24話 異変
翌日の放課後。
浩透たちと別れ、一人で家へ向かっていた。
空は茜色に染まり始めている。
昼間は暖かかったものの、日が傾くと吹く風にも僅かな冷たさが戻っていた。
大通りを抜け、住宅街へ入る。
この辺りは家へ帰る時によく通る道だ。
車の通りは少なく、歩いている人の姿もほとんどない。
いつもと変わらない帰り道。
そう思っていた時だった。
不意に、背筋を撫でるような嫌な感覚が走る。
怨屍だ。
すぐに足を止め、周囲へ視線を巡らせた。
気配は近い。
それも、一つではない。
どれも、壱禍とは比べものにならない霊力を帯びている。
視線を向けた先。
住宅街の外れにある空き地の前に、一体の怨屍が佇んでいた。
二メートルほどある、蜥蜴に似た異形。
灰色の体表には無数の亀裂が走り、地面へ届くほど長い前脚の先から、湾曲した爪が伸びている。
横に裂けた口には、不揃いな牙が幾重にも並んでいた。
黒く染まった結膜の中で、濁った瞳がこちらを捉える。
怨屍が四肢で地面を蹴った。
「っ……!」
考える暇もなく、長い前脚が横薙ぎに振るわれた。
身体を屈めると、頭上を鋭い爪が通り過ぎた。
風圧に髪が激しく揺れる。
すぐさま刀を顕現させる。
手元に抜き身の刀が現れるのと同時に、制服が隊服へ切り替わり、肩にかけていた鞄も消えた。
続けて振り下ろされた爪を刃で受け流し、怨屍の懐へ踏み込む。
狙うのは、左胸。
刀を突き出した瞬間、怨屍が胴を大きく捻った。
切っ先は胸元を掠めるだけに留まる。
太い尾が地面を擦りながら迫ってきた。
咄嗟に刀を引き戻し、刃で受け止める。
鈍い衝撃が腕から肩へ突き抜け、靴底が舗装路を擦った。
腕が痺れたものの、刀を落とすほどではない。
以前よりも、動きが見える。
参禍に比べれば速くない。
攻撃も、捌けないほど重くはなかった。
これなら、倒せる。
刀を握り直し、再び距離を詰める。
怨屍が長い前脚を振り上げた。
振り下ろされる直前に横へ踏み込み、爪の下を潜り抜ける。
側面へ回り込み、そのまま後ろ脚を斬り払った。
片脚を失った怨屍の身体が、大きく傾く。
怨屍が地面へ倒れるより早く、傾いた身体へ踏み込み、左胸へ刀を突き立てた。
刃が硬いものを貫く感触が伝わる。
核を捉えた。
怨屍は声を上げる間もなく、黒い塵へ変わっていった。
「……よし」
一体目。
刀を引き抜き、息を整えようとする。
その時、背後から地面を蹴る音が聞こえた。
振り返るより早く、横へ飛ぶ。
直後、立っていた場所へ巨大な前脚が叩きつけられた。
舗装された地面に亀裂が走り、細かな破片が宙へ舞う。
着地と同時に顔を上げる。
そこには、先ほどとは異なる怨屍が立っていた。
熊に似た巨体。
黒ずんだ体毛の隙間からは、岩のように硬質化した皮膚が覗いている。
異様に太い二本の前脚には、地面を抉るほど大きな爪が備わっていた。
視界の端で黒い影が動いた。
空き地に生い茂った草の中から、犬のような四つ足の怨屍がゆっくりと姿を現した。
身体は痩せ細り、背中からは骨のような突起が何本も伸びていた。
裂けた口の端から、粘ついた黒い液体が滴り落ちている。
「まだ二体も……」
二体の怨屍が、ほとんど同時に動き出した。
熊型の怨屍が正面から迫る。
その脇を抜けるように、犬型の怨屍が地面を駆けた。
先に巨体の怨屍が前脚を振り下ろす。
左へ躱すと、そこを狙って犬型の怨屍が飛びかかってきた。
避けきれない。
咄嗟に刀を横へ構える。
鋭い牙が刀へ食らいつき、重みに押されて体勢が崩れた。
「くっ……!」
犬型の怨屍を蹴り飛ばし、すぐに後ろへ下がる。
その直後、眼前を巨大な爪が横切った。
頬を掠めた風圧に、肌がひりつく。
休む暇もない。
二体は互いを意識して動いているわけではない。
それでも、一体の攻撃を避けた先へ、もう一体が襲いかかってくる。
片方だけに意識を向ければ、もう片方への対応が遅れる。
犬型の怨屍が、再び地面を駆け出した。
速い。
刀を振るうが、怨屍は地面へ身を伏せて刃を潜り抜けた。
そのまま脇を駆け抜け、鋭い爪を振るう。
袖が裂け、左腕に浅い傷が走った。
「っ……!」
痛みに顔を歪めながら、刀を返す。
だが、刃が届く前に犬型の怨屍は大きく後ろへ跳んだ。
入れ替わるように、熊型の怨屍が迫る。
振り下ろされた前脚を刀で受け流し、その脇を抜ける。
だが、待ち構えていたように犬型の怨屍が側方から飛びかかってきた。
咄嗟に身体を伏せる。
背中のすぐ上を怨屍が通り過ぎ、その爪先が肩を掠めた。
体勢を立て直すよりも早く、今度は熊型の怨屍が眼前へ迫る。
巨大な前脚が、腹部へ叩き込まれた。
「がっ……!」
身体が弾き飛ばされ、地面を転がる。
肺の中から空気が押し出された。
腹部に鈍い痛みが広がり、すぐには息を吸えない。
それでも、立ち止まってはいられない。
片膝をつき、刀を杖代わりにして身体を起こす。
前方では、二体の怨屍がこちらへ向き直っていた。
このまま同時に相手をしていても、体力を削られるだけだ。
動きを止める。
刀を握り直し、霊力を流し込む。
「雹水一式・水塊!」
二体の怨屍の頭上に、巨大な水塊が生まれた。
刀を振り下ろす。
落下した大量の水が、二体まとめて全身を包み込んだ。
暴れる怨屍を逃がさないよう、そのまま水を氷へ反転させる。
水塊は一瞬で凍りつき、巨大な氷塊へ姿を変えた。
怨屍の動きが止まる。
このまま、まとめて倒す。
氷の中で動けなくなった手前の熊型の怨屍へ駆け寄り、その左胸を袈裟斬りにした。
核ごと斬りつけると、輪郭が崩れ、黒い塵となって風へ流されていった。
二体目。
息を吐く間もなく、背後で甲高い音が響いた。
振り返る。
氷塊の表面に、何本もの亀裂が走っている。
「もうっ……!」
亀裂は瞬く間に広がり、氷塊全体を覆っていく。
次の瞬間、内側から弾けるように氷が砕け散った。
無数の氷片の中から、犬型の怨屍が飛び出す。
すぐに刀を構えたものの、身体が思うように動かない。
立て続けの戦闘で、呼吸は大きく乱れていた。
腹部の痛みも消えていない。
腕や足にも少しずつ疲労が溜まり、動きが鈍くなっている。
まだだ。
怨屍が地面を蹴る。
正面から飛びかかってきた身体を、横へ転がって躱した。
すぐに立ち上がろうとするが、足に力が入りきらない。
片膝をついたまま顔を上げる。
怨屍は地面を滑るように向きを変え、再びこちらへ駆けてきた。
刀で受け止めるだけでは、また押し倒される。
片手を前へ翳した。
「雹水二式・氷弾!」
氷弾が右前脚を穿つ。
前脚を大きく抉られた怨屍は体勢を崩し、勢いを殺しきれないまま地面を転がっていった。
今しかない。
痛む身体を無理やり起こし、一気に踏み込む。
怨屍が立ち上がるより先に距離を詰めた。
残った前脚の爪が振り上げられる。
刀を斜めに構えて受け流し、左胸へ刃を深く突き立てた。
怨屍の身体から力が抜ける。
刃を引き抜くと、塵へ変わり、足元から崩れ落ちていった。
「はぁ……はぁ……」
その場に膝をつく。
終わった。
周囲を探ってみても、ほかに怨屍の気配はない。
三体すべて、倒した。
刀を地面へ突き立て、乱れた呼吸を整える。
すでに限界に近かった。
腹部には鈍い痛みが残り、左腕と肩からは少量の血が流れている。
足も重く、今すぐにもう一体現れれば、先ほどまでのように動けるかは分からない。
それでも、一人で三体の弐禍を倒せた。
少しは、強くなれているのだろうか。
そう考えていると、遠くから霊力が近づいてきた。
何度も感じた、馴染みのある霊力だ。
顔を上げる。
上空に一人の青年がいた。
黒い髪に、黒色の目。
片手には、抜き身の刀を携えている。
「彰さん」
彰さんは軽やかに空き地へ降り立った。
俺の近くまで来ると、周囲へ視線を巡らせる。
「全部倒せたようだね」
「はい。なんとか」
返事をしながら立ち上がろうとする。
だが、足に上手く力が入らず、身体が僅かに傾いた。
彰さんがすぐに腕を伸ばし、倒れそうになった俺を支える。
「大丈夫かい?」
「ちょっと疲れただけです。怪我も大したことないので」
「そう」
彰さんは俺の腕や肩の傷へ目を向けたあと、目を細めた。
「複数の弐禍を相手に、よく倒せたね。随分と腕を上げたじゃないか」
「あ、ありがとうございます」
素直に褒められると、少し気恥ずかしい。
彰さんの腕を借りながら立ち上がり、地面へ突き立てていた刀を引き抜く。
「彰さんも、怨屍を倒してきたんですか?」
「まあね。ここにもいるのを察知したから、先に向こうを片づけてから来たんだ」
「そうだったんですね」
そう言って彰さんが刀の顕現を解いた。
「それにしても、三体も弐禍が現れるとは思いませんでした」
「そうだね。少し前までなら、呪域でもないところでここまで続けて現れることは滅多になかったんだけど……」
彰さんの表情から、僅かに笑みが消える。
「ここ数日、前にも増して怨屍が多く現れるようになっているんだ」
「怨屍が?」
「うん。壱禍だけではない。弐禍や参禍も、以前より多く見かけるようになった」
今日だけで、俺も三体の弐禍に襲われた。
彰さんも、ここへ来る前に別の怨屍を討伐している。
偶然で片づけるには、確かに数が多い。
「何か、原因があるんですか?」
「今のところは、まだ分からない。こちらでも調べてはいるけどね」
彰さんは一度周囲を見回してから、低い声で続けた。
「この状態が続けば、以前にも増して襲われやすくなるかもしれない。十分に気をつけるんだよ」
「……はい」
今日のような襲撃が、これからも続くかもしれない。
今回は、なんとかすべて倒すことができた。
だが、もっと数が多ければ。
あるいは、弐禍ではなく参禍が複数現れれば、俺一人では対処できないだろう。
彰さんが、俺の持つ刀へ視線を落とす。
「あとは家に帰って、ゆっくり休むといい」
「そうします」
刀を霊珠に戻す。
張り詰めていた気が緩んだ途端、全身の疲労が一気に押し寄せてきた。
彰さんはそんな俺の様子を見て、僅かに苦笑する。
「家まで送っていこうか」
「大丈夫ですよ。ここからなら、そんなに遠くないですし」
「遠慮しなくて良いよ。その様子じゃ、今日はもう戦えそうにないんだから」
「……お願いします」
「素直でよろしい」
彰さんは楽しそうに笑うと、俺の歩調に合わせて歩き始めた。
その隣を歩きながら、先ほどまで怨屍がいた空き地へ目を向ける。
黒い塵はすでに消え、そこには砕けた地面と、散らばった氷の欠片だけが残されていた。
傾いた日の光を受け、氷片が溶け始めている。
ここ数日で、急激に増え始めた怨屍。
それが何を意味するのか、今の俺には分からない。
重い足を前へ運びながら、考える。
もし次に現れるのが、今日より多かったら。
あるいは、複数の参禍だったら——。
その時も一人で切り抜けられるとは、到底思えなかった。




