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第九章:結城(2025年12月28日)

掴んだ香苗の手首は、驚くほど細く、そして凍りついたように冷たかった。だが、そこから伝わってくる拒絶の力は、執念という名の異常な熱を帯びている。結城は、元刑事としての反射神経で彼女の自由を奪いながらも、その瞳の奥にある深淵に戦慄を覚えた。


そこには、後悔も、怯えもない。ただ、自分の造り上げた箱庭を汚されたことへの、純粋で病的なまでの「不快感」だけが渦巻いている。


「離して……! あなたのような不潔な男が、私に触れないで!」


香苗が叫び、自由な左手で結城の顔を狙って爪を立てる。結城は顔を背けてそれを回避し、彼女の体を背後の壁へと押し込んだ。鈍い衝撃音が倉庫内に響き、香苗の手から細身のナイフが滑り落ちて、コンクリートの床に高い音を立てて転がった。


その光景を、ライトの向こう側で貴史が呆然と見つめている。


「香苗……お前、何を……」


「黙りなさい、貴史さん!」


香苗は壁に押し付けられたまま、夫を睨みつけた。その表情は、良妻賢母の仮面をかなぐり捨てた、般若のような凄みに満ちている。


「あなたが、あの時、あんなヘマをしなければ……! 私が、どれほどの思いをして、この家を、私たちの経歴を『白く』保ってきたと思っているの? 十年間、私は毎日、あの夜の血の匂いを消すために家を磨き続けてきたのよ!」


倉庫全体が、激しさを増す吹雪に揺さぶられ、悲鳴のような音を立てている。天井の隙間から舞い込んだ粉雪が、懐中電灯の光に照らされて、まるで死者の魂が彷徨っているかのように白く光った。


結城は香苗を抑え込んだまま、視線を闇の奥へと向けた。そこには、姉の形見であるバッグを抱きしめた直人が、目を見開いて立ち尽くしている。


「直人君、そのバッグの中にあるレコーダーを……いや、そのバッグそのものが、君の姉さんの無念を晴らす唯一の武器だ。絶対に手放すな」


結城の声は、低く、しかし確かな重みを持って響いた。


「刑事さん……あんた、本当にやってくれるのか? 今さら、あいつらを裁けるのか?」


レイナが、肩で息をしながら問いかけてきた。彼女の頬には、先ほどの香苗との揉み合いでついたと思われる、薄い切り傷が赤く滲んでいる。その傷が、ススキノの「レイナ」ではなく、復讐を誓った一人の女としての実在感を際立たせていた。


「裁くのは俺じゃない。法だ。……だが、その法を歪めさせないために、俺は今日ここにいる」


結城は、ポケットからスマートフォンの録音ボタンを押した。


「貴史さん、聞こえたか。奥さんはすべて認めたぞ。十年前の隠蔽工作、そして今ここで行おうとした殺人未遂。あんたのキャリアも、奥さんの望んだ『完璧な生活』も、もうどこにも存在しない」


貴史は、崩れ落ちるように膝をついた。高級なコートが泥と雪に汚れ、彼が必死に守ってきた虚飾が剥がれ落ちていく。


「終わったんだ。もう、逃げ場はない」


結城がそう告げた瞬間、倉庫の入り口付近で、直人が抱えていたバッグの中から、ひときわ高い金属音が響いた。


――チン。


ゼンマイが解けきったのか、あるいは時が満ちたのか。十年間、ずっと止まっていたはずの、あるいは誰かの心の中で刻まれ続けていた時計の音が、唐突に止まった。


それは、この長く暗い夜の終焉を告げる、静かな合図のようだった。


遠くから、雪を蹴立てて近づいてくるサイレンの音が聞こえ始める。結城が事前に手配していた、数少ない信頼できるかつての同僚たちが、ようやくこの「交差点」に辿り着こうとしていた。


結城は力を抜き、香苗を解放した。彼女は糸が切れた人形のようにその場に座り込み、虚空を見つめながら、自分の服についたわずかな埃を、震える手で何度も、何度も払っていた。

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