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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
1章

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35話 影に宿る憎悪

 男は、真っ直ぐ俺へ顔を向けた。


 黒い髪を短く整え、着物の上から羽織を重ねている。

 腰には一本の刀が下げられていた。


 異形と呼べる部分は何一つない。

 見た目だけなら、どこにでもいる人間と変わらなかった。

 だが、その黒い瞳を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。


 男は何の感情も浮かべず、俺を見つめていた。

 やがて、その口が静かに開く。


『兄者を殺したのは、お前か』

「……え?」


 言葉の意味が分からなかった。


 兄者。

 男が誰を指しているのか、心当たりはない。


 答えられずにいると、男の姿が消えた。


「っ……!」


 気づいた時には、目の前に立っていた。

 抜かれた刀の切っ先が、俺の首元へ突きつけられている。


 冷たい刃が僅かに皮膚へ触れた。

 動けば、それだけで首を斬られる。


 男が落下してきたところから、俺が立っている場所までは数メートル離れていた。

 それだけの距離を移動したはずなのに、まったく見えなかった。


『答えろ』


 低い声が響く。


『兄者を殺したのは、お前か』

「誰のことだ」


 男の眉が僅かに動く。


「俺は、あんたの兄なんて知らない」

『……そうか』


 男が小さく呟いた。


 次の瞬間、首元にあった刀が横へ振るわれる。

 咄嗟に身体を後ろへ倒した。

 切っ先が喉元を掠め、薄く血が滲む。


 刀を構え直すより先に、男が踏み込んできた。

 

 振り下ろされた刀を受け止める。

 

 金属音が響いた直後、両腕に凄まじい衝撃が走る。


「ぐっ……!」


 足元の道路が砕け、身体が後ろへ押し込まれた。


 受け止められない。


 刀を傾けた後、横へ流し、男の脇を抜けようとする。

 だが、男の膝が腹部へ叩き込まれた。


「がっ……!」


 身体が浮き上がり、道路を転がる。


 息が詰まった。


 すぐに立ち上がろうとするが、男は追ってこない。

 刀を下ろしたまま、その場に立っている。


『本当に、知らぬのか』

「だから……誰のことだよ」


 口の中に広がった血を、道路へ吐き出した。

 

『お前から、兄者の霊力を感じる』

「俺から?」


 胸元へ視線を落とす。


 俺自身の霊力以外、何かがあるようには感じない。


『これほど濃く、その身へ宿しておきながら、知らぬと言うか』

「何のことか、本当に分からない」

『ならば、奪ったことすら忘れたということか』

「違う!俺は誰も——」


 言い終えるより早く、男が目の前へ現れる。


 刀が斜めに振り下ろされた。

 咄嗟に受けとめようとしたが、軌道が直前で変わる。

 刃が右肩を斬り裂いた。


「っ……!」


 隊服が裂け、鮮血が飛び散る。


 痛みに顔を歪めながら刀を振るう。

 男は半歩後ろへ下がっただけで、刃を躱した。


 さらに踏み込み、左胸へ刀を突き出す。


 切っ先が届く直前、男の姿が視界から消えた。


「何処に——」


 背後からの殺気。


 振り返ろうとした瞬間、背中を斬りつけられた。


「うぐっ!」


 身体が前へ倒れる。

 片手を道路へつき、どうにか転倒を防いだ。


 男は、また少し離れた場所に立っている。


 俺を一撃で殺すことは、簡単なはずだ。


 最初に首元へ刀を突きつけた時、そのまま刃を動かせば終わっていた。

 今の攻撃も、背中ではなく首を狙えたはずだ。


 なのに、男は急所を外している。


「何のつもりだ……」

『お前が兄者に与えた苦痛は、この程度ではない』


 黒い瞳に、初めて感情が浮かぶ。


 怒り。


 それだけではない。

 長い間、積み重ねられてきた憎しみが、その目の奥で渦巻いていた。


『すぐに死ねると思うな』


 男が刀を構える。


「颯斗君から離れろ!」


 彰さんの声が響いた。


 その瞬間、俺と男の間を割くように業火が奔った。


 遠くで彰さんがロイの剣を弾き、こちらへ術を放っていた。

 そして、そのまま俺の下へ駆け出そうとする。

 

 しかし、その進路を塞ぐように、地面へ新たな亀裂が走った。


 亀裂の中から、長い黒髪を靡かせた女が姿を現した。


 両手には、扇のような形をした二本の刃が握られている。

 その身体から漂う霊力は、ロイやクゼと同じぐらいだ。


 また、肆禍だ。


 女が片方の刃を振るう。

 無数の風刃が道路を削りながら、彰さんへ襲いかかった。


「っ……!」


 彰さんは足を止め、刀を連続して振るう。

 

 迫る風刃が斬り落とされ、周囲へ激しい風が吹き荒れた。


 その隙にロイが距離を詰める。

 二本の剣が左右から振るわれ、彰さんの刀と激突した。


『貴方の相手は、私たちです』

『あの御方の邪魔はさせない』


 ロイの背後で、黒髪の女が再び刃を構える。


「くっ、二体がかりか……」


 彰さんがロイの剣を押し返す。


 返す刀がロイの肩を斬り裂き、黒い靄が噴き出した。

 そのまま彰さんは身体を捻り、背後から迫っていた風刃も斬り落とす。


 二体を相手にしても、彰さんは押されていない。


 だが、俺のところまで来る余裕はなかった。


「颯斗君!」


 三条先生が大鎌を振るう。

 クゼの攻撃を弾き、そのままこちらへ駆け出した。


『余所見をするでない!お主の相手は妾であろう?』


 クゼが大太刀を地面へ叩きつける。


 道路を這うように炎が広がり、三条先生の行く手を遮った。

 三条先生は足を止めず、斬撃を放った。


 斬撃が炎を縦に切り開く。


 その間を駆け抜けようとした三条先生へ、地面から黒い鎖が飛び出す。


「なにっ」


 鎖が大鎌の柄へ巻きついた。


 三条先生の身体が、強引に後ろへ引かれる。


 炎の向こうから、男が歩み出た。


 和服姿に、両腕や胸元へ何重もの鎖を巻きつけている。


『行かせない』

「チッ、またか……」


 三条先生が大鎌を強く引く。

 巻きついていた鎖が引き千切られ、黒い破片となって飛び散った。


 大柄な肆禍の眉が僅かに動く。


「悪いけど、今は君たちに構っている暇はないんだ」


 三条先生が地面を蹴る。


 一瞬で新たに現れた肆禍の懐へ入り、大鎌を横薙ぎに振るった。


 男は両腕へ鎖を巻きつけ、刃を受け止める。

 激突した箇所から火花が散った。


 大鎌の刃が鎖へ食い込み、その奥にある腕まで斬り裂いていく。

 だが、三条先生が刃を振り抜くより先に、クゼが背後へ回り込んでいた。


『妾を忘れるでない!』


 炎を纏った大太刀が振り下ろされる。

 三条先生は大鎌を引き戻し、身体を捻りながら刃を受け止めた。


 炎が爆発する。


 三条先生の身体が後ろへ押し戻され、靴底が道路を削った。


「二体がかりか。少し面倒だな」

『先ほどまでの余裕はどうした!』

「まだ余裕はあるよ。ただ、急いでいるだけだ」


 —

 

 痛む右肩を押さえ、刀を構え直す。


「雹水六式・氷牙(ひょうが)!」


 男の足元から、巨大な氷柱が突き出す。


 捉えた。


 そう思った瞬間、黒い霊力が男の身体から溢れ出した。


 地面に濃い影が広がる。


 影から伸びた黒い刃が氷柱へ絡みつき、容易く砕いた。


「何だ、あれ……」


 ロイやクゼの扱っていた水や炎とは違う。


 冷たく、暗い。


 男は技の名を口にしていない。

 特別な構えを取った様子もなかった。

 ただ、男の意思に従うように、足元の影が形を変えている。


 地面に広がった影が大きく波打った。

 無数の黒い刃が飛び出す。


「っ!」


 横へ跳び、迫る刃を躱す。


 一つを刀で弾く。

 続けて二つ目を受け流し、三つ目へ刀を振るう。


 だが、黒い刃は刀とぶつかった瞬間、煙のように形を崩した。


「何っ」


 崩れた影が刀身へ絡みつく。


 引き剥がそうとするより先に、影が腕まで這い上がってきた。


 右手が動かない。


 男がゆっくりと近づいてくる。


「くそっ……!」


 左手を向ける。


「氷弾!」


 放った氷弾が男の胸元へ迫る。


 男の影から黒い壁が立ち上がり、氷弾をすべて受け止めた。

 砕けた氷が地面へ落ちる。


 直後、足元にあった俺自身の影が伸びた。

 黒い手のようなものが足首へ絡みつく。


「っ!」


 動きを止められた。


 男が目の前へ立つ。


 振るわれた刀が、脇腹を斬り裂いた。


「ぐっ……!」


 鮮血が飛び散る。


 足を拘束していた影が消え、身体が道路へ倒れた。

 痛みに耐えながら刀を振るう。

 男は僅かに首を傾けるだけで、刃を躱した。

 そのまま刀の柄が頬へ叩き込まれる。


「がっ!」


 身体が地面を転がる。


 刀が手から離れ、少し離れた場所へ落ちた。

 立ち上がろうと片手をつく。

 その手を、影から伸びた刃が貫いた。


「ぐぅっ!」


 刃は手の甲を貫き、そのまま道路へ縫い止めた。

 引き抜こうとしても、黒い刃はびくともしない。


 男が俺の前へ立つ。


『兄者も、このように苦しんだのだろう』


 刀が振り下ろされる。


 咄嗟に身体を捻る。


 刃が左肩を斬り裂いた。


「いっ……!」


 右肩。

 背中。

 脇腹。

 左肩。


 傷が増えるたびに、身体から力が抜けていく。


 それでも、男は急所だけは正確に外していた。


 俺を甚振るように続けられる。


「俺は……お前の兄を、知らない……」

『黙れ』

「本当に、何も——」

『その身に宿る霊力が、何よりの証拠だ』


 男の声には、少しの迷いもなかった。


『兄者の霊力を奪い、その存在すら忘れたお前の言葉など聞く価値もない』

「奪ってなんか……」


 地面に落ちた刀へ手を伸ばす。


 男の影が先に俺の腕を縛り上げる。


 丸腰になった俺へ、影の刃が次々と襲いかかってきた。


 一つが太腿を掠める。

 もう一つが隊服ごと腕を斬り裂いた。


 身体を起こそうとしたところへ、影が腹部へ叩き込まれる。


「がっ……!」


 背中から道路へ倒れた。


 肺の中にあった空気が、一気に押し出される。


 息ができない。

 男の姿が霞んで見える。


「颯斗君!」


 彰さんの声が聞こえた。


 彰さんがロイの剣を弾き飛ばし、その胸元へ刀を突き出す。


 だが、黒髪の肆禍が放った風の刃が横から襲いかかった。

 彰さんは刀の軌道を変え、風の刃を斬り落とす。


 その僅かな隙に、ロイが後ろへ下がった。


「退いてくれと言っているだろう!」


 彰さんの身体から、凄まじい霊力が噴き上がる。


 刀が振るわれる。


 巨大な斬撃が通りを駆け抜け、ロイと黒髪の肆禍をまとめて呑み込もうと広がった。

 二体は左右へ分かれて躱す。


 その間を抜け、彰さんがこちらへ走り出した。

 だが、ロイの水刃と黒髪の肆禍の風刃が背後から一斉に放たれる。

 彰さんは足を止めざるを得なかった。


「くそっ……!」


 指先へ力を込める。


 地面を掻くだけで、身体を起こすことすらできなかった。


 男の影が俺の周囲へ広がっていく。

 影から何本もの黒い刃が伸び、両腕と両脚へ突きつけられた。


 逃げられない。


 男が俺を見下ろす。

 先ほどまで黒い瞳に浮かんでいた怒りが、少しずつ消えていく。

 代わりに残ったのは、何も映していないような暗い色だった。


『もうよい』


 男が呟く。


 影の刃が両腕と両脚へ突き刺さった。


「っ、ああああっ!」


 身体が道路へ縫い止められる。


 痛みで視界が白く染まった。


 声を上げることすらできない。


 男は刀を両手で握り、ゆっくりと頭上へ持ち上げる。


 今度は、急所を外すつもりがない。


 真っ直ぐ、俺の左胸へ狙いを定めていた。


「やめろ!」


 彰さんの叫び声が響く。


 男の表情は変わらない。


 振り下ろされた刀が、俺の左胸へ迫った。

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