40話 戻った日常
翌日。
目を覚ました時には、昨日より身体が軽くなっていた。
痛みらしい痛みも、ほとんど残っていない。
ただ、長く起きていると、肩や背中のあたりに鈍い重さが出てくる。
琴葉さんに言われた通り、今日の学校は休みにした。
朝食を済ませた後、俺は自室の布団の上で過ごしていた。
「……暇だな」
天井を見上げながら、思わず呟く。
昨日までは、黄泉で診察を受けたり、色々な人と話したりしていた。
それが急に、何もすることがなくなった。
学校へ行けないだけで、こんなに時間が長く感じるとは思わなかった。
枕元へ置いていた本を手に取る。
以前、図書室で借りたままになっていたものだ。
返却期限、大丈夫だったかな。
そんなことを考えながら頁を捲っていった。
——
「颯斗さん」
扉の向こうから聞こえた声に、ゆっくりと目を開ける。
「……ん」
窓の外は、いつの間にか夕焼け色になっていた。
枕元へ目を向ける。
時計の針は、午後五時を指している。
どうやら予想以上に眠っていたらしい。
「颯斗さん、起きていますか」
「うん」
まだ少し眠気の残る声で答える。
扉が開き、ばあちゃんが顔を覗かせた。
「ご友人の方々がお見えですよ」
「友達?」
「ええ。三人いらしています」
三人。
その言葉で、何となく誰なのか察しがついた。
布団から身体を起こす。
「こちらへお通ししてもよろしいですか」
「うん。お願い」
ばあちゃんが頷き、扉を閉める。
寝癖がついていないか気になり、適当に髪を整える。
そうしているうちに、廊下から複数の足音が近づいてきた。
「入るぞー」
聞き慣れた声とともに、扉が開く。
「よう」
「颯斗、大丈夫?」
「失礼します」
入ってきたのは、浩透と紗奈。
それから意外なことに篠原さんだった。
「えっ、篠原さん!」
「私が来るのは予想外でしたか?」
「うん、びっくりした」
素直に伝えると、篠原さんは小さく笑った。
「顔色は良さそうだね」
紗奈が顔を近づけて言う。
「ああ」
「でも、ほんとに大丈夫?」
「うん。もう治ったよ」
紗奈は俺の顔をじっと見てから、ようやく納得したように息を吐いた。
「ならいいけど」
「それで、今日は揃いも揃ってどうしたんだ?」
「お見舞いだよ」
紗奈が答える。
「それと、これ」
手にしていた袋を差し出された。
中を見ると、いくつかのゼリーが入っていた。
紗奈らしい。
食べやすいものを選んでくれたのだろう。
「食欲なくても食べれるかなって」
「ありがとう」
袋を受け取ると、枕元に置く。
「俺からはこれ」
今度は浩透が、鞄から数冊のノートを取り出した。
「昨日と今日の分」
「ノート?」
「お前、二日休んでるだろ」
受け取って開く。
見慣れた浩透の字が、頁いっぱいに並んでいた。
板書だけではない。
先生が口頭で補足した内容や、教科書の該当頁まで書き込まれている。
この間貸してくれた時のものと変わらず、読みやすく整理されていた。
「毎回すまないな」
「別に気にすんなって」
そう言うと、浩透が一瞬だけ目を逸らした。
俺はもう一度ノートを見る。
「ありがと」
「おう」
照れくさそうにそっぽを向く浩透に、自然と口元が緩む。
「私からはこれを」
篠原さんが、透明なファイルを差し出した。
「先生から預かってきました」
「ありがとう」
「提出物の期限も書いてあります。急がなくていいものばかりですよ」
「分かった」
中身を確認する。
授業のプリントに、学校からの連絡用紙。
休んだのはたった二日なのに、意外と多い。
「思ったより多いな」
「そろそろ中間テストも近いからね」
「そうだった」
すっかり忘れていた。
学生には定期テストがあったな。
あと二週間後ぐらいだったか……。
「だから、浩透のノート、ちゃんと見た方がいいよ」
紗奈が横から覗き込んでくる。
「そうだぞー。特に数学。昨日結構進んでる」
「そうなの?」
「ああ。ここからここまで」
浩透がノートを開き、数頁捲った。
「この辺は先生が重要って言ってた。あと、ここもテストに出るかもしれないって」
「そうなのか」
「この辺も出やすいと思いますよ」
浩透の開いていたノートを指差す篠原さん。
そこには赤線が引かれているところだった。
「篠原さんもありがとね」
「いえいえ」
浩透は休んだ分のノートを持ってきてくれて、篠原さんはプリントまで届けに来てくれた。
紗奈も、食べやすいものを考えてゼリーを選んでくれたのだろう。
こうして改めて考えると、随分と気にかけてもらっている。
もう少しで、こういう時間に戻れなかったかもしれない。
そう思うと、何気ない気遣いが妙に嬉しかった。
少し照れくさくて、俺は視線を枕元に移した。
「そうだ。ゼリー、せっかくだし今食べる?」
紗奈が枕元の袋へ目を向けた。
「いいの?」
「えー、颯斗のために持ってきたんだけど」
「いや、一人で食べるより一緒に食べた方がいいだろ」
「俺らまで食っていいのか?」
「いいよ。いっぱいあるし、そのつもりだったんだろ、紗奈?」
そう言って袋を持ち上げると、紗奈が横を向いた。
「まあ、そうだけど」
「やっぱり」
「別にいいでしょ。余ったら持って帰ればいいと思ってたし」
少しだけむきになって言い返す紗奈に、思わず笑ってしまう。
袋を覗くと、ちょうど人数分以上入っていた。
「じゃあ食べよう」
紗奈が嬉しそうに袋を引き寄せた。
「持ってきた本人が一番乗り気じゃん」
「いいでしょ、別に」
「悪いとは言ってない」
「ならよし」
紗奈が勝手に話を締める。
立ち上がろうとすると、浩透に肩を押さえられた。
「何してんだよ」
「皿取ってこようかと」
「病人は座っとけって」
「もう病人ってほどじゃないって」
「今日まで休めって言われたんだろ?」
「まあ……」
「なら座ってろ」
言い返そうとしたところで、紗奈までこちらを見る。
「そうだよ。私が借りてくるから」
「……分かった」
二人に止められてまで動くことでもない。
大人しく座り直すと、紗奈が部屋を出ていった。
階段を駆け降りる音が聞こえてくる。
少し待つと、紗奈は皿に人数分のスプーンを持って戻ってきた。
「はい、好きなの選んで」
机の上へゼリーが並べられた。
桃、蜜柑、葡萄、林檎。
「じゃあ桃」
「早いな」
浩透が呟く。
「浩透は?」
「何でもいい」
「それ一番困るやつ」
紗奈が眉を寄せる。
「じゃあ葡萄」
「最初から言えばいいのに」
浩透は気にした様子もなく、葡萄のゼリーを手に取った。
結局、俺が桃、浩透が葡萄。
紗奈は林檎、篠原さんは蜜柑を選んだ。
蓋を開け、匙ですくう。
冷たい桃の味が口の中に広がった。
「美味しい」
「でしょ?これ、この前話していたお店のなんだよ」
紗奈が満足そうに言う。
「へえ。確かケーキ屋だったよな。ゼリーがこれだけ美味いなら、ケーキも美味そうだな」
「そだね。今度買ってみようかな」
「その時は俺も食べたい」
「自分で買いなよ」
「えー」
紗奈が笑いながらゼリーを口へ運ぶ。
「そういや、今日の数学さ」
浩透が口を開いた。
「先生に当てられて危なかったんだよ」
「何かあったのか?」
「九重さん、授業中寝ていたんですよ」
篠原さんが呆れたように口を挟む。
「問題解き終わってて暇だったんだよ」
「それでも、居眠りはよろしくないですよ」
「浩透は昔から居眠り癖あるからねー」
「問題が簡単すぎるんだよ」
悪びれる様子もなく言い切る浩透に、思わず笑ってしまう。
授業中に居眠りして、よくあそこまで細かくノートを書けるものだと感心する。
「それ、先生の前でも言ったの?」
「言うわけないだろ」
紗奈がゼリーを掬いながら聞くと、浩透が即座に返した。
「言えばよかったのに」
「余計怒られるだろ」
呆れたように返す浩透の横で、篠原さんが思い出したように口を開いた。
「でも、当てられた時すぐ答えてましたよね」
「へえ。寝てたのに?」
俺が訊くと、浩透は何でもないことのように肩を竦める。
「一応、話は聞いてたからな」
「ふうん」
「なんだ、疑わしそうだな」
「別にー」
浩透と一緒に笑う。
学校にいれば、きっと同じように笑っていたんだろう。
そんな時間から、自分だけ切り離されていたような気がした。
たった数日なのに、それが少し寂しかった。
ふと、部屋の中を見回す。
浩透と紗奈がいるのは、まだ分かる。
けれど、その隣に篠原さんまで座って、一緒にゼリーを食べているのは、少し不思議だった。
「どうしました?」
視線に気づいたのか、篠原さんが首を傾げる。
「いや。篠原さんもわざわざ来てくれたんだなと」
「まだそれ言ってるの?」
紗奈が笑う。
「だって、ちょっと意外だったし」
「そんなにですか?」
「うん。プリントだけなら、二人に預けてもよかっただろ?」
「ああ……」
篠原さんは一度、手元のゼリーへ目を落とした。
「先生から頼まれたのもありますけど」
「うん」
「私も、顔を見ておきたかったので」
「俺の?」
「はい」
篠原さんが少し恥ずかしそうにする。
「急にお休みされていましたし、詳しい事情は分かりませんけど……心配だったので」
「そっか」
「でも、思っていたより元気そうで安心しました」
そう言ってもらえると、少し照れくさい。
「ありがとう」
「いえ」
「ほんと、最近の颯斗は急に休むからな」
浩透が呟く。
「悪いな」
「別に責めてるわけじゃねえよ。ただ、心配なだけだ」
「……」
「病気にしろなんにしろ、早く体調戻してきなよー」
紗奈もそう続ける。
「もちろん。ありがと」
三人とも、俺に何があったのかは知らない。
それでも、何も聞こうとはしなかった。
その距離感が、今はありがたかった。
「……そういえば」
紗奈が空になった容器を机へ置いた。
「来週、球技大会だからね」
「ああ、そういえば」
「忘れてたでしょ」
「……忘れてた」
完全に頭から抜けていた。
中学では五月の上旬に球技大会をしていた。
確か競技種目はバレー、バスケ、卓球、テニス、ドッチボールだったか。
その中から一つでる形式だったはずだ。
篠原さんから受け取ったファイルへ手を伸ばし、中のプリントを捲る。
「そういや、俺、何になった?」
「ドッジボール」
浩透が即答する。
「ドッジボールか」
「お前が休んでる間に決まったんだよ」
「勝手に?」
「そ。残ったやつ」
「まじかぁ」
「別にいいだろ。お前、運動できるし」
「まあ、嫌ではないけど」
プリントへ目を落とす。
競技名の横には、男女混合と書かれていた。
「あ、男女混合なんだ」
「そうだよ。それと、私も同じくドッジボールなんだ」
紗奈が答える。
「紗奈も?」
顔を上げると、紗奈が不満そうにこちらを見た。
「何、その反応」
「いや、別の種目かと思ってた。バレーとかさ」
「じゃんけんに負けちゃったからねー」
「あ、そゆこと」
「そそ」
紗奈が苦笑しながら頷く。
「そんで、俺もドッジだぜ」
今度は浩透が自分を指差した。
「じゃあ三人とも一緒か。ちなみに、篠原さんは何に出るの?」
「私はバスケですよ」
「へえ。頑張ってね、応援してる」
「はい。桐生くんたちも」
篠原さんが柔らかく笑った。
球技大会。
その言葉を頭の中で繰り返す。
前も確かにあった。
体育館に響く声。
走り回る生徒たち。
誰かと笑っていたような記憶もある。
けれど、細かいことまではほとんど思い出せない。
前なら、そんなに気にしなかったかもしれない。
けれど今は、少し惜しいと思った。
誰と同じチームで、どんなふうに笑って、勝ったのか負けたのか。
今度の球技大会くらいは、ちゃんと覚えていたい。
「どうした?」
浩透の声で、意識が戻る。
「いや。何でもない」
「球技大会、出られそう?」
紗奈が訊いてくる。
「多分」
「多分じゃなくて、ちゃんと治しなよ」
紗奈がすぐに言葉を返してくる。
「分かってるって」
「本当に?」
疑うような視線を向けられ、思わず眉を寄せた。
「何でそんな疑うんだよ」
「前にも無理して学校来たじゃん」
「あ」
すぐに思い当たる。
「体力測定の時な」
浩透が笑う。
「体調悪いのに、休みたくないって来たやつな」
「いや、あれは……」
言い訳を探す間もなく、紗奈が畳みかける。
「今回も球技大会出たいからって無理しそう」
「しないって」
「信用ないな」
「浩透まで言うなよ」
「実績あるからな」
浩透も篠原さんも揃って呆れたような表情をした。
「篠原さんまで何か言いたそうな顔してない?」
「私は何も」
そう言いながら、篠原さんも口元を緩めていた。
「でも、無理はしないでくださいね」
「……はい」
三人に言われると、さすがに反論しづらい。
「まずはちゃんと治せよ」
浩透が言う。
「球技大会に出たいなら尚更な」
「だな」
確かに、その通りだ。
ここで無理をして、また休むことになっては意味がない。
今は大人しくしておこう。
その後も、学校であったことを聞いた。
授業中に先生が駄洒落を言って白けたこと。
昼休みに別のクラスで騒ぎがあったこと。
どれも、大した話ではない。
けれど、そんな何気ない話を聞いている時間が、妙に心地よかった。
窓から差し込む光が傾き始めた頃。
「そろそろ帰るか」
浩透が時計へ目を向けた。
「そうだね。長居しても疲れるだろうし」
「俺は大丈夫だけど」
反射的に答えると、紗奈がじっとこちらを見る。
「……何」
「本当に?」
「本当だって」
そう言いながら身体を起こす。
けれど、朝よりも肩のあたりが重い。
話している間は気にならなかったが、やはりまだ本調子ではないらしい。
「……ちょっと疲れたかも」
「ほら」
紗奈が呆れたように言う。
「だから言っただろ。今日は大人しくしとけって」
浩透が机の上のノートを手に取る。
「これ、置いてくか?」
「いや、明日使うだろ。必要なところだけ写真撮る」
「ああ、そっか」
近くに置いていた携帯を手に取ると、浩透がノートを開いた。
「数学はここまで」
「うん」
「英語はこの辺。ここは一応撮っとけ。先生がテストに出すかもって言ってたから」
「了解」
「現代文はここと、次の頁まで」
「お前、本当に全部覚えてるな」
「授業受けてたら普通だろ」
「普通ではないと思うよ。居眠りしてたっていうし」
紗奈が横から口を挟む。
「浩透って、そういうところ変に几帳面だよね」
「変って何だよ」
「褒めてるって」
「絶対褒めてないだろ」
言い合う二人を横目に、教えてもらった頁を順番に撮っていく。
最後の頁まで撮り終え、携帯を伏せた。
「これで大丈夫。ありがとな」
「分かんないところあったら連絡しろよ」
「うん」
浩透がノートを鞄へ戻す。
紗奈と篠原さんも、それぞれ帰る支度を始めた。
「じゃあ、また明日ね」
「おう」
紗奈が鞄を肩へ掛けたところで、何かを思い出したように振り返る。
「そうだ、明日は一緒に学校行こ」
「オッケー、なら俺が迎えに行くわ」
「うん、よろしく。あ、でも、無理そうなら、ちゃんと言ってね」
また念を押され、思わず苦笑する。
「分かってるって」
「本当に?」
「まだ言う?」
紗奈が楽しそうに笑った。
「だって信用ないし」
「ひど」
そんなやり取りを見ていた篠原さんも、鞄を持って立ち上がる。
「では、また学校で」
「うん。今日は本当にありがとう」
「いえ。元気そうで安心しました」
三人と一緒に一階へ降りる。
ばあちゃんへ挨拶をしてから、玄関の戸が開いた。
「じゃあな」
「またね」
「お大事に」
「うん。ありがとう」
三人が門を出ていく。
姿が見えなくなるまで見送ってから、玄関の戸を閉めた。
途端に、家の中が静かになる。
「……疲れた」
思わず声が漏れた。
でも、嫌な疲れではない。
数日ぶりに誰かと長く話したせいだろう。
部屋へ戻り、布団へ腰を下ろす。
机の上には、篠原さんから受け取ったプリント。
携帯には、浩透のノートを撮った写真が何枚も残っている。
学校を休んでいたのは、たった二日。
それなのに、随分長く離れていたような気がした。
授業。
中間テスト。
球技大会。
友達との、どうでもいいような会話。
少し前までは、どれも当たり前だったものだ。
黄泉にも、俺を待ってくれる人がいる。
それでも、友達がいて、ばあちゃんのいるこの家へ帰ってくる。
今の俺にとっての日常は、やっぱりこっちなんだ。
「球技大会、楽しみだな」
そのためにも、今日はちゃんと休もう。
俺は布団へ身体を横たえる。
三人が来てくれて、よかった。
そう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。




