32話 怨屍襲来
参禍との戦いから、二日が経った。
本来なら、今日は彰さんと鍛錬をする予定だった。
しかし、先日の件もあり、今週の鍛錬は中止となった。
久しぶりに鍛錬のない休日だ。
急ぎの用事も、友人たちと遊ぶ予定もなく、俺は朝から暇を持て余していた。
昼食を済ませた後も暫く家で過ごしていたが、何もせずにいるのも落ち着かず、散歩へ出ることにした。
休日の昼下がり、一人で近所を歩く。
目的地は決めていない。
気の向くまま住宅街を進み、駅とは反対の方角へ向かっていた。
空はよく晴れている。
陽射しも暖かく、風もほとんどない。
散歩するには、ちょうどいい天気だった。
ただ、妙に静かだった。
休日なら、庭先で遊ぶ子どもの声や、どこかの家から流れるテレビの音くらいは聞こえてくる。
それが、今日はほとんどない。
電線や屋根の上にも、鳥の姿が見当たらなかった。
鳴き声すら、一度も聞こえてこない。
道を歩く人も、普段より少なかった。
時折、自転車に乗った人や、犬を連れた人とすれ違うぐらいだ。
少し気にはなったが、たまにはそんな日もあるだろう。
そう考え、そのまま歩き続ける。
やがて住宅街を抜け、幹線道路から一本外れた通りへ入った。
道の両脇には、ケーキ屋などの小さな店や、平屋の住宅が並んでいる。
営業中の看板は出ているが、店内に客の姿はあまりない。
通りを走る車も少なかった。
歩道を進んでいると、前方から一人の男性が歩いてきた。
向こうも俺には関心を示さず、そのまますれ違う。
いつもより少ないとはいえ、人がいないわけではない。
考えすぎか。
そう思った時だった。
「っ!」
どこからともなく、一枚の紙が飛んできた。
風は吹いていない。
それなのに、紙は意思を持っているように宙を進み、俺の目の前で止まった。
「なんだこれ……」
それは、人の形に切り抜かれた、小さな紙人形だった。
紙人形が揺れると、そこから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「颯斗君、聞こえるかい?」
彰さんの声だ。
その声に、いつもの余裕はない。
僅かな焦りが滲んでいた。
「彰さん、ですよね?」
周囲を見回す。
彰さんの姿はない。
これを通して、声だけを届けているようだ。
「聞こえています。どうかしましたか?」
「今、どこにいる?」
「家から少し離れたところです。散歩で外に出てて」
「颯斗君、今すぐ結界のあるところへ行くんだ」
話を切るように彰さんが話す。
あの彰さんが、こんな切迫した言い方をするなんて、ただ事ではない何かが起きているのかもしれない。
背筋に汗が流れる。
「神社や寺だ。できるだけ強い結界のある場所へ」
頭の中で周辺の地図を思い浮かべる。
ここからなら、以前にも世話になった神社が近い。
「わかりました。ここからなら、走れば数分で行けます」
「急いで。このままでは——」
声の後ろから轟音が響く。
その直後、彰さんの声が途切れた。
紙人形に一筋の裂け目が走り、真っ二つに分かれた。
そのまま、はたりと地面へ落ちる。
「彰さんっ!?」
地面に落ちた紙人形を拾い上げ、呼びかける。
だが、返事はない。
直後、周囲の音が消えた。
遠くを走っていた車の音。
店先から聞こえていた音楽。
建物の中から微かに漏れていた人の声。
残っていた僅かな生活音が、一斉に途絶えた。
「……何だ?」
顔を上げる。
少し離れた歩道に、人影が倒れていた。
晴れていた空が、黒ずんでいる。
墨を流したような色が青空を塗り潰し、その奥から赤黒い色が滲み出していた。
それでも、建物や道路は先ほどまでと何も変わっていない。
ずしりと肩が重くなる。
「え……?」
彰さんとの鍛錬で何度か足を踏み入れた、呪域と同じ空気を肌に感じる。
息をするだけで、胸の奥が重くなる。
手元に視線を戻す。
紙人形は、完全に動きを止めていた。
彰さんとの繋がりも切れている。
異様な光景に呑まれかけ、彰さんの言葉を思い出す。
「そうだ、神社に——」
踵を返そうとした、その時だった。
正面の空間に、黒い亀裂が走った。
一つではない。
建物の壁や道路の上、何もない空中にも、次々と亀裂が刻まれていく。
「まさか……」
裂け目の一つから、異様に細い腕が伸びた。
指先が裂け目の縁を掴み、その奥から怨屍が這い出してくる。
続いて、別の亀裂からも大きな影が姿を現した。
身体の一部が膨れ上がったモノ。
獣の姿をしたモノ。
人型に近いモノ。
壱禍だけではない。
弐禍や参禍もいる。
「冗談だろ……!」
一体や二体ではない。
見える範囲だけでも、十体は優に超えている。
怨屍たちは通りへ降り立つと、揃って顔をこちらに向けた。
赤黒く濁った視線が、一斉に集まる。
最初から、俺がここにいたと分かっていたかのように。
刀を顕現させる。
それと同時に最も近くにいた怨屍が、地面を蹴った。
横へ跳び、振り下ろされた腕を躱す。
爪が歩道へ突き刺さり、舗装を砕いた。
身体を捻り、刀を振るう。
刃が怨屍の胸元を捉え、黒い靄が噴き出す。
だが、核には届いていない。
怨屍は傷を気にすることなく、もう一方の腕を振るってくる。
刀で受け流しながら後ろへ下がる。
そこへ、別の怨屍が横から飛びかかってきた。
「雹水二式・氷弾!」
左手から放った氷弾が、怨屍の身体を貫く。
その隙に前へ出て、最初の一体の左胸へ刀を突き刺した。
核が砕け、怨屍の身体が灰へ変わる。
一体。
だが、休む暇はない。
前方から二体。
背後からも、別の霊力が迫ってくる。
振り返りざまに刀を薙ぎ、伸びてきた爪を弾いた。
直後、もう一体の腕が脇腹へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
身体が横へ飛び、道路を転がった。
すぐに刀を地面へ突き、無理やり起き上がる。
目の前に、三体の怨屍が迫っていた。
「雹水五式・藍霙の創壁!」
水と氷でできた壁が地面から突き出し、怨屍たちの進路を塞ぐ。
動きが止まった隙に高く飛び上がり、空歩で上空へ逃れた。
周囲を見渡す。
神社は、ここからそれほど離れていない。
このまま空歩で走っていけば、地上を進むより早く辿り着けるはずだ。
神社のある方角へ向かおうとした直後、数体の怨屍が飛び上がってきた。
どれも人型の怨屍だ。
「まじかよ……!」
羽もないのに、怨屍たちは空中に佇んでいる。
参禍ともなれば、羽がなくとも空を自在に飛べるというのか。
横薙ぎに迫る尾を、刀で受け止める。
衝撃で身体が押し上げられ、空中で体勢が崩れた。
そこへ、別の怨屍の腕が伸びてくる。
身体を捻って躱したものの、爪の先が肩を掠めた。
「っ……!」
痛みに顔を歪めながらも刀を振り、正面の怨屍を地上へ叩き落とす。
しかし、入れ替わるように残りの怨屍たちが次々と攻撃を仕掛けてきた。
横から伸びてきた爪を刀で弾く。
直後、反対側から別の怨屍に蹴りつけられた。
腹部に強い衝撃が走り、身体が一気に地上へ落ちていく。
地面へ衝突する前に、どうにか体勢を立て直した。
空中にいたモノも、地上にいたモノも、すべての怨屍が俺を取り囲むように集まっていた。
先ほど倒した一体を除いても、数はまったく減っていない。
それどころか、通りの至る所に新たな亀裂が開いている。
その奥から、次から次へと怨屍が這い出してきていた。
「どれだけいるんだよ……」
神社へ続く方角にも、何体もの怨屍がいる。
まずは、周囲にいる怨屍を倒さなければならない。
壱禍や弐禍ならまだしも、この数の参禍を倒すのは、俺の力量では厳しい。
空歩で逃げようにも、参禍には追いつかれてしまうだろう。
四方八方から絶え間なく攻撃を受け、防戦一方となる。
倒すしかない。
でも、どうやってこの数を——。
「そこの君、大丈夫ですか!」
上空からの声と共に、一本の薙刀が正面の怨屍を斬り裂いた。
灰へ変わる怨屍と入れ替わるように、一人の女性が降り立つ。
真っ白な髪に緋色の瞳をした女性は、薙刀を構え直すとこちらを見た。
彰さんたちと同じ意匠の服を身にまとっている。
恐らく、死神だろう。
「大丈夫です」
「それならよかった。あとは私たちに任せて、貴方はそこにいなさい!」
女性は俺へ手を翳すと、周囲を囲うように結界を張った。
「は、はい。分かりました」
一度深呼吸し、息を整える。
周囲には、変わらず怨屍がいる。
この数の怨屍を、女性一人でどうにかできるのか。
俺の心配をよそに、女性は舞うように次々と怨屍を倒していく。
呆気に取られているうちに、半分近くの怨屍が倒された。
それでもなお、怨屍は次々と現れ続ける。
「このままでは、ジリ貧なんじゃ……」
一人で相手をしきれる数ではない。
そこまでの戦力にはなれないが、俺も参戦した方がいいのではないか。
「珠代さん、下がって!」
突如、男性の声が響き、それに合わせて女性は後ろへ飛び退いた。
その瞬間、女性がいた場所を横一文字の斬撃が駆け抜け、迫っていた怨屍たちの核をまとめて斬り裂いた。
黒い靄が噴き出し、核を破壊された怨屍たちの身体が灰へ変わっていった。
次の瞬間、一人の男性が俺の目の前へ降り立った。
黒い瞳に、長い黒髪を一つで結んでいる。
男性は、女性と同じく死神の隊服を身に着けていた。
「君が彰さんが話していた……」
男性は俺の顔を確かめるように見た。
「桐生颯斗君、で合っているか?」
「はい」
「俺は黒宮伊鶴。死送隊のこの地方を担当する地方官だ。あちらで戦っているのは、護官の白波珠代さん」
黒宮。
その名字と、彰さんに少し似た顔が気になった。
話をしている最中、伊鶴さんの背後から怨屍が飛びかかってきた。
「危ない!」
伊鶴さんは振り返ることもなく、刀を背後へ突き出した。
切っ先が怨屍の左胸へ吸い込まれる。
核を貫かれた怨屍は、一度も爪を振るうことなく灰へ変わった。
「話は後だ。今はその結界から出ないでくれ」
「でも、俺も——」
「君を守るよう、彰さんから頼まれている」
伊鶴さんはそれだけ告げると、白波さんの方へ駆け出した。
二人の周囲には、すでに新たな怨屍が集まっている。
白波さんが薙刀を振るい、正面の怨屍を押し返す。
その背後へ回り込もうとしていた数体を、伊鶴さんがまとめて斬り裂いた。
「助かりました」
「遅くなってごめん」
「いえ、これぐらいなら、私一人でもどうにかできます、よ!」
「それは、分かってる!」
言葉を交わしている間にも、二人の動きは止まらない。
あれだけいた怨屍が、次々と消え去っていく。
参禍でさえ、伊鶴さんの一太刀で灰へ変わった。
俺が死力を尽くしてようやく一体倒せる相手を前にしても、二人は足を止めることすらない。
これが、死神の強さなのか。
伊鶴さんが加わったことで、怨屍の数は目に見えて減り始めた。
だが、安心はできない。
一体を灰へ変えても、その間に別の場所へ新たな亀裂が開く。
倒しても、倒しても、終わりが見えない。
「伊鶴さん!」
白波さんの鋭い声が響いた。
空気が大きく震える。
通りの中央に、亀裂が走った。
その奥から、濃密な霊力が溢れ出す。
結界の中にいるにもかかわらず、息が詰まった。
膝から力が抜けそうになる。
周囲にいた怨屍たちが、一斉に動きを止める。
やがて、何かを恐れるように亀裂から離れていった。
暗闇の奥から、人のようなモノが歩いてくる。
現れたのは、和服を身にまとい、長い髪の女だった。
見た目は、ほとんど人間と変わらない。
しかし、女から発せられる圧は尋常なものではなかった。
「……肆禍、か」
伊鶴さんが低く呟いた。
肆禍。
その名は聞いたことがある。
怨屍の中でも二番目に強いとされるモノ。
だが、実際に目にするのは初めてだった。
以前戦った参禍が、まるで小さな存在に思える。
肆禍は亀裂から完全に抜け出すと、ゆっくりと辺りを見渡した。
そして、俺と目が合うと、不気味な笑みを浮かべた。
何だ?
そう思った瞬間、肆禍の姿が消えた。
「桐生君!」
白波さんの声が聞こえた時には、肆禍は結界の目の前まで迫っていた。
肆禍の刀が、横一文字に振るわれる。
結界が破られる。
そう思った瞬間、肆禍の刀と結界の間へ伊鶴さんの刀が割り込んだ。
凄まじい衝撃が通りを駆け抜ける。
一帯の窓硝子が一斉に砕け、道路に亀裂が走った。
白波さんが張っていた結界にも無数のひびが広がり、次の瞬間には、光の粒となって砕け散った。
「っ……!」
伊鶴さんの身体が後ろへ押し込まれる。
靴底が道路を削り、俺のすぐ前でようやく止まった。
肆禍は休むことなく、再び刀を振るう。
伊鶴さんは肆禍の刀を弾くと、斜めに斬り上げた。
刃が肆禍の胸元を捉える。
黒い靄が噴き出したものの、核までは届かない。
肆禍の刀が下から跳ね上がる。
伊鶴さんは咄嗟に刀を戻し、その一撃を受け止めた。
甲高い音と共に火花が散る。
肆禍は手首を返し、続けざまに刀を振るう。
横薙ぎから斬り下ろしへ、隙なく攻撃を繋げてきた。
一つ一つの動きは単純だが、あまりにも速い。
伊鶴さんは攻撃を受け流しながら、後退していく。
その背後には、俺がいる。
肆禍が不意に刀の軌道を変えた。
伊鶴さんの脇を抜け、切っ先が真っ直ぐに俺へ伸びてくる。
「っ!」
刀を構えた直後、伊鶴さんが刀を握る肆禍の腕を横から蹴り上げた。
切っ先が逸れ、俺の頬のすぐ横を通り過ぎる。
伊鶴さんは続けて肆禍へ斬りかかり、俺から距離を取らせた。
肆禍は伊鶴さんの刀を受け止めながらも、俺から目を離さない。
狙いは、やはり俺だ。
伊鶴さんが空いた手をこちらへ向ける。
足元に淡い光が走り、俺を囲うように新たな結界が作られた。
「君はそこから絶対に動かないように……!」
言い終えるより早く、肆禍が伊鶴さんへ迫る。
刀同士が激突し、再び衝撃が周囲へ広がった。
「珠代さん、他の怨屍を頼む!」
「分かりました。そちらは任せます!」
白波さんが薙刀を振るい、結界へ近づこうとしていた怨屍を斬り伏せる。
伊鶴さんが肆禍を、白波さんがそれ以外の怨屍を引き受ける。
二人だけで、すべてを相手にするつもりらしい。
肆禍の刀が縦横無尽に振るわれる。
伊鶴さんは紙一重で躱し、時折、刀で軌道を逸らしていく。
反撃に放った斬撃が、肆禍の肩口を斬り裂いた。
黒い靄が噴き出す。
しかし、肆禍は痛みを感じている様子もなく、すぐに刀を返した。
伊鶴さんは身を仰け反らせて切っ先を躱すと、そのまま肆禍の懐へ踏み込んだ。
左胸へ刀を突き出す。
肆禍は身体を横へ逸らし、刃を躱した。
すれ違いざまに振るわれた肆禍の刀が、伊鶴さんの肩を斬り裂く。
隊服が裂け、赤い血が飛び散った。
「伊鶴さん!」
「こっちは大丈夫!珠代さんはそっちを!」
白波さんがこちらを見た僅かな隙を狙い、獣の姿をした怨屍が飛びかかる。
薙刀の柄で牙を受け止め、その勢いを利用して身体を横へ流す。
体勢を崩した獣型の怨屍の左胸を刃で斬り上げ、返す薙刀で背後から迫っていた別の怨屍も斬り裂いた。
核を砕かれた二体が、続けて灰へ変わった。
それでも、亀裂から現れる怨屍は途切れない。
白波さんが一体を倒している間に、二体、三体と新たな怨屍が姿を現す。
数は減るどころか、再び増え始めていた。
そのうちの一体が白波さんの横を抜け、俺の結界へ向かってくる。
怨屍の爪が結界へ叩きつけられた。
鈍い音と共に、結界が僅かに揺れる。
「させません!」
白波さんの投げた薙刀が、怨屍の左胸を貫いた。
怨屍が灰へ変わるより早く地面を蹴り、落下する薙刀を掴む。
その勢いのまま、次の怨屍へ斬りかかった。
白波さんも、俺ばかりを気にしている余裕はない。
結界を出て、せめて壱禍や弐禍だけでも引き受けた方がいいのではないか
そう考えている間にも、伊鶴さんと肆禍の戦いは激しさを増していった、、
刀を打ち合わせるたび、周囲の建物が震える。
伊鶴さんの斬撃は、肆禍の身体へ何度も届いている。
そのたびに黒い靄が噴き出すが、核だけは捉えられない。
女が不気味な笑みを浮かべる。
『その程度で、妾を斬れると思うておるのか』
「斬れるさ!」
伊鶴さんが一歩踏み込む。
正面から振り下ろされた刀を受け流し、肆禍の左側へ回り込んだ。
刀を握る肆禍の腕を斬りつける。
肆禍の手から刀が離れ、地面へ突き刺さった。
その隙を逃さず、伊鶴さんが左胸へ刀を突き出す。
刃が深く沈み込み、大量の黒い靄が噴き出した。
今度こそ、核に届いた。
そう思った。
肆禍の口元が、さらに大きく歪む。
『捕らえた』
肆禍が素手で刀身を掴んだ。
黒い靄を噴き出しながら強引に刃を引き抜き、伊鶴さんの身体を引き寄せる。
伊鶴さんが刀から手を離そうとした時には、もう遅かった。
肆禍の拳が腹部へ叩き込まれる。
「がっ……!」
伊鶴さんの身体が大きく吹き飛び、建物の壁へ激突した。
壁面が陥没し、崩れた破片が道路へ落ちる。
「伊鶴さんっ!」
肆禍は掴んでいた伊鶴さんの刀を瓦礫の方へ投げ捨てると、地面に刺さっていた自らの刀を拾い上げた。
そして、俺へ顔を向ける。
背中に冷たいものが走る。
肆禍が一歩、こちらへ近づいた。
結界の表面に、僅かな揺らぎが生じる。
「お前の相手は、俺だ」
瓦礫の中から声が聞こえた。
伊鶴さんが傍らに落ちていた刀を拾い上げ、構え直しながら立ち上がる。
口元から血を流し、裂けた肩の隊服も赤く染まっていた。
それでも、その目から戦意は消えていない。
『まだ立つのか』
「怨屍を前に、寝ているわけにはいかないからな」
肆禍は俺へ向けていた身体を、再び伊鶴さんへ向けた。
『ならば、先にお前を斬るとしよう』
「やってみろ」
伊鶴さんが刀を構える。
次の瞬間、二人の姿が同時に消えた。
通りの中央で刀が激突し、凄まじい衝撃が呪域全体を揺らした。
◇
戦場から少し離れた建物の屋上。
そこに、何かが立っていた。
角も、牙も、異形の手足もない。
頭の先から足元まで、その輪郭は完全に人間のものだった。
赤黒く染まった空を背にしているため、顔までは見えない。
人影は伊鶴と肆禍の戦いには目もくれず、結界の中にいる颯斗だけを見つめていた。
「……あれか」




