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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
1章

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36話 迫る刃と

 振り下ろされた刃が、俺の左胸へ迫った。


 逃げられない。


 両腕も両脚も、影の刃によって道路へ縫い止められている。

 刀も影の中へ沈められ、手の届かない場所にあった。


 身体に力を込めても、指先すら動かない。


 迫る切っ先だけが、やけにゆっくりと見えた。


 死ぬ。


 そう思った瞬間、右耳が熱を帯びた。


 身体の奥から、俺のものではない何かが溢れ出した。


 視界が黒く染まる。

 意識が暗闇の中へ引き込まれていく。


 それと入れ替わるように、何かが目を覚ました。


 そこで、俺の意識は途切れた。


 ——


 刀の切っ先が、左胸へ触れる直前で止まった。


『……何だ?』


 男の目が見開かれる。


 颯斗の左手が、刃を掴んでいた。

 影によって道路へ縫い止められていたはずの腕が、何事もなかったように持ち上がっている。


 鋭い刃が皮膚へ食い込み、指の間から血が流れた。

 それでも、颯斗の手が刃を離すことはない。


 男が刀を引こうとする。

 だが、掴まれた刃はびくともしなかった。


 颯斗の左手に力が込められる。


 硬い金属が軋む音が響いた。


 次の瞬間、刃が粉々に砕け散った。


『な——』


 男の表情が、初めて大きく崩れる。


 颯斗の身体を拘束していた影が、一斉に形を失った。

 道路へ広がっていた黒い影が霧のように薄れ、消えていく。


 右耳が、再び熱を帯びる。


 颯斗の右手に一振りの刀が現れた。

 光すら吸い込むような、漆黒の刀。


 颯斗の身体がゆっくりと立ち上がる。

 

 その瞳には、颯斗自身の意識は宿っていなかった。

 先ほどまでとはまるで違う、冷たく研ぎ澄まされた眼差しが男へ向けられる。


 男は折れた刀を捨て、後ろへ距離を取った。


 足元から影が広がる。

 何本もの黒い刃が立ち上がり、颯斗へ狙いを定めた。


 それらが放たれるより早く、颯斗が地面を蹴る。

 足が男の胸元へ叩き込まれた。


『ぐっ……!』


 男の身体が勢いよく吹き飛ぶ。

 道路を何度も跳ね、離れた建物の壁へ激突した。

 

 壁一面へ亀裂が走り、瓦礫が崩れ落ちる。


 男はすぐに身体を起こした。


 その前方で、雷が弾ける。


 次の瞬間には、颯斗の姿が消えていた。


 男が顔を上げる。


 既に颯斗は、その目の前へ立っていた。

 反応する暇すら与えず、黒い刀が男の首元へ突きつけられる。


『……っ』


 切っ先が首へ薄く食い込む。


 傷口から黒い靄が漏れ出した。


 男の動きが止まる。


「この子は、私の子だ」


 颯斗の口から、静かな声が発せられた。

 

 同じ身体から出たものとは思えないほど、普段の颯斗とは異なる声だった。


「これ以上、この子に危害を加えるのならば、たとえお前だとしても殺す」


 男の表情が凍りつく。


 先ほどまで浮かんでいた怒りも、憎しみも消えていた。


 首元へ刀を突きつけられていることすら忘れたように、颯斗の顔を凝視している。


『兄者……?』


 震えた声が漏れた。


 颯斗の中にいる者は、その呼びかけに答えなかった。

 ただ、黒い刀を突きつけたまま、男を見据えている。


『本当に、兄者なのか……?』


 男の手が、ゆっくりと持ち上がる。

 颯斗の頬へ触れようとするように、その指先が伸ばされた。


 しかし、その指先が届くより先に、黒い刀の切っ先がさらに食い込んだ。

 首元の傷が深まり、さらに靄が溢れ出す。


「手を引け」


 有無を言わせない声だった。


「引かぬなら、今ここでお前を殺す」

『……』


 男は抵抗しなかった。


 戦意を失ったというより、目の前で起きていることを受け止めきれずにいるようだった。

 

 長い間探し続けていた者が、全く別の姿で現れた。

 その事実に、思考の全てを奪われていた。


「颯斗君!」


 彰の声が響いた。


 颯斗の中にいる者が、僅かに顔を動かす。


 ロイたちを退けた彰が、こちらへ向かおうとしていた。


 その顔を、一瞬だけ見つめる。

 何かを確かめるような、静かな視線だった。


「颯斗君、大丈夫か!」


 彰がもう一度呼びかけるが、颯斗は何も答えない。


 ゆっくりと瞼を閉じる。

 

 右手に握られていた黒い刀が、霧のように形を失った。

 同時に、颯斗の身体から力が抜ける。


 身体が前へ倒れ込んだ。


『危ない!』


 男が咄嗟に腕を伸ばす。


 颯斗の身体を抱き止め、道路へ倒れることを防いだ。

 

 彰はすぐには踏み出さなかった。

 

 颯斗を抱えている男が何をするか分からない。

 

 刀を構えたまま、その様子を警戒している。

 男から漂う霊力は、他の者とは比べ物にならないほど濃かった。


 その正体を悟り、彰の表情が強張る。


「お前は終禍か……⁉︎」


 肆禍を遙かに上回る霊力。

 人間とほとんど変わらない姿。

 さらに、ロイたちが男の動きに合わせるように戦っていた。


「もしかして、お前があの怨屍たちを統べて……」


 男は答えない。

 腕の中にいる颯斗だけを見つめている。


「彼を離せ」


 彰の声が低くなる。


「今すぐ、彼をこちらへ渡すんだ」


 彰は刀を握り直す。


 それ以上近づけば、颯斗ごと斬られかねない。


 男が颯斗の顔を見つめたまま、小さく呟く。


『……兄者の子、か』


 黒く澱んでいた瞳に、微かな光が差し込んだ。


 喜びとも安堵とも違う。

 完全に失ったと思っていたものが、まだそこに残されていた。

 

 そう知った者の目だった。


 男は颯斗を抱えたまま片膝をつく。

 自らの羽織を道路へ敷き、その上へ颯斗の身体を横たえた。

 傷ついた身体へ触れないよう、慎重に腕を離す。


 男が颯斗から離れた瞬間、彰が地面を蹴った。

 一瞬で颯斗の傍へ移動し、男との間に割って入る。


「琴葉さん!」

「分かっているわ!」


 遠くから琴葉の声が返ってくる。

 琴葉が空歩を使い、颯斗の下へ向かってきていた。


 男は彰へ攻撃することなく、ゆっくりと立ち上がる。

 そして、戦いを続けている怨屍たちへ顔を向けた。


『ロイ』


 低い声が、呪域全体へ響き渡る。


 名を呼ばれたロイが、男の下へ一瞬で駆け寄る。


『如何なさいました』

『もう終いだ。帰るぞ』


 その声に、離れた位置にいたクゼが大太刀を構えたまま、驚いたように眉を上げる。


『何じゃと?』

『帰ると言ったのだ。二度も言わせるな』

『じゃが、あの小僧は——』

『もうよい』


 男の視線が、彰に守られている颯斗へ向けられる。

 

『全員を退かせろ』


 クゼは何かを言いかけたものの、男の眼差しを受けて口を閉ざした。

 ロイは男と颯斗を交互に見た後、静かに頭を下げる。


『承知しました』


 ロイが片方の剣を高く掲げた。


『撤退だ』


 その声が響いた直後、周囲の怨屍たちが一斉に動きを止めた。


「なんのつもりだ」


 晴樹は大鎌を抱えたまま、クゼたちへ鋭い視線を向けていた。


「これだけのことをしておいて、今さら止めるのか」

『主の命令じゃからな』


 クゼが不満そうに答える。


『妾たちは帰る。それだけじゃ』

「こちらが黙って帰すとでも?君も含めて黄泉に送ってあげるよ」

『ふふ、できるものならやってみよ』


 クゼが大太刀を肩へ担ぐ。


 晴樹は攻撃を仕掛けなかった。


 周囲には多くの負傷者がいる。

 颯斗だけでなく、治療を必要としている者も少なくない。

 さらに、先ほどまで敵だった怨屍たちの全てが男の命令に従っている。

 ここで戦闘を再開すれば、被害がさらに広がる可能性があった。


 男の背後で、巨大な亀裂が走る。

 亀裂が大きく開き、その向こうに光の見えない場所が現れた。


 男は裂け目の前で足を止める。


 一度だけ振り返り、颯斗を見る。

 その瞳には、憎しみは残っていなかった。


『颯斗、か……』


 誰にも届かないほど小さな声で呟く。


 男はそのまま、一人で亀裂の先へ入って行った。

 その姿が暗闇の中へ消える。

 主の後を追うように、ロイが二本の剣を鞘へ戻した。


『今回は退きます』

「待て」


 彰が呼び止める。


「君たちは、颯斗君をどうにかするためにこれだけの騒ぎを起こしたんじゃないのか。どうして急に退く?」

『それを貴方たちへ話す必要はありません』


 ロイはそれだけ答え、亀裂の先へ向かって歩き始めた。


 クゼや、他の肆禍たちもその後へ続く。

 周囲にいた怨屍たちが、次々と亀裂の中へ消えていった。


「待て!」


 伊鶴が追おうとする。


「伊鶴、今はいい」


 彰が制止した。


「ですが」

「負傷者の治療が先だ。これ以上被害を広げるつもりか?」


 伊鶴は悔しそうに怨屍たちの去る後ろ姿を睨んだ後、刀を下ろした。


 最後の怨屍が亀裂の先へ入る。


 巨大な亀裂が、ゆっくりと閉じていった。

 完全に閉じた直後、呪域を満たしていた濃密な霊力が薄れていく。


 赤黒く染まっていた空へ、無数の亀裂が走った。

 空が砕ける。

 その向こうから、本来の夕空が覗いた。

 周囲の建物や道路も光の粒に包まれ、元の姿へ戻っていく。

 怨屍たちによって作り出されていた呪域が、崩れ始めていた。


「結局、何だったんだ……」


 伊鶴が呟く。


「これだけの怨屍を集めて桐生君を狙っていたのに、急に全員が退いていった」

「颯斗君の中にいた何者かを、あの男は兄だと認識したようだったね」


 晴樹が大鎌を下ろし、颯斗へ視線を向ける。


「彰は、さっき颯斗君を動かしていたのが何者か知っているのか?」

「いいや、知らない」


 彰は短く答えた。


 その表情は険しいままだった。


「今は負傷者の治療と、現場の収拾が先だ」


 琴葉の両手から放たれた淡い光が、颯斗の身体を包み込んでいる。


 両肩。

 背中。

 脇腹。

 全身に刻まれた傷が、少しずつ塞がっていく。


 颯斗は目を覚まさない。


 その右耳にある霊珠だけが、役目を終えたように静かな光を残していた。


 怨屍たちは、何を目的として颯斗を狙ったのか。

 颯斗の身体を動かしていた者は、何者なのか。

 そして、終禍である男が口にした『兄者』とは誰なのか。


 何一つ答えが分からないまま、怨屍たちの襲来は終わった。

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