第10話「愛の軟禁錠(なんきんじょう)」
この日の5時間目。
この学校では基本的に、2クラス合同で体育の授業を行う。
男子と女子に分かれ、この日は女子が体育館で球技、男子が校庭で陸上競技に取り組んでいた。
堀田は準備運動をしながら、先ほど耳にした会話を思い返していた。
女子トイレの前を通り過ぎようとしたとき、美咲の友人たちが、自分たちが別れたことについて話していたのだ。
「美咲ってさ、結局、イケメンの彼氏を持ってる自分が好きなのよ」
「ステータスってやつ? 私たちより上に立ちたくて必死なんじゃない?」
美咲が好きだったのは、堀田自身ではない。
自分というブランドを所有し、それを誇ることだったのか。
その考えが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
ピッ。
角刈りで筋肉質な体育教師が、ホイッスルを鳴らす。
君野はほかの3人と並び、スタートラインに立っていた。
合図と同時に、100メートル先のゴールへ向かって走り出す。
けれど、かつてサッカーで見せていた体力はどこへ行ったのか。
結果は、4人中3位だった。
次は堀田の番だ。
4人が横一列に並ぶ。
堀田はクラウチングスタートの姿勢を取り、100メートル先のゴールを射抜くように見据えた。
体育教師のホイッスルが鳴る。
うおおおお!
君野!
俺の気持ち、届いてくれ!
堀田は圧倒的な1位でゴールを駆け抜けた。
その勢いのまま、君野のもとへ向かう。
校庭の端で体育座りをしていた君野の隣へ、旅館の女将のようにちょこんと腰を下ろした。
君野は靴紐をいじっていた手を止め、堀田を見る。
「なあ、聞いてくれよ」
堀田は息を整える間もなく切り出した。
「俺、もう美咲には未練なんてないんだ」
元気のない君野が、ゆっくりと顔を上げる。
「悪かったな。あんな別れ方をしたら、お前が罪悪感を抱くのも無理ないよな」
「……」
「美咲と付き合ったのは、弟がいなくなって、その穴を埋めるものが欲しかっただけなんだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ!」
次の瞬間。
堀田は右手を握り締め、自分の頬を思い切り殴った。
「えっ!」
君野はびくりと肩を跳ねさせ、目を丸くする。
「お前だ!」
堀田は、真っ直ぐ君野を見据えた。
「俺は、お前が大事なんだ。だから桜谷の空想や妄想だけで、勝手に決めつけないでほしい」
「……本当?」
「ああ」
堀田は力強く答えた。
「だから、そんな暗い顔をするなよ。そんな顔をするってことは、お前も俺のことを考えてくれてたんだろ?」
「うん。……考えてたよ」
君野は小さく頷いた。
「でも……堀田くんは、僕のことを鬱陶しいって思わない?」
「思わない!」
堀田は即答した。
「そんなお前が好きだ! ライオンだろうがシマウマだろうが、俺は最後までシマウマのお前を守る!」
「うん……ありがとう。嬉しい」
君野が、ようやく笑った。
「でも、キーホルダー……」
「ん?」
「桜谷さんに、自分から渡しちゃったんだ。そのほうが正しい気がして」
「大丈夫だ。俺が取り返す」
堀田はそう言ってから、ふと思い出した。
「そういや、桜谷の奴、昼休みにお前のリュックへ変なものをつけてたよな」
「あれは、海外のお土産なんだって」
君野は自分のリュックを指さした。
「ハート型の南京錠と鍵。桜谷さんが僕のリュックに南京錠をつけて、その鍵を自分の鞄につけたんだ」
「は?」
「これで、いつも一緒って意味なんだって!」
「何だよ、それ」
買ってくる土産物まで、ろくなものではない。
堀田は露骨に眉をしかめた。
「その鍵があれば、南京錠を外せるんだな」
その南京錠、絶対に外してやる。
桜谷の鞄に鍵がついているなら、席の近い2人の鞄を寄せればいい。
外した南京錠は、そのまま窓から投げ捨てる。
君野との関係を終わらせようとした罰だ。
堀田の内側で、怒りがめらめらと燃え上がった。
体育が終わり、
1年生の廊下の向こうから、女子生徒たちが集団で戻ってきた。
その中にいた桜谷は、堀田と君野が並んでいる姿に気づく。
ほんのわずかに、黒目が動いた。
堀田は睨み返した。
けれど桜谷は視線を合わせることなく、そのまま教室へ吸い込まれていった。
「お疲れさま」
君野が桜谷の隣の席へ戻ると、彼女はいつものように微笑んだ。
「あ、あのね」
君野は少し言いにくそうに口を開く。
「僕、堀田くんとまた仲良くしようと思うんだ」
「ふふ。いいんじゃない?」
「え? いいの?」
「ええ。私、仲良くしちゃいけないなんて、1言も言ってないわ」
「そっか。確かに!」
君野は安心したように笑った。
「じゃあ、3人で仲良くできるね!」
その無邪気な言葉に、桜谷も静かに微笑んだ。
やがて制服へ着替え、掃除の時間が始まる。
「ねえ、君野くん」
「何?」
「君野くんって、男の人を好きになったりもする?」
「えっ。今は、そんな予定ないよ」
「そう」
桜谷は、何でもないことのように続けた。
「堀田くんは、恋愛対象として見る?」
「えっ! 見てないよ! 何で?」
「ふふ。ごめんなさい」
桜谷は口元を隠すように笑った。
「堀田くんが、あまりにも君野くんのことを好きだから」
「あ、堀田くんは、僕のことを弟だと思ってるんだよ」
君野は得意そうに言う。
「そういえば、その話したっけ?」
「したわ」
「そっか」
「私が病欠で1週間いない間に、突然あんなに仲良くなっていたから、驚いたの」
「確かにね。すごい1週間だった!」
君野は楽しそうに笑った。
しかし、すぐに真剣な顔で桜谷を見る。
「あの、桜谷さん」
「何?」
「僕のキーホルダー、その……返してほしいんだけど」
君野は少し遠慮がちに言った。
「大事なものだから。今、どこにあるの?」
「ああ。掃除の時間が終わってからでもいい?」
「うん!」
君野はすぐに頷いた。
「あ、そういえばね。堀田くんと、さっき桜谷さんからもらったキーホルダーの話をしたんだ」
「ふふ。どんな話をしたの?」
「ハート型の南京錠だって言ったら、すごく驚いてた!」
「そう」
上機嫌な君野へ、桜谷は上品な笑みを返した。
掃除の時間。
堀田は、自ら進んで皆が嫌がる雑巾がけを担当していた。
桜谷の鞄についている鍵を使い、君野のリュックにつけられた南京錠を外すためだ。
2人の鞄は、それぞれの机の脇にかけられている。
クラスメイトたちは、箒を手に雑談していた。
堀田は、ゴミを捨てに行く生徒の姿を確認する。
「うわ。ここ、汚れてるな」
わざとらしく声を上げた。
「ここも気になるなあ」
怪しまれないよう小芝居を打ちながら、雑巾がけの姿勢のまま後ろへぴょんぴょんと移動する。
まるで蛙だった。
そのまま、窓際の1番後ろにある桜谷の机の下へ潜り込む。
誰も見ていない。
よし。
堀田は君野のリュックを抱き寄せ、続いて桜谷の鞄へ手を伸ばした。
「こんなもの……!」
震える手で、鍵を南京錠の鍵穴へ近づける。
ようやく、ぴたりとはまった。
そのときだった。
「きゃあああ!変態!!何してるの!」
「うわっ!」
すぐ横で響いた悲鳴に、堀田はびくりと体を跳ねさせた。
我に返ると、すぐ隣に黒い脚が立っている。
黒いタイツを履いた女子生徒。
堀田は恐る恐る、机の下から顔だけを出した。
「堀田くん!私の鞄に触って、何をしてるの!」
桜谷だった。
その瞬間、堀田の顔から血の気が引く。
教室中の視線が、一斉に集まった。
終わった。
俺の学生生活。
「いや、これは……!」
堀田が彼女を見上げる。
悲鳴とは裏腹に、桜谷は静かにこちらを見下ろしていた。
その口元に、薄い笑みが浮かんでいる。
「なっ……!」
罠だ。
そうか…!
最初から、全部仕組まれていた。
「堀田くん、何してるのー?」
「駄目だよ、いたずらしちゃー」
普段の行いがよかったのか、女子たちは呆れたように笑うだけで済んだ。
目の前の桜谷だけが、小憎らしく小首を傾げている。
「返してほしい?」
桜谷は声を落とした。
「大事な、大事な『弟』のキーホルダー」
「当たり前だ!」
「ねえ」
桜谷は堀田を見下ろしたまま尋ねる。
「君野くんのこと、どう思っているの?」
「弟みたいに可愛いと思ってる!」
堀田は即答した。
「お前みたいな奴には渡さない!」
「ふうん」
桜谷は無表情のまま、首を傾げる。
「弟、ね。本当に?」
「いいから、どけよ! 出られないだろ!」
「どかない」
「お前な……!」
苛立った堀田は、邪魔な桜谷の脚へ手を伸ばしかけた。
「叫ぶわよ」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」
「ふふ」
桜谷は、机の下でもがく堀田を見て笑った。
「そのチンパンジーみたいな格好、似合ってるわ」
「誰がチンパンジーだ!」
堀田は机の脚にしがみつき、恨めしそうに桜谷を睨む。
「趣味悪いぞ! 早くどけ!」
「私は、今の君野くんを守るためなら、何でもするつもりよ」
桜谷の声が低くなる。
「何をするか、分からないわ」
「はっ。やってみろよ!」
堀田は負けじと言い返した。
「そんなことして、逆に君野に嫌われても知らないからな!」
その瞬間。
桜谷は突然、腰を落とした。
堀田が握っていた椅子の脚を、上から包み込むように掴む。
そのまま顔を近づけ、不気味に口元を歪めた。
予想外の行動に、堀田も目を見開く。
「君野くんは、私を嫌うことなんてできないわ」
「……」
「絶対に」
桜谷は笑った。
「――そういうふうにしたもの」
「……何だよ、それ」
「ねえ。そろそろ机、移動させていいかな?」
1人の女子生徒が、困った顔で声をかけてきた。
「あら。ごめんなさい」
桜谷は何事もなかったように立ち上がる。
ようやく解放された堀田は、狭い机の下から這い出した。
痛めた腰をさする。
「何があろうと、君野を渡してたまるか……」
堀田は小さく呟き、失った名誉を取り戻すように机運びへ加わった。
放課後。
桜谷がトイレへ行っている間、堀田が君野を探していると、女子トイレの近くでその姿を見つけた。
どうやら、ここで待つよう桜谷に言われたらしい。
廊下の端へ尻をつけ、繋がれた犬のように大人しく待っている。
「何だ、そりゃ」
君野の手には、細長い枝のようなチョコ菓子が握られていた。
「これね、桜谷さんからのお土産」
君野は嬉しそうに見せる。
「僕にくれたんだ。堀田くんも食べる?」
「桜谷の土産なんか、食いたくない」
「食べてよ。おいしいよ?」
「いらない」
堀田が頑なに拒むと、君野は少し考え込んだ。
そして突然、枝状のチョコ菓子を口に咥えた。
「何してんだよ」
「んー」
君野は菓子を咥えたまま、その先端を堀田へ突き出す。
顔ごと近づけてくる。
咥えて食べろということらしい。
堀田は、ごくりと唾を飲み込んだ。
これが何を意味するのか。
分かっていながら。
いいのか。
俺は、ありのままに楽しむぞ。
「ん!」
早くしろと言わんばかりに、君野がさらに口元を突き出した。
堀田は君野と向かい合うように正座する。
意を決し、反対側の端へ口を近づけた。
「あっ」
堀田が咥える直前。
君野は残りの菓子を一気に口の中へ吸い込み、悪戯が成功した子供のように、にひひと笑う。
「やったな、お前!」
堀田は思わず立ち上がった。
「怒った! 意地でも食わせろ!」
「ん!」
君野は再び、悪ふざけをするようにチョコ菓子を咥えた。
今度は、さっきより口から出ている部分が短い。
また直前で食べるつもりだ。
けれど、今度こそ騙されない。
ここだ。
「お待たせ……」
桜谷が女子トイレから戻ってきた。
そして少し先の廊下で繰り広げられている光景を目にする。
その顔から、笑みが消えた。
「何してるの……!」
悲鳴にも似た声が、廊下に響く。
その声に、2人は我に返った。
触れ合っていた唇が離れる。
「ち、違う!」
堀田は顔を真っ赤にし、慌てて弁解した。
「君野がふざけるから! 俺は、そういうつもりじゃ……!」
「あなた、顔が真っ赤じゃない」
「違う! 君野の悪戯に怒ってるんだ、俺は!」
「あははは!」
君野は何も気づかず笑っていた。
「堀田くん、顔真っ赤!」
自分たちの間で、何かが決定的に壊れ始めたことにも気づかないまま。




