第14話「毒キス」
「君野!」
堀田が体育倉庫の鍵を外し、扉を勢いよく開けた。
薄暗い倉庫の奥では、君野が桜谷の太ももを枕にし、苦しそうに息をしていた。
「君野!つらかったな!怖かったよな!」
堀田は君野のそばへ駆け寄った。
その情熱的な救出劇を見て、桜谷は呆れたようにため息をつく。
君野は狭い体育倉庫から助け出されると、すぐに保健室へ連れていかれた。
安全な場所へ移って安心したのか、ベッドへ横になるなり眠り始める。
念のため、1時間ほど経過観察をすることになった。
「悪かった」
保健室を出た途端、堀田は桜谷へ頭を下げた。
「美咲の暴走に、俺は関わってない。でも、俺のせいでお前まで巻き込まれた。そこは謝る」
「あら、そうなの」
桜谷は意外そうに目を瞬かせた。
「てっきり、あなたが仕掛けてきたのかと思ったわ」
「あれは美咲の暴走だ。何度言っても、俺の話を聞いてくれないんだよ」
「そんな厄介な人と、感情に任せて付き合うからよ」
「すごいな、お前」
堀田が顔を上げる。
「何で分かるんだよ」
「あなたは、だいぶ変態だから」
「へ、変態だと?」
堀田の情けない声が、廊下中へ響き渡った。
桜谷は目を細め、ゆっくりと口角を上げる。
「ねえ。どうして君野くんは、あんなに可愛く見えると思う?」
「そりゃあ、無邪気で、天然で、純粋で……」
堀田は指を折りながら答えた。
「サッカー以外はポンコツで、俺がいないと何もできないところだな」
「あなたのことを、人生を救ってくれる神様みたいに信じているところが可愛いんでしょう?」
「いや、そういう意味じゃない!」
堀田は慌てて否定した。
「俺は、あいつの病気を治してやりたいんだ!」
「そうかしら」
桜谷は淡々と続ける。
「本当は、成長しない君野くんが好きなんじゃないの?」
「……」
「いつまでも同じお菓子が好きで、ボール遊びが大好きな、幼いままの彼が」
そう。
あなたの中で、時間が止まった弟と同じように。
桜谷は心の中で呟き、ほくそ笑んだ。
「ち、違う。俺は、ただ……」
「じゃあ、まさか」
桜谷は1歩、堀田へ近づいた。
「下心なんて、ないわよね?」
その言葉が、堀田の胸へ鋭く突き刺さった。
口を開けたまま固まる彼へ、桜谷は容赦なく追い打ちをかける。
「そうよね。だって、仲良しの証として兄弟キーホルダーまでつけているんだもの」
「……」
「それなのに、弟以上の好意があるなら、堀田くんはただの“ど変態”ね」
桜谷は微笑んだ。
「兄弟のふりをして近づくなんて、楽しみ方としても、かなり卑劣だと思うわ」
「……」
堀田は何も言い返せなくなった。
変態。
卑劣。
その2つの言葉が、重く胸へ沈んでいく。
2人が教室へ戻ると、昼休みはほとんど終わりかけていた。
机の上には、手つかずの弁当が残っている。
「あ」
桜谷が自分の弁当箱を見下ろした。
蓋の開いた弁当箱には、大量の消しゴムのカスが詰め込まれている。
あの女だ。
美咲の仕業だと、すぐに分かった。
隣にいた堀田も、その有り様を見て顔を曇らせる。
「……悪い」
また堀田は頭を下げた。
桜谷は表情を変えず、弁当箱の蓋を閉じる。
「次の授業まで、もう5分しかないわよ」
「……」
「ぼんやり立っていないで、早く準備したら?」
桜谷はそれ以上気にした様子もなく、堀田をあしらった。
午後の掃除の時間。
君野は大事を取り、保護者の迎えで早退することになった。
その頃。
中央廊下の掃除を担当していた桜谷は、近くの自動販売機で、500ミリリットルの無糖強炭酸水と、普通の水を1本ずつ購入していた。
「トイレへ行ってくるわ」
同じ掃除区域の女子生徒へ声をかけ、2本のペットボトルを持ってその場を離れる。
廊下の水道で、普通の水を半分ほど捨てた。
空いた分へ、無糖の強炭酸水を注ぎ入れる。
見た目は、ただの水とほとんど変わらない。
けれど、口に含めば普段とは違う刺激が残る。
桜谷は完成したペットボトルを手に、1年1組へ向かった。
美咲の席は、確か廊下側の後方だ。
美咲がいつもこのメーカーの水を好んで飲んでいることも知っていた。
桜谷は誰に隠れる様子もなく、堂々と教室へ入っていく。
「美咲さんと、飲み物を間違えてしまったみたいで」
近くにいた生徒へ、柔らかく声をかけた。
「彼女の席は、どこかしら?」
「ああ。そこだよ」
「ありがとう」
教えられた席へ向かう。
桜谷は飲み物を机の中へ戻すふりをして、美咲の鞄を開いた。
中には、飲みかけのペットボトルが入っている。
自分が持ってきたものと同じメーカーだった。
桜谷は飲みかけのボトルを取り出す。
代わりに、水と強炭酸水を混ぜたペットボトルを、美咲の鞄へ入れた。
次の日。
「堀田くん。君野くんを見ていて」
「え?」
昼休み。
桜谷は、自分の弁当も用意せず、君野の席で平然と食事をしている堀田へ告げた。
「どこへ行くんだ?」
「詮索しないで」
桜谷は立ち上がる。
「あなた、君野くんの公式お兄ちゃんなんでしょう?」
「公式お兄ちゃんって何だよ!」
「何、何?」
君野は嬉しそうに目を輝かせた。
「2人とも、仲良しになったの?」
「なってない!」
「桜谷さんは、どこへ行くの?」
「お花摘み」
桜谷は即答し、そのまま教室を出ていった。
堀田は、何とも言えない顔でその背中を見送る。
今朝、桜谷の上履きはゴミ箱へ捨てられていた。
ジュースかコーヒーのようなものまでかけられており、今は学校のスリッパを履いている。
堀田も、これまで何度も美咲へ注意していた。
しかし美咲は、復縁するまで嫌がらせをやめないと宣言している。
「はあ……」
堀田は深くため息をついた。
「俺の立場もないな」
もはや、何も言い返せなかった。
「桜谷さん、1人で大丈夫かな」
君野が心配そうに教室の扉を見る。
「一緒に行ったほうがいい?」
「ついていったら怒られるぞ」
俺が。
堀田は大きな唐揚げを口へ放り込み、余計な言葉ごと飲み込んだ。
「あっ。あの女……!」
美咲は、廊下の先を歩く桜谷を見つけた。
桜谷はそのまま、1年生の廊下にある女子トイレへ入っていく。
それを見た美咲の頭に、すぐさま悪巧みが浮かんだ。
近くに置かれていた防災用のバケツを手に取る。
中には水が入っていた。
美咲はバケツを抱えたまま、足音を忍ばせて女子トイレへ近づいた。
中は、しんと静まり返っている。
桜谷の姿は見当たらない。
けれど、1番奥にある扉だけが閉まっていた。
「そこね!」
美咲はバケツを持ち上げ、その扉の上から水を浴びせた。
水が膜のように広がり、扉の向こうへ降り注ぐ。
直後、下の隙間から大量の水が濁流のように流れ出した。
「ねえ! 何とか言いなさいよ!」
美咲は勝ち誇ったように叫ぶ。
「泥棒猫!」
しかし、中から返事はない。
「美咲さん」
「わっ!?」
背後から名前を呼ばれ、美咲は勢いよく振り返った。
「きゃあ!」
その顔面へ、ペットボトルから噴き出した水が勢いよく浴びせられる。
「きゃああ! メイクが崩れるじゃない!」
美咲が喚く。
桜谷は間髪入れず、平手でその肩を押し、掃除用具入れと壁の隙間へ追い込んだ。
「馬鹿ね」
桜谷は鼻で笑う。
「そこは個室じゃなくて、掃除用具入れよ」
「ちょっと! 何するのよ!」
美咲は桜谷の手から逃れようともがいた。
桜谷は、美咲の足の間へ片足を差し込み、全体重をかけて壁へ押しつける。
重心を崩された美咲は、うまく力を入れられない。
顔と顔が触れそうな距離。
殺意の塊のような桜谷の目が、美咲を捉えていた。
「離しなさいよ! 地味眼鏡ゴリラ女!」
美咲が叫ぶ。
「ちびのくせに、何でこんなに力が強いのよ!」
「美咲さん」
桜谷は、美咲の胸元へ目を落とした。
「このリップクリーム、よく使っているわね」
セーラー服の胸ポケットから、リップスティックを取り出す。
「返して!」
「最近、これを塗ったあと、唇が痺れたり、ひりひりしたりしなかった?」
桜谷は淡々と続ける。
「水の味も、いつもと違ったでしょう?」
「嘘……!」
美咲の顔色が変わった。
「このリップクリームに、何かしたの?」
「……」
「昨日、すごくひりひりしたの! あんたがやったの?」
桜谷は首を傾げ、意味深に微笑んだ。
「まさか」
美咲の声が震える。
「毒でも仕込んだの?」
「ふふ」
ただ、にたりと笑いながら、美咲のリップクリームを自分の唇へ塗った。
そして、見せつけるように唇を軽く鳴らす。
「……やめておいたほうがいいわ」
「何が!」
「誰もが大人しく、あなたに従ってくれると思わないこと」
桜谷は、さらに顔を近づける。
「世の中は、そんなに優しい人ばかりではないもの」
「毒なの?」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「ねえ、毒なの? 私の唇、どうなっちゃうのよ!」
美咲は半ばパニックになって喚き散らす。
桜谷の視線は、どこまでも冷ややかだった。
次の瞬間。
桜谷は、美咲の唇へキスをした。
「んっ!?」
美咲が手足をばたつかせる。
数秒後、桜谷はゆっくりと唇を離した。
「誰も、あなたを好きではないわ」
桜谷は美咲の目をまっすぐ見つめる。
「毒が回るほど、これ以上キスされたくはないでしょう?」
「ひっ……!」
美咲は身の危険を感じたのか、桜谷の拘束が緩んだ隙に、その場から逃げ出した。
廊下へ飛び出し、一度も振り返ることなく走り去っていく。
1人になった桜谷は、つけ慣れないリップの感触を確かめるように唇をなぞった。
「君野くん以外にも、呪いのキスは効くのかしら」
もし効くのなら、明日には美咲の記憶から私の存在も消えているのかもしれない。
――心底、どうでもいい。




