18話 呪域での異変
——前日の午後に始まった鍛錬は、彰さんの屋敷で一晩休んだ翌日も続いた。
剣を振るい、術を繰り返し、倒れるたびに治癒を受ける。これまで以上に苛烈な鍛錬だったが、その甲斐あって、刀を振るう動きからは少しずつ無駄が減っていた。
夕方。
琴葉さんに傷を治してもらっていると、彰さんが刀を霊珠へ戻しながら言った。
「今からまた、現世へ討伐に行こうか」
その言葉を聞いた途端、背中に冷たい汗が伝った。
前回の怨屍討伐が脳裏に蘇る。
高所から落とされたうえ、数多の怨屍がいる中へ放り込まれ、一人で戦わされた。
あの時よりは、強くなれたと思う。
それでも、不安が消えたわけではない。
「その……また呪域で、ですか?」
「もちろん」
彰さんは迷うことなく即答した。
がくりと肩が落ちる。
「彰、ほどほどにね。終わったら、また呼んでね」
「はいはい、わかっていますよ。ありがとうございます」
彰さんは琴葉さんへ軽く手を振ると、俺へ視線を向けた。
「行こうか」
「……はい」
琴葉さんの治癒が終わると、彰さんは宙へ”離界”の二文字をなぞった。
ぐにゃりと空間が歪む。
「準備はいいかい?」
傷も疲れも、琴葉さんに治してもらった。
大丈夫だ。
自分へそう言い聞かせ、刀を顕現させて頷く。
「じゃあ、行っておいで。危なくなったら助ける。だから、思う存分暴れてくるといい」
「頑張ります」
歪んだ空間へ足を踏み入れる。
次の瞬間、俺はビルの屋上に立っていた。
眼下には夕暮れの街が広がっている。
ビルの縁まで進み、地面を見下ろす。
そのまま屋上を蹴り、一気に飛び降りた。
地面へ着地した途端、いくつもの目が一斉に俺を捉えた。
低い唸り声が、夕暮れの街へ響く。
五体、六体……いや、それ以上。
怨屍達は俺を見つけるや否や、一斉に駆け出した。
来る。
正面から迫る一体へ踏み込む。
振り下ろされた腕を身を捻って躱し、胸を目掛けて刀を横薙ぎに振るう。
黒い身体が真っ二つに裂け、塵となって消えていった。
まずは一体。
……これなら、いける!
以前の俺なら、今の一撃にも間違いなく遅れていた。
彰さんとの鍛錬で身につけた動きが、確かに身体へ染みついている。
続けて、二体の怨屍が左右から迫る。
横薙ぎに振るわれた尾を屈んで躱し、もう一体が突き出した腕を爪ごと斬り落とす。
怯んだ胸へ刃を突き立て、その勢いのまま刀を引き抜く。
背後から飛びかかってきたもう一体を、振り返りざまに斬り伏せた。
怨屍が次々と塵へ変わっていく。
「——あれ?」
おかしい。
倒しているはずなのに、数が減らない。
いや、違う。
減ってはいる。
それ以上の速さで、新たな怨屍が現れているのだ。
『オオオオォォォォッ!』
狼に似た怨屍が、大きく天を仰いだ。
耳をつんざくような遠吠えが響き渡る。
周囲の怨屍達も呼応するように顔を上げ、一斉に吠え始めた。
このまま吠えさせていてはいけない。
直感が、そう告げていた。
空歩で地面を蹴り、一気に狼のような怨屍との距離を詰める。
遠吠えを続けるそいつの左胸へ、刀を突き立てた。
怨屍は大きく口を開いたまま、塵となって崩れていく。
だが、口元は笑っているように見えた。
嫌な予感がする。
辺りが、突然静まり返った。
さっきまで唸り声を上げていた怨屍達が、何かを待つように動きを止めている。
「……何だ?」
宙へ、一本の黒い裂け目が走った。
その奥から、ゆっくりと灰色の腕が伸びてくる。
「……っ」
思わず息を呑んだ。
まだ姿すら見えていないのに、身体が危険を訴えている。
やがて裂け目の奥から、人に近い姿をした異形が現れた。
これまでの怨屍とは、纏う霊力がまるで違う。
異形が地面へ降り立つと、その背後で裂け目が音もなく閉じた。
腰まで伸びた黒い髪。
人間に近い輪郭を残しながらも、肌は灰色に濁っている。
両腕の先から伸びるのは、指ではなく鋭い鉤爪。
その双眸だけが、不気味なほど赤く光っていた。
「人、じゃない……」
怨屍だ。
それは間違いない。
だが、これまで見てきたどの怨屍とも違う。
周囲を埋め尽くしていた怨屍達が、一斉に頭を垂れた。
まるで、現れた異形へ跪くように。
「そんな……」
刀を握る手へ、自然と力が入る。
異形がゆっくりと俺へ顔を向けた。
その口角が僅かに吊り上がる。
ぞわりと、背筋を悪寒が駆け抜けた。
周囲にいた怨屍達が、一斉に動き出す。
だが、狙いは俺ではなかった。
人型の異形へ向かって、我先にと駆け寄っていく。
「……何だ?」
異形はその場から一歩も動かない。
ただ、右手をゆっくりと持ち上げた。
すると、駆け寄った怨屍達の身体が黒い霧へ変わり始める。
「え……」
黒い霧は渦を巻きながら、次々と人型の異形へ吸い込まれていった。
一体、また一体。
怨屍を取り込むたびに、異形から溢れる霊力が膨れ上がっていく。
「嘘だろ……」
思わずビルの上を見る。
彰さんは、そこに立ったまま動かない。
危なくなれば助けると言っていた。
だが、少なくとも今は、手を出すつもりがないらしい。
最後の一体が異形へ吸収された。
辺りが静まり返る。
先ほどまで街を埋め尽くしていた怨屍は、一体残らず消えていた。
ほとんど人と変わらない姿になった異形だけが、静かに立っている。
息をするたび、胸が締めつけられる。
空気そのものが重くなり、身体を押し潰そうとしているようだった。
まだ距離があるにもかかわらず、足が勝手に後ろへ下がる。
こんなの、今までの怨屍とは比べものにならない。
異形は動かず、こちらを見つめていた。
その赤い目に宿っているのは、獣のような殺意だけではない。
俺の力量を見定めるような、明確な意思があった。
来る。
そう悟った瞬間、異形の足元で地面が爆ぜた。
視界から姿が消える。
反射的に横へ跳んだ。
直後、先ほどまで立っていた地面が轟音と共に砕け散る。
頬を冷たい汗が伝った。
まともに受けていれば、一撃で終わっていた。
刀を構え直す。
砕けた地面の中心に立つ異形は、俺の様子を興味深そうに眺めていた。
『ほぉう、これを避けるか。ならば……』
低く濁った声。
そこには、獣にはない知性が感じられた。
まるで、俺を試しているかのような口ぶりだ。
今の攻撃も、本気ではなかったのだろう。
異形の背後から伸びる巨大な尾が、大きく振りかぶられる。
迫る尾へ刀を合わせた。
重い衝撃が両腕を貫く。
受け止めきれずに刃を弾かれ、尾の先端が肩を掠めた。
頑丈に作られた服が裂け、その下から鮮血が散る。
肩に焼けつくような熱が走った。
落ち着け。
相手の手だけを見るな。
全身を見ろ。
異形の尾が、再び地面を刈り取るように振るわれる。
大きく後ろへ跳び、紙一重で躱した。
尾を振り切った直後、異形の体勢が僅かに崩れる。
——今だ。
地面を強く蹴り、懐へ潜り込む。
胴を両断するつもりで、全力の一閃を放った。
硬い。
刃は確かに異形の身体を捉えた。
だが、表皮を薄く斬ったところで止まっている。
『……ほぉ』
刻んだ傷が、見る間に塞がっていく。
刃を通した手応えはあった。
それでも、俺の渾身の一撃は、こいつにとって掠り傷にも満たなかったのだ。
異形は肩を軽く回し、身体の具合を確かめるように腕を動かした。
『悪くない』
言葉が耳へ届いた時には、既に目の前から姿を消していた。
右。
気配を感じた方へ刀を振るう。
甲高い音が響き、鉤爪と刃が激しくぶつかり合った。
止めた。
だが、異形の口元はさらに大きく吊り上がっている。
『ならば、これはどうだ』
視界の端で、巨大な尾が動いた。
反対側から迫っている。
避けきれない。
脇腹へ鋭い衝撃が突き刺さった。
身体が軽々と弾き飛ばされ、地面を何度も転がる。
最後に瓦礫へ背中を打ちつけ、ようやく止まった。
息ができない。
肺の中の空気を、一瞬で押し出された。
脇腹が激しく痛み、身体を起こすだけでも全身が軋む。
それでも歯を食いしばり、刀を杖代わりにして立ち上がった。
まだだ。
まだ、立てる。
異形はそんな俺を見下ろし、小さく鼻を鳴らした。
『弱い』
たった一言だった。
このまま戦っても、殺される。
せめて、動きを止められれば。
刀を握り直し、霊力を注ぎ込む。
「雹水一式・水塊」
異形の頭上へ、巨大な水塊が生まれた。
振り下ろした刀に呼応し、水塊が異形の全身を呑み込む。
逃げ出す暇は与えない。
昼間の鍛錬で教わった通り、すぐさま水を氷へ反転させる。
巨大な水塊は一瞬で凍りつき、異形を閉じ込める氷塊へ姿を変えた。
氷は動かない。
封じた。
そう思った時、氷の表面へ一本の亀裂が走った。
亀裂は枝分かれしながら、瞬く間に氷塊全体へ広がっていく。
早すぎる。
氷の中で、怨屍がゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が、真っ直ぐに俺を見据えている。
『面白い』
轟音と共に氷塊が砕け散った。
無数の氷片が夕陽を反射し、橙色の光を散らしながら宙を舞う。
その中心には、傷一つ負っていない異形が立っていた。
『今度はこちらの番だ』
言葉が終わるより早く、異形が再び姿を消した。
左。
反射的に刀を滑り込ませる。
甲高い音と共に、鉤爪が刃の上で火花を散らした。
受け止めた。
今度こそ、攻撃を防いだ。
だが、異形にはもう一本の武器がある。
背後から巨大な尾が迫る。
咄嗟に身体を捻った。
直撃だけは免れたものの、尾の先端が左腕を掠める。
服が裂け、衝撃と共に肉を深く抉られた。
「っ……!」
焼けつくような痛みが走る。
血が指先を伝い、地面へ滴り落ちていった。
左腕に力が入らない。
刀を右手だけで握り、距離を取ろうと後ろへ跳ぶ。
だが、異形はそれを許さなかった。
一瞬で追いつかれる。
『終わりだ』
巨大な尾が、ゆっくりと振り上げられた。
避けなければならない。
そう思っているのに、身体が動かない。
肩と左腕から流れ続ける血が、足元に赤い水溜まりを作っている。
視界が揺れ、呼吸も浅い。
霊力はまだ残っている。
それなのに、刀を握る力も、術を放つために身体を動かす力も残っていなかった。
「……くそ」
振り下ろされた尾が、俺の身体を薙ぎ払う。
全身が軋み、視界が白く弾けた。
身体が宙を舞う。
何かへ叩きつけられた感覚だけが、鈍い衝撃となって残った。
もう立てない。
指一本、動かせない。
視界が滲み、遠くなっていく。
耳鳴りだけが、いつまでも頭の中で響いていた。
……終わりか。
意識が暗闇へ沈んでいく。
その中で、右耳だけが不思議なほど熱を帯びていた。




