第7話「君を守る」
翌日の火曜日。
1年2組の教室は、昼休みを迎えていた。
堀田は藤井とその友人の鈴木、そして紅一点の美咲と、いつものように4人で机をくっつけて弁当を食べていた。
ひとしきり賑やかな雑談が続いたあと、藤井がふと後ろの席へ目を向けた。
「……君野、今日も昼飯を食べてないな。いじめてる奴らに、金も弁当の中身も取られてるみたいだ」
窓際の席では、弁当を持たない君野が1人で机に伏せていた。
「ちょっと。あんなの、どうでもいいじゃない」
美咲が不満そうに唇を尖らせる。
見た目や立場を重視する彼女は、自分にとって価値のない人間が話題に上がることを嫌った。
「彼女である私の話をもっと掘り下げてよね。私たち、付き合ってるんでしょ?」
美咲の言葉に、藤井は黙り込んだ。
その微妙な空気に気づかず、鈴木が笑いながら話を続ける。
「そういえばさ。君野って今年の4月に事故したじゃん。サッカーできなくなってさ。あれ、彼女の家で興奮して2階から落ちたらしいぜ。相手、やっぱ桜谷さんだったって!」
「ええ? 何それ、怖い」
美咲は途端に水を得た魚のように食いついた。
怪談でも聞いたかのように、大げさに自分の二の腕をさする。
「本当にそうなのか?」
堀田が口を挟むと、3人の視線が一斉に集まった。
「君野、そんな奴には見えないけどな」
「……いや、別に俺も真相を知ってるわけじゃないけどさ。あれだけサッカーにストイックだった奴が、急にそんなことするのかって思って」
「でも、芸能人だって、表ではいい人そうなのにすごいスキャンダルを起こしたりするでしょ。そういうタイプなんじゃない?」
美咲はそう言って、フォークに刺したミートボールを口へ運んだ。
「……」
桜谷が戻ってくれば、きっと状況は変わる。
そう思って何もしない自分が、一番気に食わなかった。
「君野は?」
帰りの会の時間になっても、掃除のあとから君野は教室へ戻ってこなかった。
担任が教室を見回しながら尋ねる。
誰も答えない。
「……静かに待っていなさい」
君野が戻るまで、帰りの会は始まらなかった。
担任が君野を捜しに教室を出ると、すぐに教室がざわつき始める。
堀田がその様子を眺めていると、いじめグループの男子たちが前方の席で顔を見合わせて笑っていた。
教室のあちこちから聞こえてくるのは、君野への悪口だった。
冗談でも口にしてはいけないような言葉が、四方八方から飛び交っている。
堀田は静かに拳を握った。
こんなこと、自分が動けば終わらせられるはずだ。
それなのに、何もできない。
結局、自分も見て見ぬふりをしているクラスメイトと同じだった。
その事実が、胸の奥を重く締めつけた。
15分後。
担任の後ろについて教室へ戻ってきた君野は、肩を震わせながら大泣きしていた。
戻ってきたらどんな悪口を浴びせようかと待ち構えていた生徒たちさえ、その姿を見て黙り込んでいる。
あまりにも痛々しかった。
堀田は太い眉をきつく寄せ、唇を噛み締める。
帰りの会が終わると、部活動へ向かう生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室を出ていった。
「ゆうじゅ――あれ?」
両手を上げ、上機嫌で教室へ入ってきた美咲だったが、堀田の席はすでにもぬけの殻だった。
「嘘! 何でいないの? 私、彼女でしょ! 何でよ!」
美咲は頬を膨らませ、急いで下駄箱へ向かった。
その頃、堀田は通学路にある公園で、君野と並んでベンチに座っていた。
「また、いじめられたのか? 金を取られたのか?」
堀田が優しく尋ねても、君野はなかなか答えようとしない。
ただ俯き、黄色いリュックを胸へ抱きしめている。
そのリュックは、またひどく汚れ、傷ついていた。
「ごめんね……」
「え?」
「……堀田くんと一緒に買ったキーホルダー、取られちゃった」
君野はしゃくり上げながら、途切れ途切れに言った。
「明日、お金を持ってこないと返さないって言われて……」
「あんなキーホルダーなんか、殴られてまで取り返すものじゃないだろ!」
思わず声を荒らげる。
けれど、君野は首を横へ振った。
「堀田くんといたの、楽しかったんだ……。だから、あれがあれば……学校も辛くないって……」
嗚咽混じりに話す君野を見て、堀田の目にも涙が浮かんだ。
「取られちゃって……ごめん、ね……」
その瞬間、堀田は君野を強く抱きしめた。
もう二度と、離すつもりはなかった。
君野の目から、再び大粒の涙があふれ出す。
俺は、一体何をしていたんだ。
大事なものを失ったのに。
また同じことを繰り返そうとしていた。
「お前は、本当に強いよ」
堀田は君野の後頭部を優しく撫でた。
「よく頑張ったな……。悪かった。俺も、クラスの奴らと同じだった」
「……」
「お前の気持ちを一番踏みにじってたのは、俺だった。本当にごめんな」
君野の髪を撫でながら、堀田は続ける。
「俺も、お前みたいに強くなる」
「……」
「ありがとな。俺に気を遣って、ずっと話しかけずにいたんだろ」
「……うん」
「もう泣くな」
堀田は自分の涙を腕で乱暴に拭った。
「次にお前を泣かせる奴がいたら、俺は絶対に許さない」
胸の奥から湧き上がる怒りを、拳の中へ強く握り込んだ。
翌日の水曜日。
「あのさ、俺、美咲と別れる」
「え?」
教室で顔を合わせるなり、堀田は藤井にそう告げた。
「美咲と付き合ったのは、彼女が好きだったからじゃないんだ」
堀田は俯く。
「弟が死んで、心がどうにかなりそうだった。その時に、たまたま美咲から告白されて……それで受け入れただけなんだ」
しばらく床を見つめたあと、申し訳なさそうに藤井を見た。
けれど、その表情には以前にはなかった生気が宿っていた。
「お前の気持ちを知ってからも、ずっと別れを切り出せなかった。美咲の気持ちも、お前の気持ちも蔑ろにしてた」
「……」
「今ここで、お前に絶縁されても仕方ないと思ってる」
藤井は黙って堀田の言葉を聞いていた。
「君野は、俺の中の穴を埋めてくれる唯一の存在なんだ」
堀田は胸元を押さえる。
「君野と出会って、ようやく止まってた心が動いたんだ」
「……そうか」
藤井は静かに息を吐いた。
「何となく、薄々分かってたよ」
「藤井……」
「でも、美咲の気持ちを弄んだのは事実だ。そこは、ちゃんと本人に謝れよ」
「ああ」
藤井はそう戒めたあと、すぐに笑った。
二人は互いに抱えていたわだかまりが雪解けしたように笑い合い、しっかりと握手を交わした。
問題は――。
「ちょっと! 何で君野くんがここにいるのよ!」
その日の昼休み。
美咲が1年2組へ来た途端、甲高い声が教室中に響き渡った。
いつも4人で囲んでいた机には、君野を加えた5人が座っている。
あまりにも予想どおりの反応に、堀田は早くも頭を抱えたくなった。
「ゆうじゅ! いい加減にしてよ! 何でそんなにこの子に構うの?」
美咲は君野を指さした。
「君野くんは、このグループにふさわしくない!」
「美咲。俺な、お前とは別れ――」
「僕、やっぱりいい」
「君野?」
いたたまれなくなった君野は弁当箱を持ち、椅子から立ち上がった。
そのまま教室を飛び出していく。
「君野!」
堀田は反射的にあとを追おうとした。
「ゆうじゅ、行かないでよ! これでいいのよ!」
美咲が堀田の腕を掴む。
「……別れる」
「何?」
「お前とは別れる!」
堀田は美咲の手を強く振りほどき、そのまま廊下へ飛び出した。
教室中の生徒たちは、目の前で繰り広げられた騒がしい恋人同士の修羅場を呆然と眺めている。
美咲もまた、口を開けたまま動けなかった。
やがて、その場へ静かにへたり込む。
「何で……? 何でなの?」
美咲の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
藤井はハンカチを取り出し、何も言わずにそのそばへ寄り添った。
「君野!」
堀田は校舎の中を走り回った。
図書室。
トイレ。
保健室。
反対側の校舎。
思いつく場所を片っ端から全速力で捜していく。
どこだ。
どこに行った。
「あっ!」
廊下の窓から裏庭を見下ろした時、堀田はようやく君野の姿を見つけた。
裏門のそばで、君野がクラスの男子生徒たちに囲まれている。
まるで、君野が1人になる瞬間をずっと狙っていたかのようだった。
「俺はもう、見捨てたりしない」
弟よ。
見ていてくれ。
今度は、最高のヒーローになる!
堀田は裏庭へ向かって駆け出した。
君野を囲む輪の中へ飛び込む。
地面には、ひっくり返された弁当の中身が散らばっていた。
そのそばで、君野が突き飛ばされ、倒れている。
「よくも、俺の君野を……!」
堀田はリーダー格の山田を睨みつけた。
「もう二度と、こいつには触らせねえ!」
堀田は拳を握り締め、山田へ向かって突っ込んでいった。
その後。
山田たち男子生徒は、君野と同じように頬を腫らし、地面へ並んで土下座していた。
「次にこいつへ手を出したら、ただじゃおかないからな」
堀田は腕を組み、男子生徒たちを見下ろす。
「明日、今まで取った金を耳を揃えて返せ」
「……はい」
山田たちは顔を引きつらせながら立ち上がり、逃げるようにその場を去っていった。
「……ありがとう」
君野は涙を浮かべながら言った。
堀田は君野へ握り拳を差し出した。
拳と拳を軽くぶつける、ラッパーのような挨拶をするつもりだった。
けれど君野は少し考えたあと、両手を握り、顔の横へ持っていった。
「にゃん?」
「お前は猫なのか?」
堀田は思わず吹き出した。
そのまま握っていた拳を開く。
手のひらには、山田たちから取り返した「弟」のキーホルダーが載っていた。
それを見た瞬間、君野の顔がぱっと明るくなる。
祈るように両手で挟み、愛おしそうに胸元へ抱き寄せた。
「あ」
堀田は、自分のポケットへ入れたままだった「兄」のキーホルダーを思い出した。
買った時の包装へ入れたまま、一度も開けていなかった。
包装を破り、中身を取り出す。
「これ、俺とお前が兄弟だっていう証な」
堀田は「兄」のキーホルダーを掲げてみせた。
「お前が困った時は、いつでも俺を頼っていい。……超お得だろ?」
「うん!」
君野は満面の笑みで答えた。
「僕、お兄ちゃん大好き!」
――ぐはっ。
またしても、心臓を撃ち抜かれた。
その動揺を隠すように、堀田は君野の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
けれど、この時の堀田はまだ知らなかった。
ようやく結ばれた兄弟の関係が、これから別の誰かによって、さらに歪められていくことを。




