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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
1章

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25話 怪異

 三体の弐禍を倒してから、数日が経った。


 あの日以降、登下校中に怨屍と遭遇することもなく、穏やかな日々が続いていた。

 今日も、このまま何事もなく一日を終えるはずだった。


 教室の窓から差し込む西日が、机の上に長い影を落としている。

 俺は教室に残り、篠原さんと二人でプリントの束を机の上へ並べていた。


「桐生、篠原。悪いが、残りも頼んだぞ」

「はい」

「分かりました」


 担任はそう言い残すと、別の書類を抱えて教室を出ていった。


 明日の授業で使うプリントを順番に重ね、一組ずつ分けていく。

 本来なら、日直である俺一人が頼まれた仕事だった。

 しかし、枚数が多かったためか、帰ろうとしていた篠原さんが気を遣って手伝ってくれていた。


「篠原さん、別に先に帰ってもよかったのに」

「二人でやった方が早く終わりますから。それに、この間助けていただいたお礼です」

「そんな、気にしなくてもいいのに」

「私がいると困りますか?」


 次のプリントを取りながら、篠原さんが横目で見てくる。

 

「いや、助かってるよ」

「なら、問題ありませんね」


 篠原さんは涼しい顔で答え、またプリントをまとめていく。

 教室には、紙の擦れる音と俺たちの足音だけが響いていた。


 窓の外へ目を向ける。

 校庭で部活動をしていた生徒たちも、少しずつ帰り始めているようだ。

 日は大きく傾き、空には茜色と群青色が混じり始めていた。


「これで最後かな」


 残っていたプリントを手に取る。


 篠原さんも手元を確認してから、小さく頷いた。


「そうですね。枚数も合っています」

「思ったより早く終わったね。手伝ってくれてありがとう」

「どういたしまして」


 最後にホチキスで留めると、まとめたプリントの束を教卓の上へ置く。


「帰ろうか」


 教卓の上に残った空箱を片づけ、それぞれ鞄を持つ。

 

「はい」


 教室の照明を消そうと、扉の近くにあるスイッチへ手を伸ばした。


 その時だった。


 突然、開け放たれていた窓が勢いよく閉まった。

 激しい音が、教室中に響き渡る。


「っ……!」


 反射的に振り返る。


 開いていたはずの窓が、すべて閉じていた。

 風が吹き込んだわけではない。


「今のは……」


 篠原さんが窓へ近づき、鍵へ手をかけた。

 上げようとしても、鍵は僅かに音を立てるだけで動かない。


「開きませんね」

「固まってる?」

「ええ」


 俺も隣の窓を確かめる。


 力を込めてみたものの、鍵はびくともしなかった。

 古くなって動かないというより、見えない何かに押さえつけられているような感覚がある。


 その直後、廊下から重い音が聞こえた。


 教室の前後にある扉が、同時に閉まった。


 一瞬遅れて、ほかの教室からも次々と音が響く。

 窓や扉が閉じていく音は、廊下の奥へ向かって遠ざかり、やがて途絶えた。


 教室内が静まり返る。


 少し前まで微かに聞こえていた運動部の掛け声も、吹奏楽部の演奏も消えていた。


「え、何が起きて……」


 篠原さんが窓の外へ目を向ける。


 釣られて見てみれば、校庭に人の姿はなくなっていた。

 部活動で使用していたボールや用具は残されている。

 それなのに、生徒も教師も一人として見当たらなかった。


 まるで、初めから誰もいなかったかのようだ。


 教室の扉へ近づき、取っ手へ手をかける。

 こちらは窓と違い、抵抗なく開いた。


 警戒しながら廊下へ顔を出す。


「誰かいませんか?」


 返事はない。


 廊下にも、人の姿はなかった。


 窓から差し込んでいた夕日も弱まり、校舎全体が薄暗く沈んでいる。


 薄気味悪い。


「……先生は、職員室に戻ったはずだよね」

「ええ。ほかにも、まだ学校に残っている人はいたはずです」


 教室を出て、近くの階段へ向かう。


 途中でほかの教室を覗いてみたものの、やはり誰もいない。

 机や鞄は残されている。

 つい先ほどまで人がいた痕跡だけを残して、生徒たちの姿だけが消えていた。


 背筋に冷たいものが走る。


 霊力を探ってみる。


 怨屍と遭遇した時に感じた、濁った気配。

 それに近いものが、校舎のどこかから漂っていた。


「篠原さん」

「はい。私も感じています」


 篠原さんの表情から、普段の僅かな柔らかさが消えていた。


「これは、あまりよくないものかもしれません」

「怨屍?」

「多分、違います」


 篠原さんが周囲を見回す。


「見た目は同じですが、ここは私たちがいた学校とは異なる空間です。恐らく、何者かが作り出した異界に取り込まれたのでしょう」

「異界……」


 彰さんとの鍛錬で訪れている場所を思い浮かべる。


 あそこも、現世とは異なる空間だと聞いていた。

 だが、今いる校舎は、いつもの学校とほとんど変わらない。

 違うのは、俺たち以外の人が消え、窓の外まで不自然なほど静まり返っていることだけだ。


「どうすれば、元の学校に戻るかな?」

「……原因を取り除くしかないでしょうね」


 原因、か。

 何がこんな状態にしたのか、全く見当がつかない。


 篠原さんも同じようで、眉を顰めていた。

 

「正体までは分かりません。ただ、原因となるものが校舎の中にあることは間違いありません」 

「外へ出るのは?」 

「難しいと思います。仮に出られたとしても、異界の中では同じ場所へ戻される可能性があります」

「だったら、原因を探すしかないか」 

「そうですね」


 篠原さんは怯える様子もなく、廊下の奥へ目を向けた。


「行きましょうか」


 そう言うと、篠原さんは俺より先に階段へ向かおうとした。

 

「篠原さんも行くの?」

「私を一人でここに残すつもりですか?」

「いや、そのつもりは……」

「二人で行動した方が安全です。それに、私も霊力探知ぐらいはできます」


 言う通りだ。

 一人ずつ別の場所を探すより、二人で行動した方がいい。


「分かった。でも、危なくなったらすぐに逃げて」

「桐生くんもですよ」

「俺は、怨屍なら戦えるから」

「怨屍ではない可能性もあります。それに、戦えるからといって、何をされても平気なわけではないでしょう?」

「……それは、そうだけど」


 真っ直ぐに見つめ返され、それ以上は何も言えなくなる。

 心配しているのは、俺だけではないらしい。

 

「では、お互いに気をつけましょう」

「うん」


 僅かに前を歩き、周囲を警戒しながら階段を下りる。


 一階に近づくにつれ、淀んだ霊力が濃くなっていった。


 照明の消えた廊下には、窓から入り込む僅かな光しかない。


 階段を下りきったところで、篠原さんが足を止める。


「待ってください」

「何か感じる?」

「こちらです」


 篠原さんが、下りてすぐ、右側の廊下へ視線を向けた。


 俺にも分かる。

 

 校舎全体に薄く広がっていた霊力の発生源が、次第にはっきりしてくる。

 廊下を進むほど空気が重くなり、呼吸がしづらくなっていく。


 壁や床はいつもと変わらない。

 それなのに、長い間使われていない建物へ入り込んだような、湿った臭いが漂っていた。


 突然、背後で物音がした。


 振り返る。


 誰もいない。


 けれど、今通ってきたはずの廊下が、暗闇の中へどこまでも続いている。


「廊下、こんなに長かった?」

「いいえ」


 篠原さんの声が僅かに硬くなる。


「異界になったせいで広がったのでしょう。あまり時間をかけない方がよさそうですね」


 足を速める。


 やがて、廊下の奥にある理科室の前へ辿り着いた。

 

 扉は僅かに開き、その隙間から黒い靄が漏れ出している。

 淀んだ霊力の中心は、この中だ。


「篠原さんは、ここにいて」

「一人で入るつもりですか?」

「中に何がいるか分からないから」

「それなら尚更、一人では危険です」


 止める間もなく、篠原さんが俺の隣へ並ぶ。


 視線を向けると、静かに見返された。


 何を言っても、ここに残るつもりはないらしい。


「あまり離れないでね」

「はい」


 首元の霊珠へ霊力を流す。

 抜き身の刀が顕現し、それと同時に制服が隊服へ切り替わった。


 篠原さんが目を見開く。


「それが、桐生くんの武器ですか」

「まあね」


 刀を構え、理科室の扉へ手をかける。


 ゆっくりと横へ開いた。


 鼻を突く薬品の臭いが漂ってくる。


 室内は暗く、並んだ机や椅子が黒い影を落としていた。

 奥にある準備室の前で、何かが俯いて立っている。


 人だ。


 薄汚れた服を着た、痩せた男。

 顔色は青白く、垂れ下がった髪の隙間から覗く両目は黒く濁っている。

 首や頬には黒い亀裂が走り、その隙間から靄のようなものが漏れ出していた。


 幽霊だ。


 だが、以前に見た幽霊とも、これまで戦った怨屍とも明らかに様子が違う。


「……あ……あぁ……」


 男の口から、掠れた声が漏れる。


 胸元には、黒い染みのようなものが浮かんでいた。

 それは脈打つたびに周囲の霊力を吸い込み、少しずつ大きくなっている。


「あれは……?」

「幽霊です。ただ……」


 篠原さんが、男の胸元へ視線を向ける。


「このままでは危ないですね」

「もしかして、怨屍になる……とか?」


 俺の問いに、篠原さんは小さく頷く。


「止める方法は?」

「分かりません。私も、実際に見るのは初めてです」


 男が、ゆっくりと顔を上げる。


 黒く濁った目が、俺を捉えた。


 胸元にある黒い染みが、強く脈打つ。


「……ほしい……」

「何だ?」

「お前を……よこせ……」


 男の身体が大きく仰け反った。


 黒い亀裂が腕や首へ広がり、指先が異様なほど長く伸びていく。


 周囲の机が浮かび上がった。


「篠原さん、下がって!」


 叫ぶのと同時に、机や椅子がこちらへ飛んできた。


 篠原さんの前へ出て、刀を振るう。

 迫ってきた椅子を叩き落とし、続けて机を横へ弾く。

 けたたましい音を立て、床へ転がった。


 男がこちらへ手を伸ばす。


 指先から放たれた黒い靄が、何本もの腕へ変わった。


 横へ踏み込み、迫る腕を斬り払う。


 刃が触れた部分は霧散したものの、すぐに新たな腕が生まれた。


 きりがない。


「桐生くん、胸元です!」


 篠原さんの声に、男の胸へ視線を向ける。


 黒い染みの中心に、硬い核のようなものが生まれ始めている。


 怨屍を倒した時と同じように、あれを壊せばいいのか。

 だが、今のあれはまだ幽霊だ。

 核を壊せば、男の魂はどうなる。

 怨屍のように消滅するのか。

 それとも、淀みだけを取り除くことができるのか。


 分からないまま、斬ることはできない。


 迷っている間にも、男の姿は異形へ近づいていく。

 肩から骨のような突起が伸び、口元が頬まで裂け始めていた。


 このまま変貌が進めば、完全な怨屍になるかもしれない。

 それでも、男の魂がどうなるか分からないまま核を斬ることはできない。

 

「どうすれば……」 


 その時、理科室の扉が勢いよく開いた。

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