15話 神と時
あれから数日が経った。
学校へ通い、道中で遭遇した怨屍を倒し、時には幽霊を見かける。
そんな非日常も、少しずつ俺の日常へ溶け込み始めていた。
今日は、再び彰さんと鍛錬を行う日だ。
門の近くで彰さんを待ちながら、ここ数日の出来事を思い返す。
学校内では、今のところ怨屍と遭遇していない。
以前、彰さんから聞いた話では、学校や病院、役所など、人が多く集まる施設には、怨屍の侵入を防ぐ結界が張られているらしい。
そのおかげで授業中は安心できるものの、結界の外へ出れば話は別だ。
朝の通学中に二回、帰り道には四回。
この数日間だけでも、それだけの怨屍と遭遇していた。
いつ現れるかわからない怨屍を警戒しなければならず、友人たちとも一緒に帰りづらくなっている。
それに、怨屍ばかりを気にしていたせいで気づかなかったが、この街には案外幽霊も多い。
幽霊といえば、足がなかったり、身体が透けていたりするものだと思っていた。
ところが、実際に見かける幽霊は、血色こそ悪いものの、生きている人間と大して変わらない姿をしていた。
それだけに、初めて遭遇した時はかなり驚いた。
何せ、腰の曲がった目のしょぼしょぼした老婆が、満面の笑みで全力疾走していたのだ。
楽しそうに歌を口ずさみながら、地面を蹴る音も立てずに町内を駆け回っていた。
途中、たまたま通りかかった彰さんに見つかり、あっさりと捕まっていたが、連行されていく時の老婆は心底残念そうな顔をしていた。
人に見えないことを良いことに、思う存分はしゃいでいたのだろう。
あれは別の意味で怖かった。
今思い出しても背筋が寒くなる。
そんな調子で、今週も何かと忙しい一週間だった。
とはいえ、これから始まる鍛錬に比べれば、大したことではないのかもしれない。
不意に、上空から彰さんらしき霊力を感じた。
肌を撫でていた風とは異なる、微かな圧力が頭上から近づいてくる。
見上げてみれば、案の定、彰さんがこちらへ降りてきている。
ぶつからないことはわかっているが、反射的に一歩後ずさった。
「やあ、颯斗君」
彰さんは、いつものように軽い足取りで音もなく着地した。
衣服の裾だけが、遅れてふわりと揺れる。
「おはようございます、彰さん」
「おはよう。さあ、行こうか」
そう言うと、彰さんは先週と同じように、宙へ”開門”の二文字をなぞった。
目の前の景色が、蜃気楼のように揺らぐ。
瞬きをした次の瞬間には、何もなかった場所に別の空間が現れていた。
二度目とはいえ、なかなか見慣れない。
一体どのような仕組みで空間をつなげているのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、彰さんに続いて中へ入った。
境界を越えた瞬間、肌に触れる空気が僅かに変わる。
背後を振り返った時には、先ほどまで立っていた場所は揺らぐ景色の向こうへ消えていた。
——
屋敷へ入ると、前回と同じ部屋へ案内された。
廊下を歩くたび、板張りの床が僅かに軋む。
部屋の中は静かで、障子を透かした柔らかな光が畳の上に落ちていた。
外から微かに聞こえる葉擦れの音が、かえって室内の静けさを際立たせている。
彰さんと向かい合って腰を下ろす。
畳に触れた膝から、ひんやりとした感触が伝わってきた。
「さてと。まずは、先週の最後に話していた件から聞こうか」
「はい。この間も少し話しましたけど、俺には未来の記憶があって——」
俺は、自分が未来の記憶を持っていることを、改めて彰さんへ説明した。
二〇二六年に事故に遭い、気づけば中学生だった頃へ戻っていたこと。
時間が巻き戻る前は見えなかった幽霊や怨屍が、こちらへ戻ってから見えるようになったこと。
そして、今のところ、何者が何のために時間を戻したのか全くわからないこと。
改めて口にすると、どれも現実離れした話ばかりだ。
自分でもうまく整理できず、言葉に詰まるたび、膝の上で組んだ指へ力が入った。
俺が話している間、彰さんは時折頷きながら、真剣な表情で耳を傾けていた。
疑う素振りも、話を遮ることもない。
その静かな眼差しに促され、記憶にあることを一通り話し終える。
「なるほどね。この間も話したけど、時間を巻き戻すこと自体は可能だよ。時や水を冠する神か、黒宮に連なる者ならね」
彰さんの苗字も、黒宮だ。
ということは、彰さんも時間を操れるのだろうか?
そもそも、この人は一体何者なのだろう?
「あの、今更ですけど……彰さんって、人間じゃないですよね?」
「半分正解で、半分間違いかな。一応、僕にも半分は人の血が流れているよ」
彰さんはそう答えると、自分の胸元へ軽く手を添えた。
「残りの半分は、黒の神の血だよ。死者を黄泉へ送り、その魂を管理する死神という役職があるんだけど、その始まりとなった神なんだ。僕はその血を受け継いでいるから、半神みたいなものかな」
半神。
その一言が、静かな部屋の中へ妙に重く落ちた。
それはつまり、半分は神さまということではないか。
「す、すみません!俺、今まで随分と失礼な態度を……」
「ああ、気にしないで。神の血が流れているからといって、それだけで偉いわけじゃないんだから。それを言うなら、君にも神の血が流れているんだよ?」
土下座する勢いで頭を下げかけていた身体が、思いがけない言葉に固まった。
半分まで下げた頭を戻す。
彰さんは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「え?」
「この前、話しただろう?青の血族には、青の神の血が流れていると」
青の神の血。
確かに一週間前、そのような話を聞いた覚えはある。
だが、あの時は神だの死神だのと、到底現実とは思えない話が次々と出てきたため、きちんと理解できていなかった。
「あ、確かにそんなことを……。すみません。怨屍のことで頭がいっぱいで、すっかり抜けてました。というか、それって本当なんですか?」
「うん。この後、その血を継ぐ者にしか扱えない術を練習する予定だから、君自身も実感できると思うよ」
いまだに疑念は残る。
それでも、彰さんが嘘をついているようには見えなかった。
自分の胸元へ目を落とす。
神の血が流れていると言われても、鼓動も身体の感覚も、普段と何も変わらない。
「一旦、話を戻そうか。時間を巻き戻すには、膨大な霊力を消耗するんだ。たった数秒戻すだけでも、相応の負担がかかる」
彰さんは顎へ手を添え、考え込むように視線を落とした。
「何せ、一人ではなく世界全体の時間を戻すんだ。僕でも長い時間を巻き戻すのは難しい。それを十年以上も巻き戻すなんて、まず間違いなく術者も無事では済まない。一体、誰がそんなことを……」
独り言のように呟いた後、彰さんは小さく首を傾げる。
「あの人たちが術を行使するなら、事前に連絡があるはずだ。それに、許しなく時間へ干渉することは禁じられている」
今回の時間遡行は、正式な許可を得て行われたものなのか。
それとも、何者かが独断で行ったのか。
少なくとも、彰さんは何も知らないようだった。
ならば、後者である可能性の方が高いのかもしれない。
「それと、時間を戻したからといって、巻き戻る前の記憶が全員に残るわけではない。基本的に記憶を保持できるのは術者本人と、術者が意図的に選んだ者だけだ」
彰さんの視線が、真っすぐ俺へ向けられる。
「君には未来の記憶が残っている。おそらく、術者が君を選んだんだろうね」
「俺を選んだ……。でも、俺の知り合いにそんなことができそうな人はいないと思うんですけど」
「君が相手を知らなくても、相手は君を知っていたのかもしれないよ」
なるほど。
確かに、その可能性はある。
だとすれば、余計にわからない。
術者は何故、俺を選んだのか。
何のために十年以上もの時間を巻き戻したのか。
考えれば考えるほど、胸の奥に重たいものが積み重なっていく。
知らない誰かに見られていたのかもしれないと思うと、背後へ視線を向けたくなるような落ち着かなさを覚えた。
「術者は今頃、霊力が尽きかけているだろうね。十年以上も世界の時間を巻き戻したとなれば、相応の代償を負っているはずだ」
彰さんは僅かに考え込んだ後、ふっと表情を緩めた。
「まあ、今の段階では、誰が何のために時間を戻したのかも、何故君が選ばれたのかもわからない。せっかく得た二度目の人生なんだ。君は君の好きなように生きれば良いさ」
神の血を引き、時間に関する知識も持つ彰さんがそう言うのだ。
今の俺が、わからない未来に囚われ続ける必要はないのかもしれない。
胸につかえていたものが、僅かに軽くなる。
膝の上で固く組んでいた手から、ゆっくりと力を抜いた。
「そうですね。せっかく生き返ったんですし、未来に縛られずに生きようと思います」
「うん、そうすると良い」
「はい!……ちなみに、未来で起きたことを回避しても、問題はないんですか?」
俺は、未来で事故死するかもしれない浩透を助けたい。
病気で亡くなるばあちゃんのことも、今度こそ救いたいと思っている。
それは、本来なら死ぬはずだった人たちの運命を変える行為だ。
死者の魂を管理する死神の立場からすれば、決して許されないことなのかもしれない。
答えを待つ間、無意識に息を詰めていた。
「気にしなくて良いよ。たとえ巻き戻る前の未来が、かつてその世界で辿った歴史だったとしても、今の時間軸とは別のものだ。君が知る未来と、これから訪れる未来は同じではない」
俺が知っている世界は、もう変わっている。
霊力の存在を知らず、怨屍の姿も見えず、彰さんとも出会わなかったあの世界とは違う。
あの日、時間が巻き戻った瞬間から始まった、新しい未来。
俺が知る未来は、もうどこにも存在しない。
「……そう、ですね。言われてみれば、もうすでに俺が知っている未来とは、随分かけ離れていますからね」
彰さんは静かに頷き、言葉を続ける。
「そういうこと。だから、君が未来を変えようとしても、僕たち死神が干渉することはない。どのように生きるのかを決めるのは、生者自身だからね」
「それを聞けて安心しました。これで迷わず進めそうです」
詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
そう答えると、彰さんは穏やかに微笑んだ。
「うん。これ以上この話を続けても、今わかることはなさそうだ。そろそろ外へ行こうか」
「え?」
「君の血に宿る力を見せてあげるよ」
血に宿る力。
その言葉を聞いた途端、胸が高鳴った。
先ほどまでの重苦しさが薄れ、今度は期待と緊張が入り交じった熱が胸の内側から広がっていく。
本当に、俺にも神の血を引く者だけが扱える力があるのだろうか。
彰さんが立ち上がるのに続き、俺も慌てて腰を上げた。
長く座っていたせいで痺れかけた足を軽く動かし、部屋を出ていく彰さんの後を追いかけた。




