままだ。
麗羅さんは、そんな俺たちを見ても楽しそうに笑っていた。
「二人とも、気をつけて行ってらっしゃい」
「はい」
「行ってきます!」
紗奈に背中を押されるようにして、門の外へ出る。
少し先を歩いていた紗奈が、振り返らないまま口を開いた。
「さっきの、気にしなくていいから」
「さっきの?」
「お母さんが言ってたこと」
「ああ。任せるってやつ?」
「そう、それ」
隣へ並び、横から顔を覗く。
頬はまだ僅かに赤かった。
「一緒に学校へ行くんだし、別に変なことでもないと思うけど」
「……うん。そうだね」
紗奈が何とも言えない顔で俺を見る。
何か間違ったことを言っただろうか。
「とにかく、忘れて」
「分かった」
素直に頷くと、紗奈は小さく息を吐いた。
暫く歩いたところで、ようやくいつもの歩調に戻る。
「本当に、身体の方、大丈夫なんだよね?」
「うん。今朝はだいぶ調子がいい」
「昨日、私たちが帰ってから疲れたりしなかった?」
「少し眠くなったくらい。むしろ、来てくれてよかったよ」
「そっか」
紗奈の口元が緩む。
「最近、怪我や病気が多いから気をつけなよー」
「そ、そうだな」
返事が少しぎこちなくなる。
紗奈からすれば、急に怪我をしたり、体調を崩して休んだりしているようにしか見えないのだろう。
本当の理由を話せない分、余計に心配をかけている気がした。
「何、その返事。ちゃんと分かってる?」
「分かってるって。今日は無理しない」
「今日だけ?」
「……これからも」
「よろしい」
紗奈が満足そうに頷く。
昔から、こういう時は誤魔化しが利かない。
「明後日、せっかくの球技大会なんだからね。颯斗が休んだら、勝っても張り合いないし」
「もう勝つつもりかよ」
「もちろん。出るからには勝ちたいでしょ」
「それは俺も同じだけど」
「じゃあ、ちゃんと元気な状態で来てよね」
そう言って、紗奈は俺の顔を覗き込んだ。
「ああ。そっちこそ、負けても文句言うなよ」
「言わないって。負けないし」
間髪入れずに返され、思わず笑う。
他愛のない話をしながら、学校へ向かった。
制服を着た学生が少しずつ増えていく。
坂道へ差しかかる頃には、周囲からも賑やかな話し声が聞こえていた。
俺は肩に掛けた鞄を持ち直し、紗奈と並んで坂を上った。
——
昇降口で靴を履き替え、二組の教室の前で紗奈と別れた。
「じゃあ、またね」
「ん、またな」
教室へ入っていく紗奈を見送り、自分の教室へ向かう。
廊下には、朝から賑やかな声が響いていた。
開いた扉の向こうで、何人かの生徒が机を囲んで笑っている。
中に入ると、近くにいた男子がこちらを振り返った。
「お、桐生来た」
「おはよう」
「もう体調はいいのか?」
「おう。心配かけたな」
答えながら自分の席へ向かう。
慧が俺に気づき、片手を上げた。
「はよ。颯斗、最近休み多いな。実はまだ……とかないよな?」
「全然、元気いっぱいだって」
笑って返したものの、慧は俺の顔をじっと見ていた。
普段なら、もう一言くらい軽口が続くところだ。
それがないので、本気で心配してくれているのだと分かった。
「……昨日ゆっくり休んだから、もう平気。朝飯も普通に食べてきたし」
「そっか。ま、きつくなったら言えよー」
「おう。ありがとな」
慧の表情が、ようやくいつもの調子に戻る。
その隣から、健人が口を挟む。
「また球技大会前に休むなよ。頼りにしてるんだからな」
「ん、任せろ」
「任せた!」
健人が笑う。
紗奈たちだけでなく、慧たちにも心配をかけてしまった。
怪我をせずに帰ってこられるよう、もっと強くならないと。
休みすぎるのも良くないし。
鞄を机の横へ掛けていると、浩透もやってくる。
「おはよ。今日はちゃんと来られたな」
「おう。昨日はノート、ありがとな」
「役に立ったか?」
「かなり」
「じゃあ、今日当てられても平気だな」
「そこは先生に何を聞かれるかによるだろ」
浩透が声を立てて笑った。
教科書を机へ入れ、筆箱を取り出す。
誰かが宿題を見せてくれと頼み、別の誰かが購買で何を買うか話している。
椅子を引く音や、机に鞄を置く音が、話し声の間に混じっていた。
昨日も、浩透たちとは顔を合わせた。
けれど、布団の上に座って皆の話を聞いていた時とは違う。
机の端についた小さな傷も、座り慣れた椅子の硬さも、そのままだった。
数日ぶりに自分の席へ腰を下ろし、息をつく。
「颯斗、今日の一限って何だっけ」
「数学」
「まじか。英語出してた」
健人が慌てて鞄を開け直す。
その様子を見て、思わず笑った。
——
ホームルームが終わると、教室の後ろに人が集まっていた。
掲示板へ、新しい紙が貼り出されている。
「後ろ、見に行こうぜ」
浩透に誘われ、席を立つ。
人の肩越しに覗くと、球技大会の対戦表だった。
競技ごとに分かれた表の中から、男女混合ドッジボールの欄を探す。
「これか」
「初戦は四組とだってよ」
浩透が指で示す。
近くにいた慧が、俺たちへ顔を向けた。
「颯斗と浩透がいるなら、結構いけるんじゃね?」
「二人とも内野でいいだろ。前に出て、どんどん当ててもらって」
「いや、一人は外野にいた方がよくないか?」
いつの間にか、俺と浩透の配置について話が始まる。
「どうする?」
「俺はどっちでもいいけど」
「それ、一番決まらないやつだぞ」
「じゃあ、颯斗は?」
「俺もどっちでもいい」
「同じじゃねえか」
健人に突っ込まれ、周りから笑いが起こった。
結局、細かい配置は当日に合わせることになり、取れそうな球は声を掛け合おうという程度で話はまとまった。
「桐生、万全の状態にしとけよー」
「おう、任せろ」
肩を軽く小突かれ、笑って返す。
もう一度、対戦表へ目を向ける。
勝ち進んだ先には、紗奈のいる二組もあった。
朝の強気な顔を思い出す。
あれだけ言い合ったのだから、できれば実際に対戦してみたい。
「初戦から気を抜けないな」
「お、やる気じゃん」
浩透が横から覗き込んでくる。
「そりゃ、出るからには勝ちたいだろ」
「だな」
笑いながら頷く浩透へ、俺も頷き返した。
——
昼休み。
いつもの面子で机を寄せ、弁当を広げる。
窓から入る風が、カーテンを緩く揺らしていた。
「そういや、最近の数学、進むの早くないか」
午前中の授業を思い返しながら言うと、慧がパンの袋を開けつつ頷いた。
「分かる。昨日できたと思ったら、今日もう違うことやってる」
「言うて昨日のは応用だっただろ」
「その応用が難しいんだろ」
浩透に言い返し、慧はパンを一口齧る。
「球技大会終わったら、中間テストかぁ」
「今から考えとけよ」
健人の言葉に、慧が眉を寄せた。
「せめて球技大会の間は忘れさせてくれ」
「その分、後で大変になるぞ」
「浩透までそういうこと言う?」
慧が大袈裟に肩を落とす。
「颯斗は、休んだところ大丈夫そうか?」
「うん。浩透のノート見たから、内容は分かった」
「お、なら颯斗、俺に教えてくれよ」
慧がすかさず手を上げた。
「いいぞ。この後するか?」
「頼んだ!」
昨日は浩透にノートを借り、今日は慧に勉強を教える。
助けてもらうことが続いていた分、自分にもできることがあるのは少し嬉しかった。
「そういえば、慧は何に出んの?」
「卓球」
「あれ、得意だったっけ?」
俺たち四人のうち、健斗だけ野球部に所属していた。
それ以外の俺たちは揃いも揃って帰宅部で、特別何かに打ち込むこともしていなかった。
前の慧も変わらず、特に運動をしていたような印象はなかった。
それだけに、慧が卓球をする事に意外だと感じる。
慧はお茶を飲むと答える。
「そこそこ。走り回るやつよりはいいかなって」
「卓球も動くだろ」
「コートの広さが違う」
真面目な顔で返された。
「でも、出るからには優勝目指す。負けるのは嫌だしな」
「ほおう、強くでたな。お前の勇姿、時間があれば見に行くよ」
「ああ、俺が活躍するところ見とけ」
「行った途端終わってたりするなよ」
健人が茶化すと、慧がすぐに顔を向けた。
「だったら最初から来いよ」
「時間が合えばな」
「二人してそれかよ」
俺と健人は顔を見合わせて笑った。
「ドッジの方はどうなんだよ。勝てそう?」
「まだ分からない。相手にもよるだろ」
「相手と言えば、二組が強そうだよな」
浩透が言う。
「紗奈がいるから?」
「それもあるけど、七堂がいるだろ」
「七堂?」
「七堂玲央。あいつ、運動神経やばいぞ」
健人が身を乗り出した。
「かなり力あるし、剣道部の主将もしてる」
「去年の大会も優勝したらしいぞ」
慧も続ける。
「足も速いし、投げるのも強い。それに、前の体力テスト、全て最高点だったらしい。学力も上位だし、ドッジに出てきたら厄介だろうな」
「なるほど、それはやばそうだな……。紗奈に七堂、最強タッグってか」
前の時の俺はそんな奴と競ったことはあっただろうか。
もう十何年と前の話だ。
あまり覚えていない。
だが、今回と前回は違う。
日頃の鍛錬で多少は身体能力も向上しているんだ。
簡単には勝たせてもらえそうにないが、やれるところまで頑張ろう。
「そういや、天鬼って、そんなに強いのか?」
慧が思い出したように聞いてくる。
「紗奈もやばいな。結構強い球でも取りに行く。避けた方がいいだろって思っても、そのまま取るし、投球もエグい」
「うわ、まじか。二組、結構面倒だな」
「頑張るしかないな」
浩透が飲み物へ手を伸ばした。
紗奈が聞いたら、勝手に対策しないでと怒るだろうか。
いや。
むしろ嬉しそうに、受けて立つと言いそうだった。
「そういえば、今日も紗奈と来たんだろ?」
浩透に聞かれ、頷く。
「そ。朝から迎えに行った」
「今日は迎えられる側じゃなかったんだな」
「流石に、もう待たせるのは悪いし」
「そのまま明日も起きろよ」
「起きるって」
浩透が笑う。
その顔を見て、朝のことを思い出した。
「久しぶりに麗羅さんにも会ったよ」
「紗奈のお母さんだっけ?」
「うん。逞しくなったって言われたんだけど、そんな変わったかな」
袖口から出た自分の腕を見る。
「休んでたわりには細くなってないな」
「ちゃんと飯は食べてたからな」
健人が俺の腕を見ながら言う。
「ああ、それでさ。紗奈を任せても良さそうって言われて、紗奈がすごい怒ってた」
何気なく続けると、浩透が飲み物を口へ運ぶ途中で止まった。
慧も、二つ目のパンを出しかけたまま俺を見る。
「……何?」
「いや。お前、それをそんな普通に話すんだな」
「何が?」
慧と健人が顔を見合わせる。
「紗奈、何て言ってた?」
「気にしなくていいからって」
「ああ、なるほどな」
「何がなるほどなんだよ」
「朝から大変だったんだろうなと思って」
「別に普通に学校来ただけだけど」
「お前じゃなくて」
慧が言った途端、健人が吹き出した。
どうにも話が噛み合わない。
「麗羅さん、昔からあんな感じだろ。からかってただけじゃないのか?」
「まあ、それはそうなんだろうけど」
浩透は笑いを堪えているようだった。
「とりあえず、その話は紗奈の前でしない方がいいぞ」
「また怒られるから?」
「……ま、そういうことで」
それは確かにそうかもしれない。
朝の紗奈は、忘れてほしいと言っていた。
「じゃあ、お前らも俺が話してたって言うなよ」
「はいはい」
「分かってるって」
慧と健人が妙に楽しそうに返事をする。
浩透まで肩を揺らしていたので、諦めて弁当へ箸を伸ばした。
その後も球技大会の話をしているうちに、昼休みは残り僅かになっていた。
「あ、数学」
慧が時計を見る。
「ごめん。話し込んだな」
「俺も忘れてた。放課後でもいい?」
「いいよ。ノート用意しとけ」
「おう」
弁当箱を片づけているうちに、予鈴が鳴った。
——
放課後。
昼休みに約束した通り、慧の数学に付き合っていた。
途中の計算を一つずつ書いて説明すると、二問目には自力で答えまで辿り着く。
「おお、分かった。これならいける」
「なら大丈夫そうだな」
「颯斗、まじありがと!」
教える側でも、分かったと言ってもらえると意外と嬉しいものだった。
「これで中間も安心だな」
健人に言われ、慧はすぐに首を振った。
「いや、今できたの二問だけだから」
「そこは冷静なんだな」
浩透が笑い、俺もつられて笑った。
ノートを閉じ、帰る支度をする。
教室に残っている生徒は、もう少なかった。
廊下へ出ると、西日が床の上へ長く伸びている。
「卓球、最初は何組と当たるんだっけ」
「三組。さっき言っただろ」
「そうだったか?」
「健人、人の話聞いてなさすぎ」
前を歩く二人の会話を聞きながら、階段を下りる。
昇降口で靴を履き替え、外へ出た。
グラウンドでは、部活動をしている生徒たちが走っている。
ボールを追う声に、遠くから笛の音が重なった。
校舎を振り返る。
つい先ほどまでいた教室の窓が、夕日を受けて光っていた。
昨日は、早く学校へ戻りたいと思っていた。
授業を受けて、友人と昼飯を食べて、勉強に付き合う。
実際に戻ってみれば、そんなことで一日が過ぎていた。
休んでいる間に起きたことを忘れたわけではない。
ここを離れる前と、まったく同じ自分でもないのだろう。
それでも。
こうして過ごす何気ない一日が、今は楽しかった。
「颯斗、行こうぜ」
浩透の声に顔を戻す。
少し先で、三人が待っていた。
「ああ」
足を速め、隣へ並ぶ。
そのまま会話に加わり、三人と校門を出た。




