22話 クラスメイトと保健医
体育の授業が始まり、準備運動として外周を走っていた。
四月も終わりに差しかかり、日中は随分と暖かくなっている。
頬を撫でる風にはまだ涼しさが残っているものの、走り始めて間もないというのに、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「颯斗、なんか足速くなった?」
隣を走る浩透が、こちらを見ながら問いかけてきた。
「そうか?」
「そうだよ。いつもより余裕そうだし」
言われて、自分の呼吸へ意識を向ける。
確かに、以前ならもう少し息が上がっていたはずだった。
「最近の鍛錬のおかげかな」
「鍛錬……確か、武道の指導受けてるとかってやつか?」
「そうそう」
浩透は走りながら、俺の腕や足元を順に眺めた。
「ふーん。それは随分と……まあいいや」
何かを言いかけるも、それ以上続けることはなかった。
毎週の鍛錬に加え、ここ数日は怨屍を相手に走り回っている。
その成果が、少しずつ身体にも表れてきているのだろう。
霊力を使っているわけでもないのに、足取りは軽い。
意識して速度を落とさなければ、隣を走る浩透を置いていってしまいそうだった。
「その、あんまり無茶するなよ」
「ん?ああ」
どうしたのだろう。
今日は怪我もないから、見た目だけならいつも通りなはずだ。
心配されるほどの状態ではない、と思う。
校庭の角を曲がる。
前方には、先頭をきっている女生徒が一人いた。
篠原雪さんだ。
高い位置で結ばれた黒髪に、整った顔立ち。
もの静かで落ち着いているためか、近寄りがたい印象を受けるものの、男女問わずに人気があった。
そのとき、篠原さんの靴底で小石が滑った。
「あっ——」
右足首が外側へ折れ、身体が大きく傾く。
立て直す間もなく、篠原さんは前に倒れ込んだ。
速度を上げて篠原さんのもとへ駆け寄る。
「篠原さん、大丈夫?」
篠原さんは両手を地面につき、ゆっくり上体を起こした。
膝には砂や小石が付着し、その下から赤い血が滲んでいる。
「少し躓いただけです」
そう答え、何事もなかったように立ちあがろうとする。
しかし、右足を地面についた途端、篠原さんの顔が僅かに歪んだ。
「足、怪我してる」
「大丈夫です。これくらいなら……」
再び右足へ体重をかけようとしたものの、痛みに耐えられなかったのか、身体がぐらりと傾く。
咄嗟に腕を掴み、その身体を支えた。
「無理しないほうがいいよ」
「……すみません」
遅れて浩透も追いついてきた。
「篠原、怪我か?」
「みたいだ。篠原さん、ちょっと失礼」
篠原さんの背中と膝の裏へ腕を回すと、その身体を持ち上げる。
腕にかかった重みは、想像していたよりもずっと軽かった。
以前の俺なら、立ち上がるだけでも多少は力んでいたかもしれない。
だが、今は、腕にも腰にもほとんど負担を感じなかった。
「っ、桐生くん何を⁉︎」
「足痛いでしょ。保健室行くよ」
驚く篠原さんを、落とさないようにしっかりと支え直す。
後ろから嬌声が聞こえてきた。
だが、今はそんなことは無視だ。
早く保健室に連れて行こう。
「おおー、颯斗やるじゃん」
「何がだよ」
浩透が茶化すのを適当に流し、校舎の方へ早足で向かう。
「浩透、先生には話しといてくれ!」
「おう!」
校舎が近づいてきたとき、腕の中で篠原さんが僅かに身じろぎした。
「……あの、桐生くん、もう下ろしてもらって大丈夫です」
「まだ痛むんじゃないの?」
「それは……そうなのですが」
困ったように言葉を濁し、篠原さんが周囲へ目を向ける。
授業中だからか、校舎の近くに人の姿はない。
それでも、ひどく落ち着かない様子だった。
「もしかして、恥ずかしい?」
「……まあ、そうですね」
俺は今、篠原さんを横抱きしている。
一般的にはお姫様抱っこと呼ばれる抱き方だ。
よくよく考えてみれば、ほとんど話したことのない男子にこんな抱き方をされて、平気でいられるはずもなかった。
「ごめん、配慮が足りなかった」
「いえ、転んだ私がいけないのです」
足の傷もあるし、いまさら体勢を変えるわけにもいかない。
少しでも早く保健室に着けるよう、歩調を速めた。
昇降口へ入り、靴箱の前で足を止める。
篠原さんを抱えたままでは、上履きに履き替えられない。
「篠原さん、一度ここに座れる?」
「はい」
近くに置かれていた長椅子へ、怪我をした右足に触れないよう、ゆっくりと下ろす。
篠原さんは腰を下ろすと、土のついた両手へ目を向けた。
膝から滲んだ血は、体育着にも薄く広がっている。
「手も擦ってる?」
「少しだけ。ですが、こちらはそんなに痛くありませんよ」
見せてもらうと、手のひらにも細かな砂が付着していた。
血は出ていないが、薄く赤くなっている。
「痛そうだね」
「見た目ほどではありませんよ」
先に自分の上靴を履き終えると、篠原さんの靴も履き替えた。
再び抱き上げると、保健室のある方へと足を進める。
授業中の廊下は静まり返っていた。
遠くの教室から聞こえる教師の声に混じり、俺の足音だけが硬い床へ響いている。
篠原さんは腕の中で身を縮め、俯いたまま黙り込んでいた。
走っていた時とは違い、高く結んだ黒髪が肩から垂れ下がっている。
「気分悪くない?」
「問題ないです」
「ならよかった」
それきり、再び会話が途切れた。
何か話した方がいいのだろうか。
けれど、篠原さんとはこれまでほとんど話したことがない。
急に話題を探そうとしても、何も浮かんでこなかった。
そうしているうちに、保健室の前へ辿り着く。
篠原さんを抱えたまま扉を叩き、横へ開けた。
「失礼します」
室内には、微かに消毒液の匂いが漂っていた。
白いカーテンの向こうから人の動く気配がし、やがて一人の男性が姿を現す。
「おや、どうした?」
白衣を着た保健医の三条先生が、俺たちを見て目を細めた。
「外周を走っている途中で転んだんです。右足も痛めているみたいで」
「なるほどね。ひとまず、そこの椅子に下ろしてくれるかな」
「はい」
三条先生に示された丸椅子へ、ゆっくりと篠原さんを下ろす。
「桐生くん、ありがとうございます」
「どういたしまして」
篠原さんが腰を下ろしたのを確かめ、身体から腕を離す。
三条先生は篠原さんの前へ屈むと、傷の状態へ目を走らせた。
「随分と派手に転んだね。手と膝は擦り傷か。足首も軽く捻ってるね」
「はい」
「少し触るよ」
断りを入れてから、三条先生は靴下を下げ、右足首へ手を添えた。
「腫れも酷くないし、すぐに痛みは引くよ。ただ、今日は無理しない方がいい」
「わかりました」
「じゃあ、先に擦り傷を綺麗にしようか」
三条先生はそう言うと、棚から消毒液やガーゼを取り出した。
手のひらと膝についた砂を洗い流し、慣れた手つきで傷を処置していく。
消毒液が触れた瞬間、篠原さんの指先が僅かに強張った。
けれど、痛いとは口にせず、黙って三条先生の手元を見つめている。
膝へガーゼを貼り終えると、三条先生は篠原さんの右足首へ手を添えた。
その手の隙間から、淡い光が漏れた。
「……?」
思わず目を凝らす。
しかし、光は瞬く間に消え、そこには篠原さんの足から手を離した三条先生の姿しかなかった。
今、光ったような……。
「どうかした?」
三条先生が顔を上げる。
「いえ、なんでもありません」
「そう?」
気のせいだったのだろうか。
窓から差し込んだ光が、何かに反射しただけかもしれない。
「はい、これでおしまい。立てそうかな?」
「はい」
篠原さんが上履きへ履き替え、椅子から立ち上がる。
恐る恐る右足を床につけたものの、先ほどのように顔を歪めることはなかった。
そのまま何度か足を動かし、不思議そうに首を傾げる。
「……痛くありません」
「本当に?」
「はい。先ほどまでは、体重をかけるだけでも痛かったのですが」
軽い捻挫とはいえ、対処をしただけでここまで痛みがなくなるものなのだろうか。
「酷い怪我じゃなかったってことだね。でも、今日はあまり走ったりしないように」
「わかりました」
三条先生は特に不思議がる様子もなく、使った道具を片付け始めた。
「では、戻りましょうか」
「歩けそう?」
「ええ。もう問題ないです」
篠原さんは確かめるように数歩進んだが、その足取りに痛みを堪えている様子はない。
さっき見えた光といい、急に消えた痛みといい、どうにも引っかかる。
けれど、三条先生も篠原さんも気にしていない中で、俺だけが追求するのもおかしいだろう。
「ありがとうございました」
「はーい。怪我をしたら、いつでもおいでね〜。お大事に」
三条先生の軽い声に見送られ、篠原さんとともに保健室を出た。




