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第八章:香苗(2025年12月28日)

倉庫の埃っぽい空気が、香苗の喉を不快に刺激する。彼女は、指先に伝わるナイフの冷たさを確かめながら、闇を駆ける少年の背中を凝視していた。


なぜ、こうも世界は汚れてしまうのだろう。


香苗は幼い頃から、左右対称に整えられた庭園や、一文字の乱れもない書道を愛していた。乱雑なもの、不潔なもの、そして「予定を狂わせるもの」は、彼女の人生において排除されるべき悪だった。


エリート官僚である夫・貴史との結婚は、彼女にとって究極の「整理整頓」だった。家柄、収入、容姿。すべてが調和し、美しい額縁に収まったはずの生活。しかし、その額縁の裏側には、十年前から拭いきれない黒いシミがこびりついていた。


「香苗、落ち着け。あのバッグさえ回収すれば、すべては元通りだ」


貴史の声が背後から聞こえる。余裕を装っているが、その声は上ずり、醜く震えている。


香苗は、夫のその情けない姿を冷ややかな目で見つめた。彼女が守りたかったのは、貴史という男ではない。貴史という「記号」を含んだ、自分自身の完璧なプロフィールだ。


十年前、彼が真っ青な顔で帰宅した夜のことを、香苗は昨日のことのように覚えている。

「人を、跳ねたかもしれない」

 震える彼の手には、少女が持っていたのであろう青いリボンが、車のワイパーに絡まったまま残っていた。


あの時、香苗は泣きもせず、叫びもしなかった。ただ静かにリボンを取り上げ、夫の代わりに「清掃」の段取りを整えた。父のコネクションを使い、捜査の手を逸らし、現場に残された遺留品を回収させた。そう、あの時すべてを完璧に処理したはずだったのだ。


それなのに。


「レイナさん、と言ったかしら。あなたは、私の家の『シミ』なのよ」


香苗は、前方に立ち塞がるレイナへと視線を移した。ススキノの派手な化粧がライトに照らされ、ひび割れた仮面のように見える。


「シミ? 笑わせないで。あんたのその真っ白な服、返り血で染まって見えるのは私だけ?」


レイナがナイフを構え、一歩踏み出してくる。その動きには、場数を踏んできた者特有の、野生的な鋭さがあった。


香苗は優雅に、まるでダンスを踊るかのような足取りで、レイナの突きをかわした。彼女にとって、これは喧嘩ではない。あくまで「掃除」なのだ。汚れたタイルを磨くように、邪魔な存在を削ぎ落とすだけ。


「いいえ、あなたの見間違いよ。私の世界は、いつだって清潔だわ。……それを汚したのは、貴史さん、あなたも同じ」


香苗は、レイナと対峙しながらも、背後の夫へと言葉を投げた。


「え……香苗?」


「不潔な女と遊び歩き、過去の証拠を管理しきれず、こんな醜態を晒すなんて。……あなたはもう、私のコレクションには相応しくないわ」


香苗の瞳から、一切の感情が消えた。彼女がナイフを振るったのは、レイナに対してだけではなかった。それは、この場にいる全員――自分の平穏を乱す不確定要素すべてに向けられた、狂気の断罪だった。


「ひっ……!」


闇の奥で、直人が悲鳴を上げた。バッグを抱え、逃げ場を失った彼が、積み上げられた木箱の陰に追い詰められている。


香苗はレイナの牽制を潜り抜け、最短距離で直人へと歩み寄る。


「坊や。そのバッグを渡して。それは、ゴミ箱に捨てるべきものなの」


その時、倉庫の天井近くにある小窓から、雪崩のような勢いで新たな雪が吹き込んできた。吹雪が激しさを増し、倉庫全体の軋み音が大きくなる。


チッ、チッ、チッ。


直人が抱える時計の音が、香苗の脳内で増幅されて響く。それは彼女が最も嫌う、制御不能なノイズだった。


「消えなさい。すべて、消えてなくなればいいのよ!」


香苗が叫び、ナイフを振り上げたその瞬間。


横から割り込んできた屈強な腕が、彼女の手首を鋼鉄のような力で掴んだ。


「そこまでだ、奥さん。あんたの言う『掃除』に、付き合うつもりはない」


結城だった。元刑事の重い眼差しが、香苗の狂気を真っ向から受け止める。


光と闇、過去と現在、そして被害者と加害者。

四人の人生が、激しい吹雪の音と共に、ついに完全に噛み合った。

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