26話 怪異の終わりと
「二人とも、伏せて!」
聞き覚えのある声が理科室に響いた。
篠原さんの肩を抱き、その場に屈む。
直後、頭上を銀色の光が通り過ぎた。
細身の短刀が、幽霊の胸元へ深く突き刺さる。
硬いものが砕けるような音が、理科室に響いた。
「ぁ……」
男の身体から、黒い亀裂が消えていく。
伸びていた指や骨の突起も元へ戻り、周囲に満ちていた淀んだ霊力が霧散した。
男は一瞬だけ、穏やかな表情を浮かべる。
その姿は淡い光に包まれ、やがて空気へ溶けるように消えていった。
それに伴い、室内を覆っていた黒い靄も薄れていく。
振り返ると、そこには白衣を着た三条先生が立っていた。
「三条先生……?」
「怪我はない?」
「はい。俺も篠原さんも大丈夫です」
「それならよかった」
先生は普段と変わらない軽い口調で答えながら、理科室の奥へ歩いていく。
床へ落ちた短刀を拾い上げ、刃に僅かに残った黒い靄へ目を細めた。
「もう少し遅かったら、完全に怨屍になってたね。間に合って良かったよ」
「今の幽霊は、何だったんですか?」
男が消えた場所には、もう何も残っていない。
先ほどまで漂っていた不快な霊力も消え、薄暗い理科室だけが元の静けさを取り戻していた。
「怨屍になりかけていた霊だよ」
先生は短刀を軽く振り、刃に残った靄を払う。
「死後も強い未練や苦しみに囚われ続けた霊は、少しずつ魂が淀んでいく。その淀みが核を作りきると、元の姿や理性を失って怨屍になるんだ」
化け物になりかけていた男の姿が脳裏に浮かぶ。
伸びた指や骨の突起。
頬まで裂けかけていた口元。
あれは、怨屍に変わる途中だった。
「核を壊して、大丈夫だったんですか?」
「形成途中でも、核の性質は怨屍になった後と変わらない。壊せば、霊そのものを念から解放できる」
男が消える直前に見せた、穏やかな表情を思い出す。
あれは、浄化されたということなのだろう。
「それと、この異界を作ったのも、あの霊だったんですか?」
「そうだよ。もともとの霊力が強かったんだろうね。怨屍へ変わる途中で力が暴走して、学校の一部を現世から切り離してしまったみたいだ」
先生が話し終えるのと同時に、窓の外から音が聞こえた。
運動部の掛け声。
吹奏楽部の演奏。
先ほどまで消えていた人の声や生活音が、一斉に戻ってくる。
室内へ差し込む夕日も、いつの間にか元の明るさへ戻っていた。
「戻った……」
「原因がいなくなったからね。君たち以外の人は異界の外にいたから、何も気づいていないよ」
「どうして、俺たちだけが巻き込まれたんですか?」
「怨屍に狙われるのと同じさ。魂の淀みは、強い霊力に引き寄せられる」
先生の視線が、俺へ向けられる。
「特に桐生君。君は随分と霊力を垂れ流しているね」
予想していた指摘に、思わず視線を逸らす。
「垂れ流し……そんなですか」
「うん、君の霊力は探知できる者なら誰でも気付くよ。それに、篠原さんも普通の人より霊力が強い。あの霊は君の霊力に引かれ、近くにいた篠原さんも一緒に異界へ取り込んだんだろう」
隣から、視線を感じる。
顔を向けると、篠原さんが呆れたようにこちらを見ていた。
「だから言ったでしょう。よくないものを引き寄せると」
「……ごめん」
「まあまあ。本人も反省しているようだし、それくらいにしてあげよう」
先生が楽しそうに笑う。
その様子は、普段の保健室にいる時と変わらない。
だが、先ほど投げた短刀は、いつの間にか先生の手元から消えていた。
「学校の結界は、外からの侵入を防ぐものになっている。だから、中に留まっていた霊が変質することまでは防げないんだ。今後も同じことがあるかもしれないから、気をつけなさい」
霊を解放する術に、異界や怨屍について詳しいこと。
この人はただの保健医ではない。
「三条先生は——」
「さて、もう遅いね」
尋ねようとした言葉を遮り、先生が窓の外へ目を向ける。
「異界に巻き込まれた直後は、体調を崩すこともあるんだ。二人とも、今日は家まで送っていくよ」
「いえ、俺は一人で帰れますよ」
「駄目。帰り道で倒れられたら、保健医として寝覚めが悪いからね」
三条先生の手が俺の肩を掴む。
「でも——」
「ここは遠慮しないものだよ」
笑顔で言われたものの、断らせるつもりはないらしい。
隣を見ると、篠原さんは小さく息を吐いた。
「……素直に送ってもらいましょう」
「そうだね」
「では決まり。駐車場まで行こうか」
先生に続き、理科室を出る。
廊下には、部活動を終えた生徒たちの声が戻っていた。
窓も扉も、何事もなかったように開いている。
つい先ほどまで、ここが人の消えた異界になっていたとは誰も思わないだろう。
先生の車へ乗り込み、先に篠原さんの家へ向かう。
車内には音楽が小さく流れ、窓の外では見慣れた町並みが後方へ過ぎていった。
篠原さんと並んで後部座席へ座り、運転席の先生を見る。
「あの、三条先生」
「どうかした?」
「先生は、何者なんですか?」
「保健医だけど」
先生は、何を今さらというような口調で答えた。
バックミラーに映る表情にも、動揺した様子はない。
「そういうことじゃなくて」
「一応、医師免許も持ってるよ」
知っている。
未来の先生は、保健医を辞めて、家の近くにある病院で院長をしていたのだから。
でも、今はそんなことはどうでもいい。
「それでもなくて……さっきの短刀や、怨屍のことです」
先生は前を向いたまま、僅かに口元を緩めた。
「世の中には、普通の人には見えないものが見える人もいる。それだけのことだよ」
「異界や、怨屍になりかけた霊の対処まで知っている人が、ただ見えるだけとは思えません」
信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。
規則正しく鳴るウインカーの音が、短い沈黙を埋めた。
先生はハンドルへ手を添えたまま、バックミラー越しに俺を見る。
「桐生君は意外と鋭いね」
「先生が露骨に怪しいだけだと思います」
「酷いなあ。助けに行ったのに」
「助けてもらったことには感謝してます」
「なら、今日のところはそれでいいんじゃない?」
やはり、話すつもりはないらしい。
篠原さんへ目を向ける。
「篠原さんは、何か知ってる?」
「何のことでしょう」
「三条先生のこと」
「学校の保健医だと思いますよ」
篠原さんはこちらと視線を合わせようとはせず、窓の外を眺め続ける。
「……二人とも、誤魔化してない?」
「気のせいではありませんか?」
篠原さんが平然と答えた。
前に先生の手が光ったことを尋ねた時も、同じようにはぐらかされた。
もしかすると、篠原さんは初めから先生の正体を知っていたのかもしれない。
「篠原さんはこの辺りでいいかな」
「はい。そちらの神社の前でお願いします」
先生が車を停める。
篠原さんは礼を言って車を降りると、開いたままの扉越しに俺へ顔を向けた。
「それでは、また明日」
「うん。また明日」
篠原さんが扉を閉め、神社の方へ歩いていく。
その後ろ姿が見えなくなると、車は再び走り出した。
「仲良いんだね」
静かになった車内で、先生が不意に口を開く。
「篠原さんとは、最近話すようになっただけですよ」
「そうなの?随分と息が合っているように見えたけど」
「今日、一緒に異界へ閉じ込められたからじゃないですか」
「それもそうか」
篠原さんがいた間は、先生と揃って話を逸らされてしまった。
今なら、先生と二人きりだ。
このまま誤魔化されて終わるつもりはなかった。
「それより、先生の正体について、まだ答えてもらってません」
「諦めないねえ」
「気になりますから」
「気持ちは分かるけど、今はまだ内緒」
「どうしてですか?」
「物事には、知るのに丁度いい時期があるからだよ」
理由になっているようで、何も答えていない。
さらに追求しようとしたものの、先生は前を向いたまま楽しそうに笑うだけだった。
これ以上は、何を聞いても同じ答えしか返ってこないだろう。
結局、先生が何者なのかは分からないまま、家の前まで送られた。
「じゃ、また学校でね」
「送ってくださり、ありがとうございました」
車を降り、走り去っていく後ろ姿を見送る。
今回は先生が来てくれたから助かった。
だが、次も誰かが助けに来てくれるとは限らない。
力だけでは足りない。
もっと怨屍や霊について知る必要がある。
そう考えながら、薄暗い門の下を潜った。




