前進と暗雲①
お姉様が帝国へ行く日が来た。
「お姉様っ!」
「…………」
私の声に、視線すら向けてくれない。
「…………エリーカ様」
振り向いてほしいのに、振り向いてほしくない。
ぐちゃぐちゃな気持ちのまま、呼んだ。
「何かしら?」
──っ。
エメラルドグリーンの瞳が私を見る。
けれど、鉱石のように冷たく、温度がない。
「あの、お元気で……。どこにいても、お姉さ……エリーカ様の幸せを願っています」
お姉様は片眉を上げ小さくため息を吐くと、扇子を閉じる。
その音がやけに耳に響く。
「あなたが願うと、私は幸せになれるのかしら?」
「それは……」
「願ってくれなくて結構よ。……あなたも精々幸せになることね」
至極どうでもいいという声色に、視線を落とす。
「ありがとう……ございます」
これで、本当に終わりなのだろうか。
会いたいと思っても、簡単には会えなくなるのに。
それなのに、もうお姉様とさえ呼べない……。
私に背を向け、歩き出そうとするお姉様の腕をとっさに摑む。
「…………何?」
「あ、……えっと…………」
「用がないなら、離してちょうだい」
「──っ」
嫌だと首を横に振る。
だって、離したら本当に終わりなのだ。
「好き……です。お姉様が! 世界で一番大好きです!!」
目が熱い。
お姉様の顔が、涙で歪んで見える。
「あら、そう。私が一番好きなのは、私よ」
「知ってます」
「あと、私はあなたを認めていないわ」
「…………はい」
ズッと鼻をすすり、目をこすれば、お姉様の眉間にシワが寄っている。
「もう二度とお姉様と呼ばないで」
摑んでいた手をゆっくりと離される。
視線と声の割に、お姉様の手はあたたかい。
「…………あまり夜更かしするんじゃないわよ。美しくなくなるわ」
再び背中を向けたお姉様に、何度も頷く。
「お姉様……。お姉様っ! お姉様ぁっ!!」
駄々をこねる子どものように何度も呼ぶけれど、もうお姉様は……エリーカ様は振り返ってはくれなかった。
エリーカ様は、お父様とお母様に挨拶をすると、迎えに来ていたオーガスタ皇子と馬車へと向かう。
「連れて……行かないで……」
お姉様の幸せを願っていた。
ううん、今だって願っている。
この結婚は、お姉様が完璧に悪役令嬢ルートを抜け出した証。
それなのに、苦しい。
私の中の大事な場所がなくなってしまった。
「自身がこの世で二番目に美しいという自信を持ちなさい」
「ベラを笑顔にできないのでしたら、この子のことは諦めてくださいまし」
「私、ベラには世界で二番目に幸せになってほしいと思ってますの」
お姉様の言葉が、まるで昨日の出来事のように浮かんでくる。
大切にしてもらった。
嫌われてしまったけれど、たくさん大切にしてくれたのだ。
「ベラ姉様……」
ルミアスの声にハッとした。
「大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」
うまく、笑えているだろうか。
心配そうに、ルミアスはそっと私の手に触れた。
「──触らないでっ!」
ルミアスの目が見開かれ、その瞳の中には顔を歪ませた私が映っている。
「…………あ、ごめん」
そう言いながら、ルミアスから視線を逸らす。
──触らないで。
あなたさえ、この家に来なければ。
何で、お姉様じゃないの。お姉様がいいのに。
あなたじゃない。
ルミアスじゃ、嫌!
お姉様に触れた指先の温度を忘れたくなくて、指先を握り込む。
「ごめん……なさい……」
何に謝ればいいのかも分からないまま、私は謝罪を繰り返す。
「…………ベラ姉様」
ルミアスの縋るような声が重い。
お姉様が帝国へ行くのだ。
……もう、頑張らなくていいのかもしれない。
ここまで、十分頑張ったもの。
他人のために、私がそこまで頑張る必要はないんじゃないかな。
「ベラ姉様……」
何度も呼ばれ、ゆるりとルミアスを見る。
ドロリとした何かがルミアスの瞳の奥に渦巻いていた。
この子の執着は、私が作ったものか……。
きっとルミアスは、ずっとそばにいてくれる。
あぁ、もう何も考えたくない。
「僕がそばにいます」
「──っ!」
優しい声に、違うと思った。
私のほしかったものじゃない。
それは、ルミアスだからじゃなくて……。
「ごめん、ルミアス。私はあなたのそばにずっとはいられない」
利用……しようとした。
私が弱いから、ルミアスのせいにして、ルミアスに寄りかかろうとした。
強く、なりたい。
お姉様のように、自分の足で立てるように。
アリウムのように、自分で道を切り開けるように。
「ミルベラ」
大きくはない。
けれど、芯のある声は聞き馴染んだもの。
「アリウム。どうしてここに?」
「エリーカ嬢が帝国に行く日だからね。ミルベラが泣いてるかと思って」
忙しいのに、それだけのために?
「泣いてませんよ。お姉様が幸せになる日ですから」
「……そうだな。でも、さみしいだろ? ミルベラとエリーカ嬢は、互いが好きだから」
「…………そうだったら良かったんですけどね」
その言葉に、アリウムは私の手を取ると、迷いなくお姉様の方に向かって歩き出す。
握り込んでいた指先は、無意識に解け、アリウムの手を私からも握っていた。
「オーガスタ皇子、エリーカ嬢」
「アリウム殿下! 見送りに来てくれるとは、感謝するよ。…………というか、さっき王城で挨拶したばかりだろうに、君は本当に過保護だね」
くすくすと楽しそうにオーガスタ皇子は笑う。
「オーガスタ皇子とは挨拶をしましたが、エリーカ嬢とはまだですので。エリーカ嬢、あなたとのお約束通り、ミルベラを世界一幸せにしますね」
「……あら、世界一は私。二番目は……誰でも構いませんわ」
「では、ミルベラでもいいですよね?」
アリウムの言葉に、お姉様はチラリと私を見る。
「構いませんわ。……精々、その愚か者を幸せにして差し上げて?」
「もちろんです」
人好きのする笑みをアリウムは浮かべたあと、私の耳元で「良かったな」と小さく笑う。
何も良いことなんてない。
お姉様にとって、私がどうでも良いのだと再確認しただけだ。
「…………エリーカ嬢が好きでもない相手のことを世界で二番目に幸せになる許可を出すわけないだろ」
「……え?」
「あーは言ってるが、今でもエリーカ嬢なりにミルベラを大切に思ってるよ」
そう……だろうか。
お姉様に嫌われたと、拒絶されたと、思い込んでいただけなのかな。
「だから、笑顔で見送ろうな」
「……私はずっと笑顔でしたよ」
「そうだな」
アリウムの穏やかな顔は、疲れがにじんている。
本当はここに来る時間もないのだろう。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
何でこんなに私に優しくしてくれるの?
ヒロインと結ばれるのに……。
と、いつまでも思うほど、私も鈍くはない。
お姉様が悪役令嬢じゃなくなったように、未来は変わっている。
飢饉対策が落ち着いたら、アリウムとも向き合わないと。
それから、ルミアスとも。
お姉様を乗せた馬車は、帝国へ向けて出発したのだった。




