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彼岸回帰録~巻き戻った世界が人外魔境だった件~  作者: 瑠衣
序章

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20話 帰り道

「酷い怪我じゃない!」


 異界へ戻るなり、琴葉さんが血相を変えて駆け寄ってきた。


 俺の全身を見回すと、すぐさま片手を地面へ翳す。

 淡い緑の光が足元へ広がり、木々が芽吹くように木製のベッドが形作られていった。


 琴葉さんはその細腕で俺の身体を軽々と持ち上げ、労わるような手つきでベッドへ寝かせる。

 木でできているはずなのに、不思議と硬さは感じなかった。

 身体を受け止める面が僅かに沈み、傷へ響かないよう優しく支えてくれている。


 琴葉さんが俺の身体へ手を翳す。

 掌から溢れた淡い光が、温かな膜となって全身を包み込んだ。


 肩や左腕の抉られた傷が、みるみるうちに塞がっていく。

 脇腹の奥へ沁み込んだ光が、折れた骨を一つずつ繋ぎ合わせていった。

 息をするたびに胸を締めつけていた痛みも、少しずつ薄れていく。


「終わり。どうかな?」


 琴葉さんが手を離すと、全身を包んでいた光が淡い粒となって消えていった。


 身体を苛んでいた軋むような痛みは、もうどこにもない。

 ゆっくりと上体を起こし、何度か手を握っては開く。

 ベッドから降りて肩や腰を動かしてみても、痛みも違和感もなかった。


 鉛のように重かった身体が、嘘のように軽い。


「いつもありがとうございます」


 笑顔で礼を伝える。

 すると、琴葉さんの大きな目が見開かれた。


 何か変なことを言っただろうか。


 そう思ったのも束の間、琴葉さんはすぐにいつもの笑顔へ戻った。


「どういたしまして」

「……そういえば、一つ聞いてもいいかい?」


 治療が終わり、一息ついたところで、彰さんが神妙な面持ちを浮かべた。


「なんですか?」

「あの時、何があったか覚えてる?」

「あの時……?」


 何のことだ?


 俺の記憶に残っているのは、あの異形に一方的に嬲られ続けたことだけだ。

 巨大な尾に薙ぎ払われ、身体を動かすことさえできなくなって——そのあと、彰さんが助けに入ってくれた。


 ……いや、何かがおかしい。


 彰さんが異形の核を破壊した時、その胸には別の刀が突き刺さっていた。

 あれは確か、俺の手に握られていた刀だった。


 けれど、どうしてそこにあったのかは思い出せない。


「その様子だと、覚えていなさそうだね。まあ、それも仕方ないか」


 彰さんは顎へ手を添え、小さく息を吐いた。


「何か、あったんですか?」

「ちょっと、ね」


 彰さんは眉尻を僅かに下げた。


「まあ、今は気にしなくていいよ」


 そんな言い方をされると、余計に気になってしまう。


 あの時、俺の身に何が起きたのだろう。


 問いかけようとしたものの、彰さんはそれ以上話すつもりがないらしい。

 穏やかな表情の奥からは、何も読み取れなかった。


「彰、私は黄泉に戻るわね」


 それまで静かにしていた琴葉さんが立ち上がった。


「珍しいですね。どうかされたんですか?」

「少し確かめたいことがあってね」

「確かめたいこと?」


 琴葉さんは答えず、一度だけ俺を見つめた。

 その瞳が何を映しているのかわからないまま、柔らかな笑みを向けられる。


「うん。またね」


 軽く手を振り、宙へ”離界”の二字をなぞる。

 文字から溢れた光が琴葉さんの身体を包み、その姿は跡形もなく消えてしまった。


「さて」


 静けさが戻ったところで、彰さんが軽く手を叩いた。


「今日の討伐は、これで終わり」


 その一言を聞いた途端、ようやく肩の力が抜けた。


 参禍との戦い。

 ほんの数分の出来事だったはずなのに、何時間も戦い続けていたような疲労感が身体の奥に残っている。

 傷は治っても、張り詰めていた精神までは元に戻らないらしい。


「お疲れ様」


 彰さんの声から、先ほどまでの硬さが消えた。


「……はい」


 返事をしながら、ふと右耳へ手を添える。

 もう熱は引いていた。


 あの時は焼けるような熱を帯びていたはずなのに、今は何事もなかったかのように静まり返っている。

 本当に、気のせいだったのだろうか。


「帰ったら、しっかり休むこと」

「はい」


 彰さんは俺の返事を聞くと、小さく頷いた。


「じゃあ、帰ろうか」


 そう言った直後、彰さんの姿が淡い光に包まれた。

 軍服が光へ溶け、代わりに現れたのは黒を基調とした袴姿だった。

 飾り気の少ない装いなのに、やけに似合っている。


「着物、似合ってますね。どうしたんですか?」

「ん?帰り道、少し話しながら行こうと思ってね。ずっと隊服姿というのも、君も疲れるだろう?」

「あ、なるほど」


 昨日から今日まで、家へ帰ることなく屋敷に泊まらせてもらっていた。

 鍛錬中はずっと隊服姿だったこともあり、随分と長く着ているような気がする。


 着心地は良いし、動きにくさもない。

 ただ、これを着ていると、どうしても気が抜けなかった。

 着慣れれば、そんなこともなくなるのだろうか。


「では、服を着替えてきます」


 屋敷へ向かって一歩踏み出した、その時だった。

 彰さんが俺の腕を軽く掴む。


「わざわざ行かなくても大丈夫だよ。武器の顕現を解く時と同じやり方で、元の服に戻る」

「顕現を解く時と同じ……」


 “隠(かくし)”。


 心の中で念じた瞬間、身に纏っていた軍服が淡い光へ変わった。

 光が弾けると、服装はいつものものへ戻っている。


「本当だ……」


 試しに、もう一度刀を顕現させる。

 手元に刀が現れると同時に、服も瞬時に軍服へ変わった。


 再び”隠”と念じれば、刀も軍服も消え、元の姿へ戻る。

 思っていた以上に使い勝手が良い。


「隊服姿の時も、幽隠の術は発動している。解く時は気をつけるように」

「わかりました」


 彰さんは頷くと、宙へ指を走らせた。

 綴られた文字が光を放ち、目の前の空間が水面のように揺らぎ始める。


 繋がった先は、見覚えのない路地裏だった。

 人の気配はなく、風が狭い路地を吹き抜ける音だけが聞こえてくる。


「今のうちに出よう」


 彰さんのあとに続き、異界を出る。

 足が地面へ着いた途端、現世の涼しい風が頬を撫でた。


 茜色の空には、少しずつ紺色が混じり始めている。

 家々の屋根瓦が夕日を受けて赤く染まり、どこかの家から夕食の匂いが漂ってきた。


 静かな街の中を、彰さんと並んで歩いていく。


「そういえば、明日は学校だったね」

「あ……」


 すっかり忘れていた。


「宿題、終わってないです……」

「あらら。それは大変だ」


 国語と社会の宿題。

 テスト前だからと、どちらもかなりの量を出されていた。


 国語の先生は優しいからまだ良いが、社会の先生は厳しい。

 忘れたとなれば、明日の授業で何を言われるかわからない。

 帰ったら急いで終わらせなければ。


「あの先生、うるさいんだよな……」

「その先生も、宿題を終わらせれば何も言わないよ」

「それはそうですね。頑張ります……」


 空の明るさを見る限り、まだ夜の七時前だろう。

 帰ってすぐに取りかかれば、なんとか間に合うはずだ。


「そうそう」


 彰さんが何かを思い出したように口を開いた。


「学校といえば、あの世にも学校はあるんだよ」

「あの世にも学校が?」


 思わず聞き返すと、彰さんは頷いた。


「へえ。ちなみに、何を学ぶんですか?」

「黄泉のことや、霊力の扱い方、武術なんかだよ」


 現世の学校とは、随分違う。

 怨屍の討伐もあるのだから、実戦に近い授業も行うのだろうか。


「それって、死神になる人だけが通うんですか?」

「そうだよ。修了して、初めて見習いとして働けるようになる」

「なるほど……」


 制服はあるのだろうか。

 霊術の授業では、どんな術を習うのだろう。


 教室に大勢の人が並び、術や武術を学んでいる光景を想像すると、少しだけ胸が躍った。


「いつか機会があれば、見学に来るかい?」

「良いんですか?」

「良いよ」


 彰さんは小さく頷いた。


 その時、前方から歩行器を押した一人の老婆が歩いてきた。

 車輪が地面を転がる音に合わせ、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 すれ違いざま、老婆は俺と彰さんの顔を何度か見比べた。

 やがて、微笑ましそうに目を細める。


「まあ、仲の良い兄弟さんねぇ」


 突然の勘違いに、思わず足を止めた。


「えっ、違います、違います!兄弟じゃないですよ」

「あらあら、そうなの?」


 老婆は俺と彰さんを、もう一度じっくりと見比べる。


「よく似た兄弟さんかと思ったわぁ」

「似てますか?」


 思わず隣に立つ彰さんを見る。

 自分では、似ていると思ったことなど一度もなかった。


「どうだろうね」


 彰さんは困ったように眉を下げる。


「髪色も、雰囲気もそっくりだもの」


 老婆はそう言って朗らかに笑った。


「お兄さん、弟さんのことを大事にしてあげるのよ」

「えっ、いや……」


 否定しようとした、その時だった。


「もちろん」


 彰さんが少しの間も置かず、あっさりと頷いた。


「ちょ、彰さん!?」


 驚いて振り向くと、彰さんは悪戯っぽく口元を緩める。


「……なんてね。冗談だよ」

「はあ……」


 思わずため息が漏れた。


「仲が良いのは、本当みたいねぇ」


 老婆は目尻を下げると、再び歩行器を押して去っていった。

 小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、息を吐く。


「……びっくりした」


 そこで、ふとあることに気づいた。


「そういえば……」


 隣に立つ彰さんを見る。


「彰さんって、普通の人にも見えてるんですね」

「ん?」

「死神だから、俺みたいに霊力がある人にしか見えないのかと思ってました」


 彰さんは「ああ」と小さく頷いた。


「普段の僕らは、人の目には映らないよ。でも必要があれば、こうして姿を見せることもできる」


 それを聞いて腑に落ちた。


 だから、老婆も彰さんの姿を見て驚かなかったのか。


「それにしても、あのおばあさん、面白い人だったね。でも、悪い気はしなかったかな」


 彰さんが茜色の残る空を見上げる。


「そうですね」


 思い返せば、少し恥ずかしかっただけで、不思議と嫌な気分ではなかった。


「兄弟、か……」


 小さく呟くと、彰さんは横目で俺を見た。


「羨ましい?」

「……少しだけ。俺、一人っ子なんですよ。兄弟がいたら、どうだったのかなって」


 幼い頃から、家には祖母と俺の二人だけだった。

 兄弟がいる友人たちを、少し羨ましく思ったこともある。


「兄弟ねぇ。僕にも弟が一人いてね。昔はよく二人で悪戯をして、周りを困らせていたなあ」


 彰さんの弟。

 どんな人なのだろう。


 彰さんに似ているのだろうか。


「彰さんも、悪戯とかしてたんですね」

「昔の話さ。僕にも幼少の時代があったからね。……何千年、何万年と生きていても、悪戯心を忘れない人もいるけど」


 彰さんの目に呆れの色が浮かぶ。


「あはは、そんな人もいるんですね」

「すごい人ではあるんだけどね。まあ、いつか会わせるよ」

「た、楽しみにしてます……」


 彰さんが呆れるほどの相手だ。

 会ってみたい気持ちはあるが、少しだけ不安もある。


 そんなやり取りをしているうちに、見慣れた道へ出た。

 遠くに我が家の門が見えてくる。


「今日は、本当にありがとうございました」


 門の前まで来ると、彰さんへ向き直って一礼した。


「どういたしまして。宿題、頑張ってね」

「……はい」


 最後に釘を刺され、思わず肩を落とす。


「来週も、同じ時間によろしくね」


 彰さんは軽く手を振ると、地面を蹴って屋根の上へ跳び上がった。

 黒い袴が風に揺れ、その姿は夕闇へ溶け込むように遠ざかっていく。


 やがて見えなくなるまで、俺はその背中を静かに見送っていた。

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