第11話「生ババアバヌアツでアブラアルバム食べバナナでバンバンジー」
桜谷と君野に別れを告げ、堀田は1人で電車に乗った。
帰路につく車内でドア脇に立ち、流れていく景色をぼんやりと眺める。
俺だけが1人、あいつらから離れている。
そのことが、ただただ悔しかった。
午後5時。
夏の太陽は、まだ高い位置にある。
ドアの小窓を流れていく夕方の景色が、今日1日の出来事を次々と思い出させた。
その中でも真っ先に浮かんだのは――君野とのキスだった。
「俺は、あいつの兄のはずだ……」
小さく呟く。
けれど、唇に残った感触がどうしても消えない。
君野は、本当に悪戯心だけでやったのかもしれない。
いじめや桜谷のことで、君野のことばかり考えていたから、感情がおかしくなっているだけだ。
一時的な気の迷い。
きっと、そういうものだ。
「はあ……」
ふと、車窓に自分のエナメルバッグが映った。
そこには、「兄」と書かれたキーホルダーがぶら下がっている。
あまりにも安っぽい。
もっといいものを買えばよかったと、今さらながら少し後悔した。
それでも、君野が言った通りだった。
このキーホルダーには、今では値段の何倍もの価値がある。
君野の黄色いリュックにも、「弟」のキーホルダーが何事もなかったように戻っていた。
「……いや。俺はブラコンだ。ブラコン!」
自分へ言い聞かせるように首を振り、両頬を叩く。
自分から「兄になる」と言った手前、今さらそれ以上の感情を抱いているかもしれないなど、口にできるはずがない。
「俺、超きしょいじゃん……」
それでも、君野は可愛すぎる。
目に入れても痛くないどころか、積極的に入れて、むしろ痛くなりたい。
守りたい。
頭をぐしゃぐしゃに撫で回したい。
そう考えるだけで、胸がいっぱいになる。
堀田はドアへ背中を預け、腕を組んだ。
熱くなった感情を冷ますように力を抜き、車窓の外を見つめ続けた。
「ねえ、君野くん。マジックって好き?」
堀田と別れた桜谷と君野は、2人並んで通学路を歩いていた。
「マジック?字を書くやつ?」
「手品のほうよ」
桜谷は微笑んだ。
「実は、海外に住んでいる親戚がマジシャンなの。それで私も、イリュージョンマジックができるようになったのよ」
「へえ!すごい!」
君野は目を輝かせた。
桜谷は、そんな彼を横目で見つめる。
今の幼い君野くんが、1番可愛い。
先ほどの堀田とのキスも、きっと悪戯が引き起こした事故だ。
決して、彼自身の意思ではない。
「へえ。ここが桜谷さんの家? おしゃれだね」
学校から歩いて10分ほどの場所に、桜谷の家はあった。
開放的な大きな窓がいくつも並ぶ、ひときわ目を引く家だった。
「君野くん。おいで」
桜谷は慣れた様子で彼を家へ招き入れ、玄関にスリッパを用意した。
「わあ!中もおしゃれ!桜谷さんっぽい!」
この家へ来るたび、彼は同じ感想を言う。
首振り扇風機のように顔を動かし、あちこちを見回していた。
「うふふ。ありがとう」
「顔、赤いね。もしかして、体調悪い?」
「ううん」
久しぶりに、あなたをベッドの下へ入れられる。
そのことに胸が高鳴っているだけ。
2階へ上がる。
長い廊下の左側には、黒い扉が2つ並んでいる。
桜谷は、自分の名前が書かれたプレートのある奥の扉へ向かった。
「先に入って」
君野を部屋へ入れたあと、桜谷も中へ入り、静かに扉を閉めた。
部屋は、しんと静まり返っていた。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めている。
しとしとと響く雨音が、薄暗い室内を満たしていた。
目の前には、黄色いリュックを背負ったままの、無防備な君野の背中がある。
桜谷は眼鏡を外し、絨毯の上へ放り投げた。
続いて、3つ編みを留めていた黒い髪ゴムを引き抜く。
するすると髪がほどけ、肩の周りへ弾むように広がった。
物音に気づいた君野が振り返る。
彼女は笑っていた。
けれど、その笑顔には、いつもとは違う暗い影が混じっていた。
「座って?」
囁くように言いながら、桜谷は君野へ近づいた。
そっと腕を引く。
君野はリュックの重さに引かれるように腰を下ろし、その声に小さく胸を跳ねさせた。
「ねえ、君野くん」
「何?」
「縛ってもいい?」
顔を上げると、桜谷の手にはロープが握られていた。
「え……?」
「嫌ね。マジックよ」
「……桜谷さん、綺麗だね」
君野が素直に言う。
桜谷は笑みを崩さないまま、そっと君野の肩へ手を置いた。
「まず、マットレスをどかして?」
「え?」
「イリュージョンの準備よ」
言われるまま、君野はベッドのマットレスを持ち上げた。
その下には、人1人が横になれるほどの板が埋め込まれている。
「それも外して」
板を外すと、その下に人がすっぽり収まるほどの空間が現れた。
「ここに入るの?」
「ええ。寝てみて?」
君野は言われるまま、その中へ体を横たえた。
いつもの手口だった。
けれど、それを覚えているのは桜谷だけだ。
彼女は慣れた手つきで、君野の両手を縛っていく。
「わっ!?」
身を起こしかけた君野の肩を、強い力で押し戻した。
背中が、空間の底へ叩きつけられる。
君野の体が硬直する。
目を見開き、覆いかぶさる桜谷を見上げた。
長い髪が顔へかかり、桜谷の表情はほとんど見えない。
それが余計に恐ろしかった。
「生ババアバヌアツでアブラアルバム食べバナナでバンバンジー!」
突然、桜谷が大声で叫んだ。
その瞳は、まるでガラス玉を埋め込んだように、不自然なほどきらきらと輝いている。
君野は何が起きたのか分からず、目を点にした。
「……何で笑わないの?」
桜谷の笑みが、わずかに引きつる。
「ほら。生ババアバヌアツでアブラアルバム食べバナナでバンバンジー、よ?」
「……」
「君野くん、小学生の頃、ほかの男子たちと一緒に教室で大笑いしてたじゃない」
桜谷は思い出を語るように続ける。
「これをちゃんと言えないと、教室へ入れないって遊びをしてたでしょう?」
「ご、ごめん、わかんない……」
君野は戸惑いながら答えた。
「僕、昔に事故に遭ったみたいで……中学生より前の記憶が、全然なくて……」
「……」
狂気的なほど明るかった桜谷の表情が、一瞬で消えた。
真顔で見下ろされ、君野の背筋に言いようのない恐怖が走る。
次の瞬間。
桜谷の指が、君野の脇腹へ食い込んだ。
「あはっ! やめ……! あははは! やだ、やめてよ!」
「生ババアバヌアツでアブラアルバム食べバナナでバンバンジー!」
「あはははは!」
「生ババアバヌアツでアブラアルバム食べバナナでバンバンジー!」
桜谷が叫ぶたび、指先が容赦なく君野の敏感な場所を狙う。
手を縛られたまま、君野は涙目になり、必死に身をよじった。
逃れようともがく姿は、どこか滑稽ですらあった。
「君野くんが笑ってる!」
桜谷の顔が歓喜に歪む。
「そう。そうそう、これよ! 私が知ってる君野くん、そのものなの!」
その反応が恐ろしく、君野は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「そんな昔のこと、覚えてないよ……」
「覚えてなくてもいいの」
桜谷は優しく言い聞かせる。
「今、笑えば思い出せるかもしれないでしょう? ほら、こうやって!」
「やっ! やめて! あはははは! 嫌っ……はははは!」
「そう、その顔。いい調子よ」
「あははは……! もう、許してよ……!」
「駄目よ」
彼女は満足そうに笑った。
「あなたは今、過去還りに成功しているんだから」
「かこ……?」
「現に、今のあなたの話し方、かなり子供っぽくなっているじゃない」
桜谷は目を見開く。
「きっと、成果が出始めているのよ」
再び浮かんだ狂気的な笑みに、君野は息を詰めた。
けれど、君野にも1つだけ思い当たることがあった。
「あ……違うよ」
「何が?」
「僕は……今の僕として、好かれたいんだよ」
桜谷の動きが止まった。
「そんなはずないわ」
「本当だよ」
「自覚していないだけなの」
「違う!」
君野は必死に首を横へ振る。
「桜谷さんのためじゃない。お願い、ここから出して」
「どうして……」
桜谷の声が震えた。
「どうして、堀田くんなの?」
突然、幼い少女のような甘えた声になる。
そして、縛られた君野の腕の間へ体を滑り込ませ、その胸へ頬を寄せた。
「私、ずっと待ってたのに」
「桜谷さん……」
「ほら、聞いて」
君野の胸元へ、さらに耳を押しつける。
「この心臓の音は、昔から何も変わってない」
「……」
「あなたの臓器も、その目も、唇も、全部私を覚えているはずなの」
桜谷はゆっくりと顔を上げた。
「ねえ。この部屋で、キスしたじゃない」
「分からない……。違――」
「違わない!」
桜谷が鬼のような形相で吠えた。
君野は身を縮こませる。
突然豹変した桜谷に怯え、目から一筋の涙がこぼれた。
「あなたは、薔薇色の思い出の中にいる王子様なの」
桜谷の圧に耐えきれず、君野は無言で頷くしかなかった。
「仲直りのキスをしましょう」
桜谷は君野の頬を両手で包んだ。
「そうしたら、いつもの神聖な儀式をするの」
「待っ――」
問答無用で、桜谷の唇が君野の唇へ触れた。
その瞬間。
君野の全身を、電気のような衝撃が走った。
息ができない。
ダイビング中、酸素が吸えず海の中で溺れているようだった。
喉の奥から、ごぼごぼと空気が漏れていく。
一瞬だけ、視界が大きく歪んだ。
次の瞬間。
無数のガラス片が、宙を舞った。
巨大なドーム型のコンサート会場で、鋭い破片が一斉に降り注ぐように、君野の周囲を埋め尽くす。
何、これ。
嫌だ。
血の匂いがする。
頭から、冷たい何かが流れ落ちてくる感覚があった。
ガラスの破片が、体のあちこちへ突き刺さっている。
時間が経つにつれ、痛みは強くなっていく。
腰にも、強く打ちつけたような鈍い痛みが響いていた。
特に頭が痛い。
内側から割られているようだった。
「んっ……!」
君野は動かせる足を必死にばたつかせた。
ようやく、桜谷の唇が離れる。
君野は全身を汗で濡らし、虚ろな目で天井を見つめていた。
まるで重い脱水症状を起こしたようだった。
桜谷はバッグから飲みかけのペットボトルを取り出す。
蓋を開け、君野の口へ水を流し込んだ。
「……思い出しかけたのね」
桜谷は憂いを帯びた声で言った。
「でも、そっちは駄目」
「……」
「あなたが思い出していいのは、私と幸せだった記憶だけよ」
桜谷は君野を優しく抱きしめた。
君野は逃げようとした。
けれど、体は動かなかった。
「大好き」
桜谷は君野の耳元で囁く。
「君野くん」
次の日。
「おはよう。君野くん」
桜谷はいつものように、君野を迎えに彼の家を訪れた。
いつもの「はじめまして」というやり取りを済ませ、2人で通学路を歩く。
交差点を曲がったところで、桜谷は思い出したように口を開いた。
「ねえ、君野くん」
「何?」
「堀田くんのこと、どう思ってる?」
「え? 堀田くん?」
君野は少し不思議そうな顔をした。
「……普通に、友達だと思ってるけど」
「じゃあ」
桜谷は慎重に言葉を選ぶ。
「もし堀田くんが、君野くんへ恋愛感情を持っていたら、どう思う?」
「そんなこと、考えたことないけど……」
桜谷は笑みを浮かべようとした。
けれど――
「でも、僕は好きになった人が、好きな人だから」
「……え?」
「男でも女でも、別に関係ないかな」
桜谷の笑みが固まる。
昨日とは、まるで違う答えだった。
胸の奥を、嫌な予感が走る。
どうして。
何で。
「桜谷さん?」
少し先を歩いていた君野が振り返る。
歩行者信号が青へ変わっていた。
早く渡ろうと、目で桜谷へ訴えている。
「あ……うん」
桜谷は慌てて歩き出した。
けれど、その胸の中では、激しい焦燥が渦巻いていた。




