第12話「支配のビンタ」
次の日の朝。
「ねえ、君野くん。ここ、覚えてる?」
通学途中、桜谷は突然、公園へ入っていった。
入口近くのベンチへ腰を下ろし、隣に立つ君野を置き去りにしたまま、打ち上げ花火でも眺めるように空を見上げる。
君野は、今日出会ったばかりの少女の不思議な行動に戸惑い、その場で立ち尽くしていた。
「桜谷さん? どうしたの?」
君野が尋ねると、桜谷は寂しそうな声で言った。
「学校では、記憶を失う前みたいに、私の恋人らしく振る舞ってほしいの」
「……」
その言葉に、胸が小さく疼いた。
何度も聞いた気がする。
理由は思い出せないのに。
「どうしたの?」
「……何か」
君野は胸元へ手を当てた。
「僕、桜谷さんと本当に付き合ってたのかもって、今思ったんだ」
「え?本当?」
「うん。何か、すごく好きだった気がする」
「やっぱり……」
桜谷の表情が明るくなる。
「ちゃんと戻ってるのね」
「戻ってるって?」
「君野くんが、私のことを思い出してくれてるの」
桜谷は嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、もうすぐあの頃の王子様が戻ってくるのよ」
「あれ、飲みたくなった」
「え?」
「サーブ」
「サーブって、サッカー選手がラベルに載っている飲み物よね?」
「うん!」
君野は目を輝かせた。
「その味が、一瞬だけ口の中に広がったんだ。これも昔好きだったからかな」
……忌々しい。
また私より先に、サッカー部の記憶……
桜谷は、期待を裏切られたように肩を落とした。
そのまま立ち上がり、スクールバッグを手に1人で公園を出ていく。
「ま、待って!桜谷さん!」
君野には、なぜ彼女が不機嫌になったのか分からなかった。
それでも置いていかれないよう後を追い、少し距離を空けたまま学校へ向かった。
「おはよう、堀田くん!」
朝のホームルームが始まる前。
教室近くのトイレから出てきた堀田は、突然、横から脇腹へ体当たりを受けた。
「うおっ! 危ないだろ!」
「おはよう!」
「喰らえ!」
君野が笑いながら、もう1度体当たりする。
上機嫌な堀田の太い眉が、2度大きく跳ねた。
そのまま君野の癖のついた髪を、両手でわしゃわしゃと掻き回す。
「ああ、ひどい!もう!僕、怒った!」
可愛い。
まただ。
俺は病的なブラコンなんだろう。
「弟だ」と言い聞かせるほど、その感情は膨らんでいく。
けれど、腰へ巻きついた子犬のような君野は、丸い目をきらきらと輝かせ、無邪気に堀田を追い詰めてきた。
「ねえねえ、堀田くん。僕、思うんだ」
「な、何だ?」
「勉強してるとき、あとどれくらいやればレベルアップするか、数字で見えたら便利だと思わない?」
「まあ、確かに便利だな。そんな魔法でも使えるのか?」
「でしょ?」
君野は得意そうに笑った。
「でも僕はね、堀田くんのことなら分かるんだ!」
「はい?」
君野はすくっと立ち上がり、堀田へ人差し指を向けた。
「100!」
「は?」
「今、堀田くんが僕を好きな数字!」
「そ、そんなわけないだろ!」
ばれている。
半ば開き直りながらも、見事に言い当てられ、堀田は取り乱した。
耳まで真っ赤になる。
それを見た君野は、さらに楽しそうに指をさした。
「堀田くん、100!堀田くん、100!」
「やめろって! そんなことしてると嫌いになるぞ!」
「堀田くん、100!堀田くん、120!」
「何で分か――そんなわけないだろ! 自惚れすぎだ!」
「何をしてるの?」
そのとき、隣の女子トイレから桜谷が出てきた。
堀田へ向けられた視線は冷たい。
ふやけていた堀田の表情が、一瞬で引き締まる。
「君野くん、大丈夫?さっき、呂律がおかしかったわ」
「甘えてるの!」
君野が元気よく答えた。
「また幼児退行か?」
「またって、1週間前にも起きてたの?」
桜谷は堀田へ目を向けた。
「あなたといるときばかり起きるのね」
その1言で、堀田の機嫌が一気に悪くなった。
「俺がこいつのストレスの原因だって言いたいみたいだな」
「あら。違うの?」
「俺は見てたんだ」
堀田は桜谷を睨みつけた。
「先々週の金曜日。階段の踊り場で、君野を殴ってただろ」
「……」
「お前自身が、こいつのストレスなんじゃないのか?」
「あら、悪趣味ね。そんなところを眺めてたなんて」
「何で殴ったんだ?」
堀田は1歩、桜谷へ近づいた。
「理由によっては、お前は君野と別れるべきだと思ってる」
「部外者のあなたが知る必要なんてないわ」
その隙に、堀田へ捕まっていた君野が腕の中から抜け出した。
商業施設を走り回る子供のようにけらけらと笑い、桜谷へ人差し指を向ける。
「えへへ! 桜谷さん、50! 桜谷さん、50!」
「君野くん、どうしたの?」
「今の桜谷さんの数字!」
「数字?」
「お前、本当に君野のことを愛してるのか?」
堀田は見本を示すように君野の肩を掴み、体を自分のほうへ向けた。
すると君野は、すぐに叫ぶ。
「100! 150!」
機械のように繰り返される言葉を聞いても、桜谷は表情を崩さなかった。
静かに目を細める。
「だから何?」
「何って……」
「本人の意識が曖昧なときの感情が、本当だとでも言うの?」
「そうだ!」
堀田は言い返した。
「幼児退行してるときこそ本音が出る! 普段しないことをするなら、普段のほうに嘘があるんだよ!」
桜谷は腕を組み、鼻で笑った。
「あなたは知らないでしょうけど、あのビンタは彼との利害の一致なの」
「は?」
「私たちは、それくらい仲がいいのよ」
桜谷は君野へ歩み寄った。
そして――
居合い斬りのような速さで、君野の頬を平手打ちした。
パンッ。
乾いた音が、廊下に響く。
君野の体がぐらりと揺れた。
「君野くん」
桜谷は、呆然とする君野を見つめる。
「愛してる」
堀田が口を開けたまま見守る前で、桜谷は君野の唇を奪った。
「これで、あなたは"また"私のもの」
唇を離し、目を細めて微笑む。
「ほら。前と同じビンタよ」
桜谷は堀田へ顔を向けた。
「これが、どうかしたの?」
「いい加減にしろ!」
堀田は怒鳴った。
「自分が不利だからって、めちゃくちゃなことしやがって!」
「ふふ」
桜谷は余裕を崩さない。
「明日になったら、消えるわ」
「何?」
「だから今日の時間を、たっぷり楽しんだら?」
「ひどいよ……桜谷さん……」
君野が、か細い声を漏らした。
頬を押さえ、涙を流している。
そうだよな。
当然の反応だ。
堀田は、なぜか少しだけ胸を撫で下ろした。
「行こうぜ、君野」
君野の腕を取る。
「お前は今日から自由だ」
「う、うん……」
堀田はそのまま、行き先も決めずに君野を連れて廊下を歩き始めた。
傷ついた君野へ寄り添うように、堀田は声をかける。
「お前、いつもああやって暴力を振るわれてたのか?」
「……ううん」
君野は首を横に振った。
「そんな記憶はないけど、もしあったなら、もう離れてるよ」
「そうだよな」
堀田は頷く。
「これで分かっただろ。あいつの本性が」
けれど。
なぜか、後ろに残した桜谷を振り返ることができなかった。
今も奥歯まで見せながら、自分たちへ笑っているような気がした。
次の日。
「は?」
朝。
校内の廊下で君野を見つけた瞬間、堀田は動けなくなった。
足が床ごと凍りついたようだった。
君野は、昨日の出来事など何もなかったように、桜谷と向かい合って笑っている。
「な……」
視界に映る2人の姿が、ぐにゃりと歪む。
一気に血の気が引いていく。
堀田はその場で膝から崩れ落ちた。
肩にかけていた白いエナメルバッグが滑り、冷たい床へ叩きつけられる。
何でだ。
どうしてだ。
なあ。
俺は、裏切られたのか。
「……君野」
気づけば堀田は立ち上がり、2人の前へ立ちはだかっていた。
「お前、何してるんだよ……」
「あ、おはよう。堀田くん!」
「どういうことだよ!」
君野は驚いて目を丸くした。
「え? 何で怒ってるの?」
「何でって……!」
堀田は君野へ詰め寄る。
「お前、昨日、桜谷に殴られただろ! もう付き合わないって言っただろ!」
「え……?」
「なのに、何で一緒にいるんだよ!」
「そ、そうだっけ……?」
「堀田くん、どうしたの?」
桜谷が、何事もなかったように首を傾げる。
「今日はエイプリルフールでも何でもないわよ」
堀田は君野の両肩を掴んだ。
必死に目を覗き込む。
そこには、昨日確かにあったはずの恐怖も、苦しみも、涙もなかった。
「何でだよ……」
あれほど泣いていたはずなのに。
どうして、こんなに平然としていられる。
「行きましょう」
桜谷は君野の腕を取った。
2人は、堀田を置き去りにして教室へ入っていく。
その背中を見送る。
後ろ姿しか見えない。
それでも、桜谷が笑っていることだけは分かった。
やっぱり。
あの女、背中越しに笑ってやがった。
でも。
どうして。
俺が思い描いていた天使は、幻だったのか。
「くっ……!」
自分だけが、間違っているようだった。
心を深く斬られたような痛みが、堀田の胸へ深い傷を刻んだ。




