第四章:香苗(2025年12月27日)
午前六時。アラームが鳴る一分前に、香苗は静かに目を開けた。隣で眠る夫、貴史の規則正しい寝息を確認し、彼女は音を立てずにベッドを抜け出す。
まずは家中の窓を開け、冷たく澄んだ空気を入れ換える。札幌の冬の空気は刃物のように鋭いが、香苗にとっては、澱んだ夜の残り香をすべて削ぎ落としてくれる無垢な浄化の儀式のように感じられた。
彼女は完璧でなければならなかった。
厳格な教師だった父と、常に世間体を気にする母のもとで育てられた彼女にとって、「正解」以外の生き方は存在しなかった。成績、振る舞い、そして結婚相手。すべてにおいて最高得点を叩き出し、周囲の羨望を一身に浴びること。それが香苗のアイデンティティだった。
誰もが羨むエリート官僚の夫と、白を基調とした清潔なマンション。香苗は、自分の人生というパズルを、一ミリの狂いもなく完成させたと確信していた。
だが。
「……汚れている」
香苗は、キッチンカウンターの端に、目に見えるか見えないかほどの小さな水滴の跡を見つけた。彼女は即座に専用のクロスを取り出し、その「汚れ」が跡形もなく消えるまで、執拗に磨き上げた。
最近、夫の周囲に微かな「濁り」を感じる。
それは、帰宅時間がわずかに遅れることや、理由の判然としない会食が増えたことだけではない。何よりも、彼の体から漂う、この家には存在しないはずの、甘ったるく安っぽい香水の匂い。
香苗は、夫のクローゼットの奥を整理している際に見つけた、一本のアロマオイルの瓶を思い出す。それは、彼女が愛用しているオーガニックのものとは似ても似つかない、どぎついラベルのついたものだった。
彼女は、貴史がシャワーを浴びている隙に、彼のスマートフォンの通知画面を一度だけ確認したことがある。そこに表示されていたのは、派手なメイクで微笑む、一人の若い女のSNS画像だった。
「レイナ、というのね」
香苗は独り言を呟き、シンクを磨く手に力を込めた。
レイナという女が、どこでどのような人生を歩んできたかなど興味はない。ただ、彼女が香苗の完成させた「完璧な世界」に、土足で踏み込もうとしていること。その一点が、香苗の逆鱗に触れていた。
夫の不貞を嘆き、泣き崩れるような醜態は晒さない。そんなものは、香苗の美学に反する。
不要なものは排除する。汚れは落とす。ただ、それだけのことだ。
彼女は冷蔵庫から、昨夜のうちに仕込んでおいた完璧な朝食の材料を取り出した。
包丁が、まな板の上で小気味よい音を立てる。
トントン、トントン。
その規則的な音は、まるで自分自身の心を律する鼓動のようだった。彼女は、まな板の上の野菜を均一な大きさに切り揃えながら、次なる「掃除」の段取りを頭の中で組み立てていた。
「おはよう、香苗。今日も早いな」
起きてきた夫が、背後から声をかけてくる。香苗は、極めて優雅に、慈愛に満ちた笑みを浮かべて振り返った。
「おはよう、貴史さん。今朝も冷えるから、温かいスープを用意したわ」
彼女の瞳の奥には、濁り一つない殺意が、結晶のように透き通って宿っていた。




