第13話「ヒーロー気取り野郎」
その日の午前中。
1年2組の教室。
君野は昨日の課題をすっかり忘れ、教師が来るまで必死に桜谷のノートを写していた。
その姿を、桜谷は静かな笑みを浮かべて眺めている。
彼は、何もできなくていい。
いつまでも私のそばにいてくれれば、それでいい。
その願いを叶えるように、君野は昨日の平手打ちも、その場に堀田がいたことも覚えていなかった。
キスをする直前の記憶だけではない。
その場で起きた出来事までも、曖昧になってしまったのだろう。
「できた!ありがとう!」
君野は笑顔でノートを返した。
桜谷はそれを受け取り、静かに閉じる。
しかし、安堵したのも束の間、君野の眉が寂しそうに下がった。
「堀田くん、僕のこと嫌いになったのかな」
「……」
「僕、また何か大事なことを忘れちゃったみたい」
「さあ」
桜谷は素っ気なく答えた。
「覚えていないなら、大したことではないってことよ」
――桜谷さん、50!
昨日、君野が口にした好意の数字。
大したことではない。
それなら、なぜあの言葉をいつまでも気にしているのだろう。
堀田くんは、ど変態だ。
正義を武器にして、誰かのためならどこまでも美しく泥を被り、その泥さえおいしそうに食べる。
ヒーロー気取り野郎。
あの性格では、簡単に君野くんを諦めるはずがない。
「桜谷さんって、放課後によくサッカー部の練習を窓から見てたよね」
突然、君野が頬杖をつき、窓の外を眺めながら言った。
校庭では、サッカー部の生徒たちが練習している。
「そんなこと、したことないわ」
桜谷はすぐに否定した。
「君野くんの記憶違いよ」
「……そっか」
君野は振り向かない。
まるでテレビ画面でも眺めるように、窓の向こうでボールを追う生徒たちを見つめている。
また、サッカーの記憶だ。
確かに桜谷は2か月ほど前まで、この窓からサッカーをする君野をよく眺めていた。
けれど、違う。
思い出してほしいのは、そちらではない。
幼い頃、2人で過ごした濃密な薔薇色の時間。
どうして、その記憶だけが戻ってこないのだろう。
あの頃の君野は、自分のことを思っていなかったのか。
いや。
そんなはずはない。
「……彼を取り戻す」
桜谷は小さく呟いた。
いや。
取り戻すのではない。
――創り直すのだ。
今の君野くんを1度壊して、私だけの薔薇色の君野くんに。
3時間目の休み時間。
「ねえねえ。今度の日曜日、私とカラオケに行かない?」
廊下を歩いていた堀田は、美咲の友人である女子2人に呼び止められた。
「堀田くんは何を歌うの?」
「えっ、私も行きたい!」
「駄目!それじゃ、私と堀田くんのデートにならないじゃん!」
「ああ、ごめん」
堀田は興味のなさそうな顔で答えた。
「俺、歌は得意じゃないんだ」
どうやってこの場を切り抜けようかと考えていると、3人の後ろから聞き慣れた声が響いた。
「ちょっと! 私のゆうじゅに何してるの!」
「み、美咲」
短いスカートを揺らしながら、美咲が頬を膨らませて近づいてくる。
何度別れたと伝えても、その言葉を理解する気はないらしい。
「ね、ねえ、ゆうじゅ。聞いて!」
美咲は突然、怯えたような顔を作った。
「私、誰かにつけられてるの!」
「つけられてる?」
「ほら、私ってこの美貌だから、たまに変な人に絡まれるじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、堀田の中にある自己犠牲的な正義感が噴き出した。
太い眉が、きりりとV字になる。
「どんな奴だ?」
「あ……えっとね」
美咲の目が泳ぐ。
「髪は黒くて短髪。近所の高校に通ってる、体格のいい高校生だった!」
「ほかには?」
「財布はポケットに入れてて……名前は川辺!私の家の前で待ち伏せしてたのよ!」
美咲は畳みかけるように言った。
「ね?ね?十分危ないでしょ?」
「……本当か?」
「本当だってば!」
美咲は堀田の腕を掴んだ。
「ゆうじゅ、私を守らなくていいの? 私が刺されてもいいの?」
「……なあ、美咲」
「何?」
「ピザって10回言ってくれ」
「うん!ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ!」
「じゃあ、もう1回、ストーカーの特徴を言ってくれ」
「えっ?」
美咲は固まった。
「あ……えっと、高校生で、短髪でしょ。それから……何だっけ。鈴木だったっけ?」
「はあ……」
堀田は深くため息をついた。
「嘘をつくなよ」
「嘘じゃない!」
「それに、お前は本当に俺のことが好きなのか?」
「え?」
「俺をブランド品か何かだと思ってるだけで、本当は愛情なんてないんじゃないのか?」
「誰がそんなこと言ったの?」
美咲は下唇を噛み、怒りの矛先を友人たちへ向けた。
「だって、美咲が自分で言ってたじゃない」
1人が呆れたように答えた。
「堀田くんと付き合えば、自分のステータスが上がるって自慢してたでしょ」
「そうよ。堀田くん、かわいそう」
「何よ!」
美咲と友人たちが揉め始める。
けれど、その間も堀田の頭の中は、別のことで埋め尽くされていた。
ああ。
君野と話したい。
君野を可愛がりたい。
頭をわしゃわしゃしたい。
何か、君野を丸ごと吸収する方法はないのか。
そんなことを考えている時点で、もう普通ではない。
堀田は揉め続ける3人を尻目に、その場から立ち去った。
それを見た友人たちも、すっかり呆れてしまう。
「美咲!放課後のカラオケまでに頭を冷やしておいてね!」
2人が去ると、美咲は頬を膨らませた。
そして、まるで見当違いな結論へたどり着く。
「何よ……」
拳を握り締める。
「どれもこれも、桜谷さんがちゃんと君野くんを管理しないからこうなるのよ!」
君野と堀田が仲良くならなければ、こんなことにはならなかった。
「絶対に許さないから……」
4時間目。
朝から降り始めた雨のため、1組と2組は体育館で男女に分かれ、バスケットボールをすることになった。
「君野!」
「あわわっ!?」
君野と堀田は、偶然同じチームになった。
運動神経のいい堀田のボールさばきに、君野はついていくだけで精いっぱいだった。
けれど、1つのボールを追いかけているうちに、2人の間にあった気まずさは少しずつ溶けていく。
チーム全員でハイタッチを交わす頃には、磁石のように抱き合っていた。
ピーッ!
試合終了のブザーが鳴る。
「やったな!」
勝利を口実に、堀田は君野の髪をわしゃわしゃと撫で回した。
これだ。
これだよ。
「堀田くん、僕、今は汗臭いから!」
「君野」
堀田の手が止まる。
「ごめんな」
「え?」
「お前が記憶をなくす病気を持ってるっていうのに、俺、感情的になった」
「ううん」
君野は小さく首を横へ振った。
「僕も、大切なことを忘れてごめんね」
「……」
「また、お兄ちゃんって呼んでもいい?」
君野は不安そうに堀田を見上げる。
「僕、そう呼んでると安心するんだ」
「いいぞ」
堀田は満面の笑みを浮かべた。
「好きに呼べ!」
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
君野は声を弾ませ、堀田の脇腹へしがみつく。
はあっ。
可愛い。
これだ。
俺が求めていたのは、これだ。
「わああっ! やめてよ!」
堀田はさらに強く抱きしめ、君野の頭を撫で続ける。
君野は困惑しながらも、拒むことなく身を任せていた。
一方、桜谷は女子のコートにいた。
「あーあ」
緑色の仕切り網越しに男子コートを見つめ、小さくため息をつく。
「仲直りしちゃった」
女子の試合中だというのに、周囲の生徒たちも男子の試合へ気を取られている。
桜谷もまた、楽しそうにじゃれ合う2人を見つめていた。
その時だった。
「きゃっ!」
硬いバスケットボールが、コートの端にいた桜谷へ飛んできた。
寸前で身を引き、直撃を避ける。
「あら、ごめんなさい!」
ボールを投げたのは美咲だった。
今は桜谷のチームと対戦している最中だ。
「手元が狂っちゃった!」
「……」
「駄目よ、桜谷さん」
美咲は意地の悪い笑みを浮かべる。
「男子ばっかり見て。スケベ」
転がってきたボールを拾い上げる。
「次は外さないかもよ」
それだけ言うと、何事もなかったように試合へ戻っていった。
「へえ……」
桜谷は、美咲の背中を静かに見つめる。
堀田くん。
私に面倒なものをぶつける作戦でも考えたのかしら。
あんな、常に沸騰しているような女でも、しっかり頭は回るものね。
桜谷は妙なところで感心していた。
昼休み。
「君野くん?」
桜谷は廊下の自動販売機で飲み物を買い、振り返った。
「あれ?」
先ほどまで隣にいた君野の姿がない。
飲み物を片手に教室へ戻ると、自分の弁当箱の上に折り畳まれた紙が置かれていた。
「何、これ」
開いてみる。
『カレはあづかった! 因縁の場所で返してあげる!』
そう書かれていた。
「づ?」
相手は、あまり頭がよくない人物らしい。
それだけで、誰が書いたものか大体想像がついた。
「何だよ、それ」
君野の席を見る。
堀田が机の半分を陣取り、当たり前のように弁当を食べていた。
「それより、君野は?」
「何を普通に食べてるのよ」
「これは俺たちの絆の結果だ」
堀田は胸を張る。
「それで、あいつはどこに行った?」
「……ふん」
桜谷は紙を握り締めた。
「あなたも、なかなか残酷な作戦を考えるのね」
「何の話だ?」
「元恋人をいいように利用して、私を罠にはめるなんて」
それだけ吐き捨てると、桜谷は席にも着かず教室を出ていった。
「……美咲が何かしたのか?」
堀田は卵焼きを飲み込み、ようやく事態の重大さに気づく。
すぐに席を立ち、教室を飛び出した。
一方、その頃――。
「うわっ!」
君野は美咲に背中を押され、体育館倉庫の中へ倒れ込んだ。
積まれたマットの上へ体を打ちつける。
「絶対に動かないで!」
「え? はい……」
美咲はそう言い残し、扉を開けたまま入口横の跳び箱の陰へ隠れた。
やがて、廊下から足音が近づいてくる。
「君野くん!」
「あっ、桜谷さん!」
桜谷が体育倉庫の奥まで入ってきた。
その瞬間――。
「この泥棒猫!」
美咲の叫びが響く。
ガラガラッ。
ぴしゃん。
倉庫の扉が勢いよく閉められた。
続いて、外側から鍵がかかる音がする。
桜谷と君野は、暗い体育倉庫の中へ閉じ込められた。
「あっ、そんな!」
君野は扉へ駆け寄り、何度も叩く。
「誰か! 開けてください!」
けれど、近くに人がいる様子はない。
「駄目だ……」
君野は不安そうに桜谷を振り返った。
「僕たち、どうすれば……」
「何もしなくていいわ」
桜谷は静かに答える。
「ここなら、誰にも邪魔されないもの」
体育倉庫の中には、薄暗く冷たい空気が満ちていた。
カビと湿った木材の臭いが鼻を刺す。
ほんの数分しか経っていないはずなのに、長い時間閉じ込められているように感じられた。
「誰か!」
君野は何度も扉を叩き、助けを求め続ける。
桜谷は、その背中を黙って見つめていた。
しばらくすると、君野は力を失ったように、その場へしゃがみ込む。
「何か……気持ち悪くなってきた」
「君野くん?」
「ここ、息がうまくできない……」
「大丈夫?」
「うん……でも、この空気と臭いが……」
「おいで」
桜谷は君野のそばへしゃがんだ。
「苦しいなら、私だけを見ていて」
あまりにもつらそうな君野の体を横へ寝かせ、頭を自分の太ももの上へ乗せる。
君野の荒い呼吸が、体育倉庫の空気に混じっていく。
このまま2人きりでいられるなら、外へ出られなくても構わない。
桜谷は、そんなことさえ考えていた。
「大丈夫よ」
重いまぶたを閉じた君野の額へ、そっと手を置く。
これは、堀田くんのものではない。
苦しんでいるこの顔も。
震えている体も。
乱れた呼吸も。
全部。
「かわいい……私の王子様。全部、私のもの……」
「美咲!」
1組の廊下。
堀田は、美咲へ詰め寄っていた。
「君野をどこへやった!」
「知りたい?」
美咲は得意そうに腕を組む。
「だったら、私を彼女に戻しなさいよ」
「お前は、俺のどこが好きなんだよ!」
「何がいけないの?」
「は?」
「ブランド品だと思ったって、別にいいじゃない!」
美咲は開き直った。
「私立に通ってる女の子だって、ゆうじゅと一緒にいる私を見れば羨ましがってくれる!」
「私は、それが気持ちいいの!」
「やっぱり、価値観が合わないんだよ!」
堀田は怒鳴る。
「君野を身動きできない状態にしたのか?」
「そこまではしてないわよ」
美咲は不満そうに答えた。
「大丈夫。桜谷さんも一緒に入れたから」
「はあ!?」
堀田の顔色が変わる。
「何でそんなことするんだよ!」
「え?」
美咲は目を瞬かせた。
「何かまずかった?」
「お前……」
堀田は美咲の肩を掴む。
「君野がパニックを起こして倒れて死んでたらどうする!」
「えっ?」
美咲の顔から血の気が引いた。
「死ぬ? 私、死ぬなんて聞いてない!」
「どこに閉じ込めた!」
「だって、体育倉庫に――」
その言葉を聞いた瞬間。
堀田は踵を返し、美咲を置き去りにして走り出した。
「あっ!」
美咲は、廊下の向こうへ消えていく堀田の背中を見送る。
その姿が完全に見えなくなってから、ようやく自分が騙されたことに気づいた。
「え……?」
居場所を聞き出すための罠だった。
「悔しいっ!」
美咲はその場で地団駄を踏んだ。




