14話 日常と非日常
地獄のような鍛錬から一夜明けた、月曜日の朝。
少しひんやりとした風に頬を撫でられながら、俺はいつも通り学校へ向かっていた。
昨日の戦闘で負った傷が、歩くたびにじくじくと痛む。
全身も酷い筋肉痛で、足を前へ出すだけでも身体のあちこちが軋んだ。
体育の授業がなくて本当に良かった。
今の状態で走らされたら、まともに動ける気がしない。
歩きながら、周囲へ意識を向ける。
朝の住宅街には、通学する学生や出勤途中の人々の姿がある。
車の走行音や鳥の鳴き声に紛れ、聞き慣れない音が混じっていないか耳を澄ませた。
……気配はない。
昨日身につけたばかりの霊力探知は、まだ怨屍が近くまで来なければ反応しない。
それでも、何も知らずに襲われていた頃とは大違いだった。
事前に気づける。
それだけで、心に少しの余裕が生まれる。
死ぬ思いをして鍛えられた甲斐はあった。
背後から、こちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「颯斗、おっはよー」
聞き慣れた元気な声に振り返る。
「紗奈か。おはよ」
俺の隣に並んだ紗奈の視線が、腕から頬へと移っていく。
貼られた絆創膏を見るなり、その表情が曇った。
「ど、どうしたの、その傷⁉︎」
「まあ、ちょっと派手に転んでな」
誤魔化すように笑ってみせる。
だが、その表情を見た紗奈は、ますます眉を顰めた。
「ちょっとって……。それ、本当に大丈夫なの?絆創膏だらけだよ」
「多少は痛むけど、見た目ほど酷くないから大丈夫」
「なら良いけど。もしかして、怪我のせいで帰りが遅くなったの?」
どうして知っている?
もしかすると、ばあちゃんが紗奈の家まで聞きに行ったのだろうか。
「そうだけど。どうして?」
「昨日の夜、颯斗のおばあちゃんがうちに来たんだよ。颯斗は来てないかって」
家へ帰った時、ばあちゃんは受話器を握ったまま玄関へ飛び出してきた。
今にも警察へ電話をかけようとしていたらしい。
あの様子なら、隣家である紗奈の家へ捜しに行っていても不思議ではない。
「あー、まじか」
「うん、まじだよ。おばあちゃん、かなり心配してたんだから。あんまり心配かけるようなことしちゃ駄目だよ」
「そっか。わかった、気をつけるよ」
これ以上、ばあちゃんに心配はかけたくない。
だが、彰さんとの鍛錬は、これからも続く。
帰りが遅くなることも、怪我をすることも避けられないだろう。
鍛錬の後に怪我を治してもらえないか、彰さんに相談した方が良いかもしれない。
毎回この状態で帰っていたら、本当に外出禁止になりかねない。
「そうだ。話は変わるんだけど——」
その後は、紗奈と他愛もない話をしながら歩いた。
次のテストのこと。
球技大会のこと。
駅前にできた新しい店のこと。
話に夢中になっている間に、校舎はもう目の前まで迫っていた。
——
気づけば放課後。
昼間の暖かさを残した風が、緩やかに吹き抜けていく。
クラスメイトであり、友人でもある高橋慧と浩透の三人で、帰路についていた。
慧とは小学校からの付き合いだ。
大人になってからも関係は変わらず、気軽に遊ぶ仲だった。
「二人とも、今週の土曜って空いてたりする?みんなで遊びにでも行こうぜ」
慧がそう提案する。
「お、良いな。俺は空いてるよ」
「……すまねぇ。行きたいのは山々なんだが、その日は先約があって行けないや」
「あ、そうなの?何、彼女とデート?」
慧が面白がるように茶化してくる。
昔から変わらないなと苦笑しつつ、首を横に振った。
「いや、そんなんじゃないって。てか、俺に彼女がいないことぐらい知ってんだろ?」
「ははっ、そうだったな。じゃあ、何か予定?」
人外じみた人に、死にかけるほど鍛えられています。
そんなことを言っても、信じてもらえるはずがない。
だから、少しだけ事実に嘘を混ぜることにした。
「最近、週末に知り合いから武道を教えてもらってるんだ」
「へえ、武道か。剣道とか?」
「もしかして、刀を使うのか⁉︎」
興奮した慧が、急に立ち止まる。
その目はきらきらと輝いていた。
歴史が好きなのは知っていた。
刀にまで興味があるとは初耳だ。
勢いよく顔を近づけられ、思わず仰け反る。
「あ、ああ。そんなところ」
「良いな、刀!颯斗ん家、立派な屋敷だし、蔵に刀があってもおかしくないもんな‼︎今度見せてくれよ!」
「あー、うん。ばあちゃんが良いって言ったらな」
「やった!楽しみにしてるからな!」
慧は心底嬉しそうだった。
目を輝かせる姿は、まるで幼い子供のようだ。
その隣では、浩透も楽しそうに目を細めている。
「お、ならそん時は、俺も混ぜてくれよ」
「ああ、わかってるよ」
頷きはしたものの、家の蔵に刀などあっただろうか。
今度、探すだけ探してみよう。
もしなければ、飛翠さんに相談してみるのも良いかもしれない。
確か、刀をたくさん持っていたはずだ。
「にしても、武道かぁ。このご時世、何かと危ないことも多いもんな。学んどいて損はないか」
「そうだぞ。いつ何があるかわからないからな。そんなわけで、今週はすまん」
「それなら仕方ねぇよ。また今度行こうぜ」
「ああ、次は行けるようにする」
「おう。楽しみにしてる」
あのような化け物に襲われなければ、今頃は二度目の人生を思う存分謳歌していたのだろうか。
そう考えたところで、ないものねだりでしかない。
二度目の人生を、ただ楽しむ。
そんな未来は、もう選べない。
ならば、目の前にある問題を一つずつ乗り越えていくしかなかった。
三人でだらだらと世間話をしながら、歩道橋を下りていく。
その時。
不意に、微かな霊力の気配を感じた。
ほぼ同時に、生温い風に乗って、鼻を突く生臭い腐臭が漂ってくる。
胃の奥がせり上がるような臭いに、思わず足を止めた。
——近い。
「どうした?」
浩透が不思議そうにこちらを見る。
昨日覚えたばかりの霊力探知が、怨屍の存在を告げていた。
腐臭の漂ってくる方向は、俺たちが進もうとしていた道の先だ。
このまま進めば、確実に鉢合わせする。
彰さんなら、この気配に気づいて来てくれるかもしれない。
だが、それを待っている間に、二人が襲われる可能性もある。
危険な目に遭わせるわけにはいかない。
俺が倒すしかない。
手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
ただし、問題が二つある。
一つは、全身を襲う筋肉痛だ。
普通に歩くだけでも身体が軋む今の状態で、まともに刀を振るえるかはわからない。
もう一つは、浩透と慧だった。
記憶が正しければ、二人とも幽霊の類いは見えなかったはずだ。
怨屍が見えない二人の前で、いきなり刀を取り出すわけにはいかない。
一つ目は、気力でどうにかするしかない。
まずは二人から離れなければ。
「……あっ、悪い。ちょっと忘れ物取りに戻ってくるから、二人は先に帰っててくれ!」
わざとらしく声を上げ、二人から離れるように後ずさる。
忘れ物などしていない。
それでも、今はこれぐらいしか思いつかなかった。
「え?あ、ああ、わかったけど……。俺たちもついて行こうか?」
慧からの提案に、慌てて首を横に振る。
「いや、一人で大丈夫だ。じゃあ、また明日‼︎」
「あ、うん。また明日ー」
二人に背を向け、学校へ戻るふりをする。
何食わぬ顔で歩きながら、背後の足音が遠ざかるのを待った。
浩透たちの姿が見えなくなると、周囲に人がいないことを確かめ、急いで霊珠を刀へ変える。
二人が向かった先——怨屍の気配がする方へと駆け出した。
一歩踏み込むたび、太ももや脇腹に鈍い痛みが走る。
走るだけなら、まだ何とかなる。
だが、刀を全力で振るえるのは数回が限度だろう。
長引かせるわけにはいかない。
できるだけ早く仕留めなければ。
十字路を曲がる。
濃くなった腐臭の先に、異形の姿が現れた。
『ギィィィィッ‼︎』
怨屍は甲高い鳴き声を上げ、全身にあるいくつもの目をぎらつかせた。
濁った眼球がばらばらに動き、一斉に俺の姿を捉える。
威嚇するように、鋭く尖った尾を左右へ振り回していた。
尾が塀の表面を掠めるたび、ざらりと嫌な音が響く。
昨日戦った怨屍と、そう大差はない。
これなら倒せるはずだ。
刀を構え、核のある左胸を目がけて斬りかかる。
やれる。
そう思った瞬間、あと一歩で刃が届くというところで、怨屍が大きく後退した。
剣先が、虚しく宙を斬る。
振り抜いた腕に筋肉痛が響き、体勢が崩れた。
怨屍が尾を大きく振りかぶる。
風を裂く鋭い音。
顔面へ直撃する寸前で飛び退いたものの、避けきれない。
鋭く尖った尾の先が頬を掠めた。
皮膚が裂け、熱を帯びた痛みが走る。
頬を伝った生温い血が、顎先から地面へ落ちた。
大丈夫だ。
昨日までとは違う。
落ち着け。
一度距離を取り、乱れた呼吸を整えて刀を構え直す。
昨日までなら見失っていたはずの動きが、今ははっきりと見えている。
身体は思うように動かなくとも、怨屍の動きそのものにはついていける。
怨屍は、尾を振り抜いた体勢のまま隙を晒していた。
この一撃で仕留める。
「おらぁっ‼︎」
全身の痛みを堪え、地面を蹴った。
怨屍の懐へ一気に踏み込み、腰を捻って刀を振り抜く。
刃が左胸へ食い込み、硬いものを砕く感触が手に伝わる。
そのまま核ごと胴体を横薙ぎに斬り裂いた。
『ギ、ィィ……』
怨屍の鳴き声が途切れる。
両断された身体は輪郭を崩し、さらさらと砂になりながら風の中へ消えていった。
辺りに漂っていた腐臭も、少しずつ薄れていく。
「ふぅ……。危なかった」
詰めていた息を吐き出す。
刀についた黒い靄を振り落とす。
緊張が解けた途端、全身の痛みと疲労が一気に押し寄せてくる。
ひとまず、怨屍は倒せた。
だが、すぐに二人を追いかけるわけにはいかない。
ついさっき、忘れ物を取りに戻ると言ったばかりだ。
ここで二人より先に進んでいるところを見つかれば、どう説明しても不自然になる。
物陰へ身を寄せ、荒い呼吸が落ち着くのを待った。
しばらくすると、少し先の道を歩いていく二人の姿が見えた。
楽しそうに話している様子からして、怪我はないらしい。
二人の無事を確かめ、ほっと胸を撫で下ろす。
「良かった……」
談笑しながら遠ざかっていく二人を眺めていると、不意に浩透が足を緩めた。
こちらへ顔を向ける。
パチリと、目が合った。
背筋に冷たいものが走る。
……今、こっちを見た?
霊珠の力で幽隠を発動している間は、二人に俺の姿は見えないはずだ。
まさかと思い、浩透の目を見つめ返す。
だが、次の瞬間には浩透も前へ向き直り、隣を歩く慧へ何かを話していた。
こちらに気づいた様子はない。
「気のせい、だよな……」
そう自分に言い聞かせても、胸に生じたざわつきは消えなかった。
その時、何者かが背後から俺の肩に手を置いた。
突然の感触に、思わず肩が跳ねる。
「やあ。怨屍は無事に倒せたようだね」
聞き覚えのある声に振り返ると、見知った人物が立っていた。
「うわぁっ⁉︎び、びっくりした……。驚かせないでくださいよ、彰さん!」
いつもと変わらず軍服を着こなした彰さんが、俺の真後ろに立っている。
相変わらず、近づいてくる気配すら感じなかった。
怨屍の存在に気づけば、彰さんも来るかもしれないとは思っていたが、本当に現れるとは。
「ああ、ごめんごめん。一応、大丈夫か様子を見に来たんだけど、問題なさそうだね」
「あ、はい。何とか倒せました」
彰さんは、俺の全身へ確かめるように視線を巡らせた。
頬の傷や乱れた制服を見て、僅かに眉を寄せる。
「うん。もう壱禍なら問題なく倒せそうだね。ただ、少し動きが硬かったけど……。もしかして、筋肉痛だったりする?」
「あはは……。そうですね。全身筋肉痛で参ってます」
つい先ほどの戦闘で、疲労も余計に増してしまった。
帰り道でもう一体現れたら、今度こそ危ないかもしれない。
彰さんがいるうちに、家まで送ってもらった方が良いだろうか。
「ああ、筋肉痛か。そっか、昨日は随分と身体を使ったからね。戦闘にも支障が出ているし、今のうちに治しておこうか」
彰さんは、おもむろに一枚の紙を取り出した。
緑色の紙には、見慣れない文字が書かれている。
「神魂召喚——緑門琴葉」
彰さんが唱えると、紙に書かれた文字が光を放つ。
淡い緑色の光が辺りへ広がり、空気が微かに震えた。
それと同時に、俺と彰さんの間に人の形をした光が現れる。
「もう、急に何よ。私、買い物の途中だったんだけど」
光が収まる。
そこには、両手いっぱいに紙袋を抱えた琴葉さんが立っていた。
突然呼び出されたことが不満なのか、あからさまに眉を顰めている。
「琴葉さんっ⁉︎」
「あら、颯斗君じゃん。やっほー、昨日ぶり!」
俺を見つけた途端、琴葉さんは表情をころりと変えて笑った。
そのまま空中へ片手を翳す。
すると、何もない空間が黒く歪み、ぽっかりと穴が開いた。
琴葉さんは、抱えていた紙袋を次々とその中へ入れていく。
袋同士が擦れる音を立てながら、何もない空間へ吸い込まれるように消えていった。
あっという間の出来事に、俺は呆気に取られていた。
「あ、こんにちは。……紙袋はどこに?」
問いかけようとしたところで、彰さんが俺の肩へ手を置いた。
「まあまあ、その説明は後にしようか。琴葉さん、急に呼び出してすみません。この子を治療してもらっても良いですか?昨日の鍛錬で満身創痍みたいなので」
「ああ、そういうことね。良いわよ。颯斗君、じっとしてて」
琴葉さんが、俺の身体へ手を翳す。
その手から溢れた淡い緑色の光が、全身を包み込んだ。
春の日差しに当たっているような温かさが、身体の内側へじんわりと染み渡っていく。
「うわぁ、随分と扱かれたのね……」
「あはは……」
琴葉さんが、傷だらけの俺を見て呆れたように呟いた。
頬に残っていた熱が引き、傷口が塞がっていく。
それと同時に、身体中へまとわりついていた重さまで、溶けるように消えていった。
「はい、治療おーわりっ」
琴葉さんが手を下ろす。
両手を握り、腕や足を動かしてみる。
傷の痛みだけでなく、筋肉痛による動かしにくさまで消えていた。
先ほどまでの重さが嘘だったかのように、身体が軽い。
これなら、もう問題なく動ける。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。用事はこれだけ?私、もう帰っても良い?」
「まだですよ」
「え?」
帰ろうとした琴葉さんの腕を、彰さんが掴んだ。
「な、何かな?」
琴葉さんの笑顔が固まる。
一方の彰さんは、穏やかな笑みを崩さない。
「琴葉さん、今日もサボっていましたよね?喩術隊の隊員から苦情が来ていましたよ」
「あーっ!用事があったの思い出した‼︎もう行くね!バイバイ、彰、颯斗君‼︎」
呼び出された時は買い物中だったと言っていた。
もしかして、仕事を放り出して遊んでいたのだろうか。
琴葉さんは彰さんから目を逸らすと、その手をするりと抜け、素早く距離を取った。
「ちょっ、琴葉さん!」
彰さんの制止も聞かず、琴葉さんは地面を蹴る。
その身体は軽々と宙へ舞い上がり、空歩で逃げていった。
あっという間に小さくなっていく背中を眺め、彰さんは額へ手を当てた。
「まったく、あの人は……」
疲れたように息を吐くと、彰さんは俺へ向き直った。
「……ひとまず、今日はお疲れ様。この後も怨屍が現れるかもしれないけど、君の近くに現れたものは任せるね」
「あ、はい」
断れるような雰囲気ではなく、反射的に頷いてしまう。
彰さんは満足そうに笑みを浮かべ、「またね」と言って去っていった。
その姿が見えなくなり、辺りに静けさが戻る。
「まじか……」
流れで、怨屍の討伐を任されてしまった。
これから、俺一人で倒していけるだろうか。
筋肉痛は治してもらったため、身体は動く。
壱禍なら一人でも倒せると、彰さんからも認めてもらえた。
それでも、不安が消えたわけではない。
「だけど、やるしかないよな」
怨屍が見えるようになったことも、一方的に襲われることも気に食わない。
だからといって、文句を言うだけでは何も変わらない。
幸い、俺には怨屍を倒すための武器がある。
戦うための技術も教わっている。
これから先、彰さんが必ず助けに来てくれるとは限らない。
殺されないためにも、自分の身は自分で守れるようにならなければ。
「頑張ろう」
小さく呟き、気持ちを切り替える。
ひとまず、今は家へ帰ろう。
浩透たちも十分に離れた頃だろうし、もう幽隠を解いても問題ないはずだ。
刀を霊珠へ戻し、鞄を持ち直す。
そうして俺は、再び帰り道を歩き始めた。
数十メートル先で、浩透が足を止め、こちらを振り返っていたことにも気づかずに。




