第9話「桜谷の思い通り」
「先生! 俺も様子を見に行ってきていいですか! 2人のことが気になるんです!」
2時間目のチャイムが鳴っても、桜谷と君野は教室へ戻ってこなかった。
堀田はとうとう耐えきれなくなり、席から立ち上がった。
しかし、国語を担当する四角い眼鏡のでっぷりと太った教師は、無言で首を横に振った。
桜谷が一緒なら問題ない。
教師はそう判断したらしく、そのまま何事もなかったように授業を続ける。
「っ……」
堀田は拳を強く握り締め、悔しそうに席へ戻った。
教師たちから桜谷へ向けられる信頼は、それほど厚かった。
しばらくして、桜谷と君野が前方の扉から教室へ入ってきた。
2人は教師のそばへ行き、小声で何かを伝える。
教師は1度頷き、教室の1番後ろにある2人の席を指さした。
見たところ、2人に何か問題が起きた様子はない。
けれど堀田だけは、すぐに気づいた。
君野の表情が、明らかに暗くなっている。
あの短い時間に、桜谷から何かとんでもないことをされたのではないか。
我が子を心配するような気持ちを抱えたまま、堀田は2時間目の終了を待った。
「君野!」
休み時間になると、堀田は教科書を片づけることも忘れ、真っ先に後ろの席へ向かった。
君野は俯いたまま、返事をしない。
その様子を見た堀田は、すぐに桜谷を睨みつけた。
「桜谷! お前、こいつに何かしたのか? 何でこんなに元気がないんだよ!」
「元気がないわけじゃないわ」
桜谷は堀田と目も合わせず、次の英語の授業で使う教科書を準備していた。
「今、ゆっくり真実を受け入れているだけよ」
「真実って何だよ!」
「大きな声を出さないで」
桜谷は冷たく言った。
「君野くんの前で、みっともないわ」
「こいつ……」
何なんだ、この女は。
何度そう思っても足りなかった。
「ごめんね……堀田くん……」
「どうした? 何で泣いてるんだ?」
堀田は君野のそばへしゃがみ込む。
「僕のせいで、波田さんと別れちゃって……」
「美咲とは完全に別れたんだぞ?」
堀田は必死に否定した。
「俺には、もう未練なんてない。お前が大事なんだよ!」
「でも……でも……」
「君野くんは、あなたと一緒にいると劣等感を抱くのよ」
桜谷が落ち着いた声で口を挟んだ。
「あなた自身にも、あなたの周りにいる人たちにもね」
そんなわけがない。
堀田には、すぐにそう思えた。
昼飯へ誘った時の君野は、あんなにも嬉しそうだった。
「分かるのよ」
桜谷は淡々と続ける。
「私は、あなたよりずっと長く君野くんと一緒にいるもの。君野くんのことなら、何でも分かるわ」
「お前は、何も見てないだろ!」
堀田は声を荒らげた。
「美咲と別れた時のことも、その前に何があったのかも、何も知らないくせに!」
キーンコーンカーンコーン。
無情にも、授業開始のチャイムが鳴った。
「席へ戻りなさいよ」
桜谷は堀田を見もせず、冷たく突き放した。
「くそっ……」
堀田は自分の席へ戻り、出しっぱなしだった国語の教科書を慌てて片づけた。
「何をそんなに熱くなってるんだよ」
隣にいた藤井が、苦笑いを浮かべる。
「桜谷さんが怒るのも無理ないだろ。2人は付き合ってるんだぞ。そこへ急に部外者が入って、世話を焼こうとしたら嫌がるに決まってる」
「でも、何かがおかしいんだよ」
「何かって?」
「何かは、何かだよ!」
堀田はむきになって言い返した。
その瞬間、英語教師が教室へ入ってくる。
堀田は不満を飲み込み、前を向いた。
確かに、美咲と別れてから、まだきちんと話していない。
君野から見れば、自分のせいで2人が別れたように見えただろう。
ならば、もっと早く説明しておくべきだった。
美咲から何の連絡もないのは、もう自分に気持ちがなく、未練もないからだろう。
堀田は、そう思い込んでいた。
「君野。こっちで食べないか?」
昼休み。
堀田は君野の席の前に立ち、当然のように自分たちのグループへ誘った。
美咲がいなくなった今、机を囲んでいるのは、藤井と鈴木、そして堀田の男子3人だけだ。
「え……僕も?」
君野は驚いた顔をした。
そして、迷うように右を向く。
そこには桜谷がいた。
「ここで、2人で食べるわ」
桜谷が静かに答えた。
「桜谷、お前も来ればいいだろ」
堀田はぶっきらぼうに返す。
「嫌よ。あなたと私たちは違うもの」
「何でだよ!」
「あなたはライオン。私たちはシマウマ」
桜谷は当然のことを説明するように言った。
「同じ環境では生きていけないのよ」
「どう考えても、お前のほうが肉食獣だろ!」
堀田は君野の机へ弁当を置いた。
「2人がこっちで食べないなら、俺がここで食べる!」
無理やり居座ろうとした、その時だった。
「ゆうじゅ!」
「!」
聞き覚えのある声に、堀田が振り返る。
すぐ後ろに、美咲が立っていた。
「美咲!?」
「よかった。これで私たち、元に戻れる!」
「は?」
美咲は満面の笑みを浮かべ、堀田へ抱きついた。
先週、派手な別れ話を繰り広げた2人による、騒がしい恋人劇の第2幕が始まった。
教室中の視線が、再び2人へ集まる。
「何なんだよ、今さら……!」
「だって、もう君野くんには桜谷さんがいるじゃない!」
美咲は堀田の胸元へ顔を寄せた。
「ゆうじゅが相手をしなくても大丈夫でしょ? だから私とやり直してよ! 私、この瞬間をずっと待ってたんだから!」
「堀田くん」
桜谷が、腹立たしいほど上品に微笑んだ。
「波田さんと、心置きなく向こうで食べればいいわ。私たちに気を遣わなくても大丈夫よ」
「美咲、俺はもうお前とは別れたんだ!」
堀田は美咲の肩を押し返そうとした。
「頼むから、受け入れてくれ!」
「私は納得してないもん!」
美咲はさらに強く堀田へしがみつく。
「もっと一緒にいたら、絶対に私を好きになるから! お願い、お願い、お願い!」
「だから……!」
堀田は何度も拒もうとした。
けれど、美咲は泣きそうな顔で離れようとしない。
教室中から注目される中、押し問答を続けることにも耐えられなくなり、堀田は結局、美咲の駄々に折れてしまった。
「分かったから、とりあえず離れろ」
堀田は美咲を連れ、藤井と鈴木が待つ机へ移動した。
形だけ見れば、以前の4人へ戻ったようだった。
君野は静かに俯き、弁当に入っていた小さなコーンを箸で摘まみ、1粒だけ口へ運んだ。
「ほらね」
桜谷が優しく言った。
「彼には、彼の居場所があるのよ」
君野が一瞬だけ顔を上げる。
「そこは、あなたのいる場所じゃないの」
君野の視線は、見た目の華やかなクラスメイトたちへ向いていた。
整った顔立ちの堀田。
細身で美しい美咲。
そして、その2人を取り囲む藤井と鈴木。
4人だけが、ほかのグループにはない眩しい光を放っているようだった。
「足手まといの僕は、もう関わっちゃいけないんだ……」
君野がぽつりと呟く。
箸の先には、もう何も挟まれていない。
それでも君野は、空の箸を弁当箱の中で何度も開閉していた。
「私が、君野くんを幸せにしてあげる」
桜谷は穏やかに笑った。
「だから、これはもういらないわよね」
いつの間にか、桜谷の手には「弟」と書かれたキーホルダーが握られていた。
どうすれば、君野自身の手でこれを捨てさせられるだろう。
どうすれば、二度と堀田のもとへ戻ろうと思わなくなるだろう。
「でも……」
君野は泣きそうな顔で、キーホルダーを見つめた。
「大切なものだから……」
手を伸ばしかけ、すぐに引っ込める。
「でも、僕には持っちゃいけない気がする……」
「……」
桜谷は、君野から聞いた話を思い出していた。
2人はアイス屋へ行き、兄と弟になる約束を交わしたという。
堀田には、亡くなった幼い弟がいる。
君野がその弟に似ているからこそ、堀田はこれほどまでに執着し、自分へ突っかかってくるのだ。
普通に考えれば、桜谷のほうが不利だった。
何より自分には、呪いのキスがある。
キスをすれば、君野の記憶から自分は消える。
だからこそ、君野くんを誰にも奪わせない。
彼が自分で選べないのなら、私がすべて決めればいい。
桜谷は、もう戻れないと知りながら、静かに笑った。
もう、選ばせない。




