10話 治癒師
空間が、陽炎のように揺らいだ。
揺らぎの向こうに、薄暗い路地裏が現れる。
そこには彰さんと、一人の女性が立っていた。
二人がこちらへ足を踏み入れた瞬間、路地裏の景色が掻き消え、辺りは元の荒野へと戻った。
「颯斗君、お待たせ」
彰さんの隣に立つ女性へ目を向ける。
腰まで届く薄緑色の髪に、翡翠色の瞳。
彰さんと似た意匠の軍服を纏っているが、下は膝丈ほどのスカートになっていた。
腕を組み、不満げに眉を寄せている。
俺は座ったまま迎えるのも失礼だと思い、慌てて立ち上がった。
「いっ……」
脇腹に鋭い痛みが走る。
顔を歪めながらも軽く頭を下げると、女性は僅かに目元を和らげた。
綺麗というより、可愛らしい印象の人だ。
「彰さん、戻られたんですね。そちらの方は?」
「うん、ただいま。この人は緑門琴葉さん。治癒術が得意だから、来てもらったんだ」
緑門琴葉さん。
聞き覚えのない苗字だ。
緑門さんは俺の姿を一通り確認すると、隣に立つ彰さんへ詰め寄った。
「急に連れてきて、怪我を治せだなんて人使いが荒いわよ!それに、こんな幼い子を滅多打ちにして。鍛えるにしても、限度ってものがあるでしょ」
同意を求めるように、こちらへ顔を向けられる。
なんとも答えられず、口元が引きつった。
こんなに幼い、か。
二人から見れば、十三歳の俺は十分に子供なのだろう。
実際、大人だった頃の感覚が残っている自分でさえ、この身体を幼いとは思う。
それでも、ここまではっきり子供扱いされると、少し複雑だった。
「あはは。鍛錬を始めたばかりなんだから、仕方ないじゃないですか。それより、先に治してあげてください」
「まったく、もう……」
緑門さんは溜息をつき、俺のそばへ歩み寄ってきた。
「君、そこに座って。立っているのもつらいでしょ」
「え?あ、はい」
言われるまま地面へ座ろうとすると、すぐに止められた。
「違う違う。そっちじゃなくて、こっち」
緑門さんが、すぐ横を指差す。
視線を向けると、何もなかった地面から木製の椅子が生えていた。
……いつの間に?
疑問に思いながらも、痛む身体を引きずるようにして腰を下ろす。
木でできているはずなのに、不思議と硬さを感じなかった。
俺が座ったのを確認すると、緑門さんはこちらへ手を翳した。
「君、名前は?」
「桐生颯斗です」
「ふぅん、颯斗君か。よろしくね。私のことは琴葉でいいよ」
「あ、はい。よろしくお願いします、琴葉さん」
翳された手から、淡い緑色の光が溢れ出す。
柔らかな光が身体を包み込む。
温かなものが染み渡るのと同時に、全身を蝕んでいた痛みが引いていく。
腕に走っていた切り傷が塞がり、肌に浮かんでいた痣も薄れていった。
最後の傷が消えると、役目を終えた光は宙へ溶けるように消えていく。
「はい、終わり」
琴葉さんが手を下ろす。
恐る恐る腕を動かし、身体の具合を確かめた。
痛くない。
先ほどまで少し動くだけでも悲鳴を上げていた身体が、嘘のように軽くなっている。
腕にも傷痕一つ残っていなかった。
それどころか、限界まで動き続けた疲労まで消えている。
今なら、鍛錬を始める前よりも動けそうだった。
「全部、治ってる……。す、凄いです……!」
「ふふん。当たり前よ!私に癒せない傷なんて、一つもないんだから!」
そう言って、琴葉さんは得意げに胸を張った。
褒められたのが嬉しかったのか、先ほどまで寄せられていた眉間の皺が綺麗に消えている。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして!」
琴葉さんは瞳を細め、嬉しそうに頬を緩ませた。
言動はともかく、本当に可愛らしい人だ。
ふと彰さんを見ると、随分と冷めた目で琴葉さんを眺めていた。
やがて、面倒そうに数度手を叩く。
「はいはい、凄いですね。わざわざお越しいただき、ありがとうございました」
「彰!全っ然、凄いと思っていないでしょ!」
琴葉さんの眉が、再びつり上がった。
「これでも私、姉弟の中で一番治癒術が得意なんだからね!」
腰に手を当て、彰さんへ顔を近づける。
得意げにしていたかと思えば、今度は子供のように腹を立てている。
その目まぐるしい変わりように、彰さんは呆れたような溜息をついた。
「思っていますよ。貴女の腕を認めているからこそ、現世へ赴任するよう願いを出したんですから」
「……わかっているならいいわよ」
琴葉さんはまだ不満を残した顔をしていたが、ひとまず納得したらしく、彰さんから離れた。
「それで、私はこのあと何をすればいいの?」
「一時間後くらいに、もう一度お願いします。その頃には、また動けなくなっているでしょうから」
「本当に、治療のためだけに呼んだのね……」
琴葉さんが肩を落とす。
俺としては、聞き流せない言葉だった。
一時間後には、また動けなくなっている。
つまり、これから先ほどと同じことを繰り返すつもりらしい。
「まあ、いいわ。それなら、私もここにいることにする。何度も行き来するのは面倒だし、仕事はあの子たちに任せてきたから」
「あ、それはありがたいです。それなら、もう少し鍛錬のペースを上げられますね」
ペースを上げる。
今まで以上に苛烈になるということか。
軽くなったはずの身体が、急に重さを取り戻したように感じられた。
「では、好きなところで寛いでいてください。何か食べたければ、屋敷にあるものを適当に」
「わかったわ。でも、今日は近くで見ていることにする」
琴葉さんは少し離れた場所へ歩いていく。
すると、先ほどと同じように地面から椅子が現れた。
そこへ腰を下ろすと、こちらへ振り返って手を振る。
「颯斗君、頑張ってね!」
「あ、はい。頑張ります……」
どう反応すればよいのかわからず、曖昧に口元を緩める。
先ほどまで俺の扱いを巡って怒っていたとは思えないほど、軽い励ましだった。
琴葉さんはウインクを飛ばすと、楽しそうにこちらを眺め始めた。
本当に、明るい人だ。
「さて」
背後から聞こえた声に振り返る。
彰さんは楽しげに目を細めていた。
その手には、いつの間にか黒い刀が握られている。
「疲れも怪我もなくなったことだし、再開しようか」
「……はい。よろしくお願いします」
身体は完全に治っている。
それなのに、彰さんを前にした途端、脇腹が再び痛み始めたような気がした。
——
鍛錬が再開されてからも、状況はほとんど変わらなかった。
彰さんの攻撃を受け止めようとしても、力で押し負ける。
避けたつもりでも、その先には既に刀が待ち構えていた。
それでも、先ほどよりは少しずつ攻撃が見えるようになってきた。
何度目かの打ち合い。
右から振るわれた刀を受け流し、反撃しようと踏み込む。
だが、彰さんの姿が視界から消えた。
まずい。
そう思った時には、左腕に冷たいものが触れていた。
次の瞬間、肘から先が切り離された。
「っ……!」
地面へ落ちる左腕。
一瞬遅れて、焼けつくような激痛が襲ってきた。
「あ、ぐっ……!」
左腕が、ない。
つい先ほどまで当たり前のように動かしていた腕が、なくなっている。
頭では治してもらえるとわかっている。
それでも、目の前の光景をすぐには受け入れられなかった。
膝が折れかける。
「颯斗君」
彰さんの声が聞こえた。
「まだ終わっていないよ」
顔を上げると、彰さんはこちらへ刀を向けたまま立っていた。
「実戦で腕を失っても、怨屍は待ってくれない。痛みに気を取られて動きを止めれば、そのまま殺されることだってあるんだ」
穏やかな声だった。
けれど、その表情に先ほどまでの笑みはない。
「刀を握れるなら、まだ戦える。相手の動きを見て、どうすれば生き残れるのかを考えてみな」
言っていることは、わかる。
腕を失ったからといって、怨屍が攻撃をやめてくれるわけではない。
それでも、痛みと恐怖で思考がまとまらなかった。
震える右手で、刀を握り直す。
彰さんが一歩踏み込んでくる。
咄嗟に身を引き、振るわれた刀を避けた。
続く攻撃を受け流そうとするも、刀を支えきれず、地面に膝をつく。
その首筋へ、黒い刀がぴたりと添えられた。
「……そこまで」
彰さんが刀を引いた。
張り詰めていたものが切れ、俺はその場に崩れ落ちた。
その時、離れた場所から淡い緑色の光が伸びてきた。
光が左腕の傷口を包み込む。
次の瞬間、失われた肘から先が一気に形を取り戻した。
「……え?」
恐る恐る左手を握り、開く。
五本の指が、何事もなかったかのように動いた。
振り返ると、椅子に座った琴葉さんがこちらへ手を翳していた。
「はい、治ったよ!」
「あ……ありがとうございます!」
琴葉さんは軽く手を振ると、再び椅子へ深く腰掛けた。
傷も痛みも消えている。
それなのに、腕を失った瞬間の恐怖だけは、はっきりと残っていた。
「さて、颯斗君。もう少し頑張ろうか」
彰さんが、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「……はい」
返事をしながら立ち上がる。
無意識に、治ったばかりの左腕へ右手を添えていた。
確かに、そこにある。
それでも、切り離された瞬間の感覚が、頭から離れなかった。
——
それから何度、琴葉さんに治してもらったのかは覚えていない。
倒れては治され、立ち上がっては、また地面へ叩き伏せられる。
時には手足が使えなくなった状態で、どう動けば生き残れるのかを考えさせられた。
身体の傷は、琴葉さんの治癒術によって綺麗に消えていく。
だが、痛みを感じた記憶まで消えるわけではなかった。
何度治してもらっても、刀が振るわれるたびに身体が強張る。
この日ほど、死を身近に感じたことはなかった。
そして、これからも同じ鍛錬が続くのだと考えるだけで、背筋が寒くなった。




