21話 家系
玄関には、灯りがついていた。
もう十九時近い。
ばあちゃんが待っているだろう。
小さく息を吐き、玄関の戸を引く。
「ただいま……」
扉の先には、ばあちゃんが静かに座っていた。
怒っている様子も、取り乱した様子もない。
ただ、俺の帰りを待っていた。
「おかえりなさい。ご飯、できていますよ」
いつもと変わらない声だった。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
「……うん」
靴を脱ぎ、居間へ向かおうとした、その時だった。
「颯斗さん」
背中へ静かな声がかかる。
「食事の前に、少しこちらへいらっしゃい」
やはり、そう来たか。
「……はい」
小さく返事をし、ばあちゃんの向かいへ腰を下ろす。
ばあちゃんは俺を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響いている。
「今日は、随分と帰りが遅かったですね」
「……ごめんなさい」
「昨日は外泊までしました」
責め立てるような口調ではなかった。
だからこそ、申し訳なさが募っていく。
「私が心配するとは、思いませんでしたか」
「思いました」
「では、なぜ連絡をしなかったのです」
言葉に詰まる。
怨屍や死神のことなど、どう説明すればいいのかわからない。
「……すみません」
それしか言えなかった。
ばあちゃんは僅かに目を伏せ、小さく息を吐く。
「叱りたいことはあります」
一拍置いて、静かに続けた。
「ですが、その前に一つだけ聞かせてください」
真っ直ぐな眼差しが、俺を捉える。
「颯斗さん。貴方には、怨屍が視えるようになったのですか」
息を呑んだ。
「……どうして、それを」
ばあちゃんは驚く俺から視線を外し、そっと目を伏せる。
「薄々、そうではないかと思っていました」
「え……?」
「ここ最近、帰りが遅くなることが増えました。怪我をして帰ってくる日もありましたね」
確かに、学校帰りに怨屍と遭遇し、怪我をしたことがあった。
今日も琴葉さんに治してもらわなければ、隠し通すことなどできなかっただろう。
「ですが、それだけではありません」
ばあちゃんが、ゆっくりと顔を上げる。
「この前から、貴方の霊力が大きくなったのを感じていました」
思わず、首元に下げたリングへ触れる。
俺の仕草を見たばあちゃんは、何かを確信したように目を細めた。
「そろそろ、話さなければなりませんね」
覚悟を決めるように頷くと、真剣な眼差しを向けてくる。
「話しましょうか。我が家系のこと——そして、貴方のお母さん、紫織のことも」
「母さん……?」
思わず聞き返した。
「貴方には、今まで話さずにいました。できることなら、何も知らずにいてほしかったのです」
母さん。
俺が三歳の時に亡くなった人だ。
顔も声も、ほとんど覚えていない。
写真の中で優しく笑っている姿だけが、母さんを知る手掛かりだった。
ばあちゃんも、滅多にその話をしようとはしなかった。
ばあちゃんはゆっくりと立ち上がり、仏間へ向かった。
「こちらへ来なさい」
「……はい」
そのあとを追う。
仏壇の前に座ったばあちゃんは、一枚の写真立てを手に取った。
幼い頃から何度も見てきた写真。そこには、穏やかに笑う母さんが写っている。
ばあちゃんは写真を見つめながら、小さく息を吐いた。
「あの子——紫織は、生まれた時から霊力の高い子でした。幼い頃から霊の姿が見え、怨屍の存在も知っていたのです」
ばあちゃんは写真から俺へ視線を移した。
「颯斗さん。貴方は怨屍について、どれほどご存じですか」
「元は死んだ人の魂で、それが怨霊を経て変化したものだって聞いた」
「ええ。では、怨屍を討伐し、魂をあるべき場所へ導くのが死神だということも?」
「うん。そこまでは聞いてるよ」
ばあちゃんは静かに頷いた。
「では、私たちの家系には、代々高い霊力を持つ者が生まれるということも?」
「聞いたよ」
ばあちゃんの眉が僅かに動いた。
「そうですか。私も紫織も、生まれた時から霊の類が視えていました。ですが、貴方はこれまで、その力に目覚めていなかった」
写真立てを持つ指が、母さんの姿をそっと撫でる。
その横顔はどこか懐かしげで、それ以上に寂しそうだった。
「だから私は、安心していたのです」
俺はつい最近まで、怨屍も幽霊も見えていなかった。
そのまま何も知らずにいられるのなら、不安を抱かせるような話を聞かせる必要もなかったのだろう。
「この先も何も見えないまま、普通の人生を歩めると思っていました」
ばあちゃんは写真から視線を外さない。
「あの子も、それを望んでいましたから」
「母さんが?」
「ええ。紫織は、貴方にはこの世界と関わらずに生きてほしいと願っていました」
ばあちゃんの目が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「あの世にまつわる世界は、常に死と隣り合わせです」
今日戦った参禍の姿が、脳裏に蘇った。
身体へ叩き込まれた衝撃。
迫り来る巨大な尾。
あと僅かでも彰さんの助けが遅れていれば、俺はここへ帰ってこられなかったかもしれない。
ばあちゃんは写真立てを仏壇へ戻した。
「だからこそ、私たちの血族は、この力と向き合いながら生きてきました」
血族。
彰さんの話していた、青の血族のことだろうか。
その疑問を肯定するように、ばあちゃんは続ける。
「青の血族については知っていますか」
「少しなら」
始祖と呼ばれる古代の神の血を継いだ一族。
桐生家も、その一族に連なる家だと彰さんから聞いている。
「桐生家も六藤家も、青の血族に連なる家系です」
六藤家は、ばあちゃんの生家だ。
「六藤家も?」
「ええ。この二つの家だけではありません。他にも、代々霊力を受け継いできた家系はいくつも存在します」
ばあちゃんは、少し困ったように笑った。
「本来であれば、六藤の者にも会わせたいところなのですが……」
そこで言葉を切り、気まずそうに視線を逸らす。
「実は、あまり付き合いがないのです」
「そういえば、親戚付き合いないよね」
「ええ。それは……」
一つ咳払いをする。
仏間の灯りに照らされた頬が、僅かに赤くなっていた。
「私が、駆け落ちしましたから」
恥ずかしそうに告げるばあちゃんを前に、なんと返せばいいのかわからない。
いつもは凛としているのに、今だけは見た目以上に若く見えた。
「そ、それは今は良いのですよ!話を戻しますよ」
ばあちゃんはわざとらしく咳払いをすると、いつもの落ち着きを取り戻した。
「ともかく、私たちは生まれながらに霊力を宿しています」
「でも、俺は最近まで何も見えてなかったよ」
「ええ。血族の者は幼い頃から見える場合がほとんどですが、稀に例外もいます」
「つまり、俺がその例外?でも、それなら、どうして今になって……」
「力が眠っていたのでしょう」
眠っていた、か。
本当にそうだったのなら、ずっと目覚めないままでいてほしかった。
そうすれば、怨屍に襲われることも、命を懸けて戦うこともなかったのだろうか。
「目覚めてしまったものは仕方ありません。何がきっかけだったのかも、私には分かりません。ですが、今の貴方は、以前と同じようには生きられないでしょう」
ばあちゃんの視線が、首元のリングへ落ちる。
母さんの形見として、幼い頃から持っていたものだ。
ばあちゃんは、これが何なのか知ったうえで俺に託したのだろう。
「それも、もう使えるようですね」
「うん」
「ならば、霊珠が何かも理解しているのですね」
首元を見つめたまま、ばあちゃんは小さく頷いた。
「一つだけ、貴方に伝えておかなければなりません。その霊珠は、桐生家に伝わるものではありません」
「え?」
思わずリングを手に取る。
「六藤家にも、代々受け継がれてきた霊珠はあります。ですが、貴方が身につけているものは、それとは別のものです」
「別の……?」
「ええ。それは、あの子が、ずっと身につけていたものです」
母さんが、このリングを。
思わず写真へ目を向ける。
母さんの指には、今俺が身につけているものと同じ指輪が嵌められていた。
何度も見てきた写真なのに、今まで気にも留めていなかった。
「その霊珠がどこから来たものなのか。なぜ紫織が持っていたのか。残念ながら、私にも分かりません」
ばあちゃんは静かに首を横へ振る。
「紫織は、幼い頃からどこか大人びた子でした」
懐かしむような声に、僅かな陰りが混じる。
「今の貴方から感じる霊力は、目覚めたばかりとは思えないほど強いものです。紫織以外で、ここまでの霊力を持つ者を、私は知りません」
彰さんも、俺の霊力は高いと言っていた。
けれど、それがどれほど特別なことなのかは、今ひとつ実感できていない。
比べる相手もいないのだから、当然かもしれない。
「自分では分からない、といった顔ですね」
見透かされ、黙って頷く。
「それも当然です。使ったことのない力なのですから」
ばあちゃんの声は穏やかだった。
けれど、その眼差しからは不安が消えていない。
「だからこそ、これからは今まで以上に気をつけなければなりません」
あの日から、俺は何度も怨屍に遭遇している。
それも、目覚めた霊力と何か関係があるのだろうか。
「実は、今……死神に鍛錬をつけてもらってるんだ」
ばあちゃんの目が、僅かに見開かれた。
「……そうですか」
「うん。毎週末に、怨屍に襲われても自分で身を守れるようにって」
少しだけ迷ってから、続ける。
「だから、これからも帰りが遅くなる日があると思う」
ばあちゃんはすぐには答えなかった。
仏壇に置かれた母さんの写真を見つめ、ゆっくりと息を吐く。
「……本当なら、行かせたくはありません」
「うん」
「ですが、何も知らないまま殺されるよりは、戦う術を身につけた方がよいのでしょうね」
「……うん」
考え込むように黙ったあと、ばあちゃんは俺へ向き直った。
「ですが、一つ条件があります」
ばあちゃんの表情が、僅かに引き締まる。
「条件?」
「以前、帰りが遅くなる時は連絡すると約束しましたね」
返す言葉もなかった。
約束しておきながら、昨日は連絡もせずに外泊したのだ。
後ろめたさに小さく頷く。
「……うん」
「ならば、今度こそ必ず守りなさい。まして外泊するのであれば、事前に伝えること」
今度は曖昧にせず、しっかりと頷いた。
「分かった」
「それから」
声が、僅かに強くなる。
「絶対に、家へ帰ってきなさい」
その言葉が、胸の奥へ深く沈んだ。
ばあちゃんが厳しく言うのは、約束を破ったからだけではない。
俺が帰ってこなくなることを、何より恐れているのだ。
「うん。必ず帰る」
ばあちゃんは暫く俺を見つめていた。
やがて、張り詰めていた表情を僅かに緩める。
「ならば、週末の鍛錬は認めます」
「ありがとう」
安堵とともに、自然と頬が緩んだ。
「さて、話はここまでにしましょう。ご飯が冷めてしまいます」
「あ……うん」
そういえば、腹が減っていた。
参禍との戦いも、死神のことも、母さんのことも。
頭の中には、まだ整理できていないことがいくつも残っている。
それでも、胸の奥に溜まっていたわだかまりは、少しだけ軽くなっていた。
「そういえば、颯斗さん」
「なに?」
「宿題はしましたか?」
忘れていた。
「……ご飯を食べたら、すぐやります」
ばあちゃんは呆れたように眉を下げる。
「まったく。そちらも忘れないようにしてくださいね。あなたの本業は学生なのですから」
「はい……」
返事をしながら、母さんの写真をもう一度見た。
知らなかった母さんのこと。
母さんが持っていた、出自の分からない霊珠。
そして、目覚めたばかりとは思えないという俺の霊力。
写真の中の母さんは、何も答えず、変わらず優しく笑っている。
俺はリングを握り、小さく息を吐くと、ばあちゃんとともに居間へ戻った。




