第六章:レイナ(2025年12月28日)
肺の奥まで凍りつきそうなほど、倉庫の中の空気は冷え切っていた。吐き出す息を極力抑え、レイナは闇の中に同化するように身を潜める。指先の感覚はとうに失われ、握りしめた護身用ナイフの感触だけが、かろうじて自分がまだ「生きている」ことを教えてくれた。
ススキノの喧騒の中にいれば、孤独はネオンの光に紛れる。けれど、この静寂と闇の中では、隠し続けてきた過去が泥のように足元から這い上がってくる。
――佐々木恵美。
古い名前を心の中で呟くたび、鼻腔の奥にあの寂れた漁師町の、生臭い潮の香りが蘇る。酒に溺れた父が母を殴る音。それを押し入れの中で耳を塞いでやり過ごしていた、幼い自分の震え。あの町を捨て、名前を塗り潰して「レイナ」になったあの日から、自分は二度と何者にも怯えないと誓ったはずだった。
「……っ」
不意に、すぐ近くで人の気配がした。誰かがこの闇の中を、驚くほど静かに動いている。レイナは反射的に、隣に潜んでいた男の口を塞いだ。男は一瞬、硬直したが、すぐに抵抗を止めてこちらの様子を窺っている。
結城雅春。
数日前から、店の周りを嗅ぎ回っていた探偵だ。この男が何を追っているのかは、レイナも薄々感づいていた。十年前、あの雪の夜に起きた出来事。すべてを闇に葬り、平然と「上流階級」の顔をして生きている男たちの罪。
レイナは結城の耳元に唇を寄せ、消え入るような声で囁いた。
「静かに。……見つかりたいの?」
彼女がなぜここへ来たのか。それは、一昨日の夜、店に現れた貴史の様子が明らかに異常だったからだ。
いつもは余裕を崩さない貴史が、その夜は冷や汗を浮かべ、何度もスマートフォンの時計を確認していた。そして、彼が席を立った際に、コートのポケットから一枚の紙切れが落ちた。そこに記されていたのが、この北広島の古い倉庫の住所だったのだ。
直感だった。あの男が隠し続けている「汚れ」が、ここで白日の下に晒されようとしている。それを手に入れれば、自分はこの地獄のような偽りの生活から、本当の意味で抜け出せるのではないか。
だが、事態はレイナの予想を超えた展開を見せ始めていた。
「誰だ……誰かそこにいるのか!」
倉庫の中央、わずかな光の中に、一人の少年が立っていた。大学生だろうか、安物のコートを羽織った彼は、場違いなほど大きな黒いボストンバッグを抱えて震えている。
レイナは心の中で舌打ちした。あのバッグ。店に来る「汚い大人たち」が、裏の取引で使うものとよく似ている。あの少年は、単なる運び屋として利用されているだけなのだろう。
その時、倉庫の外で激しい車のブレーキ音が響いた。
「……来たわね」
レイナは結城の腕を強く掴んだ。正面の大きな扉が、軋んだ音を立てて押し開かれる。
強烈なヘッドライトの光が、埃の舞う倉庫内を無慈悲に照らし出した。逆光の中に浮かび上がるのは、見慣れた貴史のシルエットだ。彼はいつもの高級なスーツに身を包んでいるが、その表情は狂気に染まっている。
「そこにいるのはわかっている。バッグを渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる」
貴史の声が、高く広い天井に反響する。
「命? ふふ……よく言うわ」
レイナは闇の中から、ゆっくりと姿を現した。結城を盾にするのではなく、自らが矢面に立つように。ライトに照らされた彼女は、ススキノで見る女王のような姿ではなく、一人の復讐者の顔をしていた。
「貴史さん。あなたの言う『命』って、誰の命のこと? 十年前、あのアスファルトに置き去りにされた、あの女の子のこと?」
貴史の体が、目に見えて震えた。
「お前……なぜそれを……」
「忘れるわけないでしょう。私はあの日、あの場所にいたんだから」
レイナの言葉に、貴史の背後から一人の女性が歩み寄ってきた。香苗だ。彼女の顔には、微かな動揺も、怒りも浮かんでいない。ただ、真っ白な陶器のような無表情で、手にした細身のナイフを美しく掲げている。
「レイナさん。あなたのその『汚れ』、私が綺麗に拭い去ってあげます」
香苗の声は、透き通るように穏やかだった。それがかえって、この場にいる誰よりも、彼女が深く壊れていることを物語っていた。
レイナは鼻で笑った。
「掃除なら自分の旦那の心にしなさいよ。ここはあんたたちの庭じゃない」
レイナは密かに、左手のナイフを逆手に持ち替えた。
逃げる気はなかった。十年前、弱さゆえに沈黙を選んだ自分を、今日この場所で終わらせる。たとえその結末が、この冷たいコンクリートの上での死であっても。
光と闇が交錯する中、四人の視線が激しくぶつかり合う。少年が抱えるバッグの中から、チッ、チッ、チッという不気味なカウントダウンが、静寂を切り裂くように響き続けていた。




