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第七章:直人(2025年12月28日)

心臓の音が、耳元で鐘のように鳴り響いていた。


直人は、ボストンバッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめ、埃っぽい倉庫の隅でうずくまっていた。コンクリートの床から這い上がってくる冷気が、ジーンズ越しに体温を奪っていく。けれど、寒さよりも、腕の中にあるこの「塊」への恐怖が勝っていた。


チッ、チッ、チッ。


静寂の中で刻まれるその音は、まるで自分に残された時間をカウントダウンしているかのようだった。


どうして、自分はこんなところにいるんだろう。


半年前、大きな期待を持って札幌へ出てきた時の自分に教えてやりたかった。都会の煌びやかなネオンの裏側には、底の見えない暗い穴が開いているのだと。


直人の家は、決して裕福ではなかった。道北の、一年中風が吹き荒れるような過疎の町。父は出稼ぎでほとんど家におらず、母は朝から晩までパートを掛け持ちして、彼を大学へ送り出してくれた。


「直人、あんたは広い世界を見なさい。この町に縛られちゃダメだよ」


母の言葉を胸に、彼は必死に勉強した。けれど、札幌という街は、彼のような「持たざる者」にどこまでも冷たかった。バイトに明け暮れ、大学の講義では眠気と戦う毎日。隣の住人から三万円を提示された時、彼の脳裏をよぎったのは、新しい参考書代でも贅沢な食事でもなく、来月の家賃と、故郷の母に送ってやりたいわずかな小遣いのことだった。


「……バカだな、俺は」


独り言が、震える唇から漏れる。


隣の男に指定された場所は、北広島にあるこの廃倉庫だった。三日目の夜、ここへバッグを運べば、さらに十万円を支払うと言われた。怪しい。関わってはいけない。そう叫ぶ理性を、空っぽの財布と、空腹という現実が押し潰した。


だが、倉庫に辿り着いた彼を待っていたのは、金を持った依頼人ではなかった。


暗闇の中から次々と現れる、異様な雰囲気を持った大人たち。


正義を背負っているような眼差しの探偵。夜の蝶のような美しさと、刺すような鋭さを併せ持つ女性。そして、すべてを見下ろすような冷徹な男と、不気味なほど静かな笑みを湛えた主婦。


彼らが口にする「十年前」という言葉。


直人の脳裏に、封印していた記憶が鮮やかに蘇る。


十年前の冬。彼には、年の離れた姉がいた。


直人を誰よりも可愛がってくれた、優しくて太陽のような姉。彼女は、ある雪の夜、近所のコンビニへ買い物に出たきり、二度と帰ってこなかった。


警察はひき逃げ事件として捜査したが、犯人は見つからなかった。有力な目撃証言があったはずなのに、いつの間にか捜査は打ち切られ、町の人々は「不運な事故だった」と囁き合った。その日から、直人の家族は壊れてしまったのだ。


「……あ」


直人は、バッグのファスナーに手をかけた。


中から聞こえる「チッ、チッ」という音。それは爆弾などではなかった。


彼は知っている。この音の正体を。かつて、姉が大切にしていた古いゼンマイ式の懐中時計。犯人に跳ね飛ばされた時、現場に落ちていたはずの、あの時計。


震える手でファスナーを数センチだけ開ける。


隙間から覗いたのは、十年前のあの日、雪の中に転がっていたはずの「証拠品」の数々だった。血の跡がこびりついた青いリボン。歪んだ時計。そして、一枚のICレコーダー。


隣の住人は、何者だったのか。なぜ、彼にこれを持たせたのか。


光の中に立つ貴史という男が、直人に向かって一歩踏み出した。


「坊や、それをこちらに渡しなさい。それは君が持っていていいものではない」


貴史の目は、直人を人間として見ていなかった。ただの「不都合な障害物」として処理しようとする、支配者の目だ。


その時、直人の中で、何かが音を立てて切れた。


恐怖が消えたわけではない。ただ、十年間、家族の心に深く刺さったままだったトゲの正体が、今、目の前のこの男なのだという確信が、彼を突き動かした。


「……渡さない」


直人は、かすれた声で言った。


「なんだと?」


「これは、僕の姉さんのものです。あんたなんかに、二度と触らせない!」


叫びながら、直人はバッグを胸に抱きしめ、倉庫の出口とは逆の、さらなる闇の奥へと走り出した。


「逃がすな! 殺してでも奪い取れ!」


貴史の怒声が響く。


背後で、香苗がナイフを構えて動き出すのが見えた。同時に、結城とレイナもまた、それぞれの目的を果たすべく、この混沌とした戦場へと身を投じる。


チッ、チッ、チッ。


時計の針は止まらない。


十年前の雪の夜に始まった物語が、今、再び動き出した。

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