第6話「天使に骨抜き」
その日の放課後。
午後4時。
夏の太陽はまだ高く、アスファルトにこもった熱気が靴底からじわじわと伝わってくる。
歩いているだけで汗ばむ中、君野と堀田は並んで歩いていた。
「お前、今日、昼飯食べたか? 昼休み、席にいなかったよな」
堀田が隣を見る。
浮かない顔で歩いていた君野は、声をかけられた途端、ぱっと表情を明るくした。
人懐っこい笑顔だった。
「えっと……お腹が痛くて、トイレにいたんだよ」
「そうか。だから今、腹の音がしたんだな」
「聞こえちゃった?恥ずかしい」
君野が照れたように前かがみになる。
その背中で揺れた黄色いリュックが、堀田の目に入った。
乱暴に扱われたのだろう。
以前よりも明らかにボロボロになっている。
いじめが続いていることは、一目で分かった。
守るべきなのか。
それとも、関わらないほうがいいのか。
答えは、とっくに出ている。
それでも、踏み出せない。
堀田の脳裏に、美咲と付き合うことになった日の出来事がよみがえった。
「なあ、堀田。美咲に告られたんだって?付き合うことになったんだよな。おめでとう」
1か月ほど前。
誰もいない1年2組の教室で、藤井がそう言った。
「大事にしてくれよ。美咲は俺の幼馴染だからさ」
その言葉の裏には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。
眉を下げた、どこか吹っ切れたような顔。
知らなかった。
藤井が美咲をずっと好きだったことを。
そして、堀田が美咲の告白を受け入れた理由が、死んだ弟の穴を埋めるためだったことなど、今さら言えるはずもなかった。
もし君野を守れば、今の均衡が崩れる。
美咲は、自分が認めた人間以外を露骨に嫌う。
藤井と美咲との微妙な関係の中で、君野の存在はあまりにも厄介だった。
それを理由に、いじめを見過ごしている自分は最低だ。
――分かっている。
「なあ。飯、奢るからどっか行かないか」
気づけば、堀田は君野の腕を掴んでいた。
「え……?」
「腹、減ってるんだろ」
「でも、前にラーメンも奢ってもらったし……これ以上は申し訳ないよ」
「じゃあ、家族なら遠慮するな」
堀田は少し考え、それから勢いに任せて言った。
「俺たち、今から兄弟だ。――お前は俺の弟でいい」
……何を言っているんだ、俺は。
「どういうこと?」
「兄弟なら、奢っても不思議じゃないだろ。それにさ、4月の最初の頃、男子数人で駅ナカのアイス屋に行ったの、覚えてるか?」
「ごめん……事故より前のこと、何も覚えてない」
「あの店で、スマホの占いをしたんだよ。誰と一番相性がいいかって。そしたら、お前と俺が100パーセントだった。前世が兄弟だって出たんだ」
「本当? 嬉しい!」
君野の目がきらきらと輝く。
まるで、ずっと欲しかったものを手に入れたような笑顔だった。
「だから気にすんな。俺が兄で、お前が弟。せっかくだし、アイスも食いに行こう」
君野は真っ直ぐに堀田を見上げると、満面の笑みで言った。
「お兄ちゃん、大好き!」
心臓に直撃した。
「……お前なぁ……」
堀田は顔を手で覆った。
その手の下で、どうしても口元が緩んでしまう。
我ながら気持ち悪い。
けれど、可愛すぎて、今の一言を脳内で何度も再生してしまう。
「ふふっ。お兄ちゃん!」
――こいつ、危険すぎるだろ。
分かってやっているのか。
その頭を、今すぐわしゃわしゃと撫で回したい。
「……行くぞ」
堀田は早足で歩き出した。
速くなった心臓の音を誤魔化すためだった。
君野はそんな堀田の後ろを、あどけない顔で笑いながらついていく。
2人は駅直結の商業施設へ向かった。
エスカレーターで4階のフードコートへ上がる。
君野があまりにも腹を空かせていたので、まずはたこ焼きを食べさせることにした。
君野は熱さなど気にする様子もなく、口いっぱいに頬張っていく。
あまりにもわんぱくな食べ方に、堀田は思わず笑ってしまった。
「口にソースついてるぞ」
指で君野の口元を拭う。
堀田が食べたのは、たこ焼き1個と、君野の口元についていたわずかなソースだけだった。
友も、よく口にケチャップをつけていた。
ふいに蘇った弟の姿に、堀田の胸が微かに痛んだ。
「ここだ」
堀田が指さしたのは、カラフルなマーブル模様のアイスが並ぶ海外チェーン店だった。
鮮やかな色彩の外観が特徴で、その店を見るだけで楽しい気分になる。
「前も、ここで食べたんだ」
「いいの?たこ焼きも、ほとんど僕が食べたのに……」
「いい。今は俺の弟でいろ」
堀田は、半分冗談のつもりで続けた。
「――ほかの誰にもなるな」
「うん!」
君野は何の迷いもなく頷いた。
「ほら、トリプルが割引だ。……すみません。シフォンチョコとポップキャンディ、抹茶クランベリーを1つずつください」
堀田は慣れた様子で店員に注文を告げる。
「ほら、お前も。もちろんトリプルだよな」
君野が、本当にいいの? と顔で尋ねてくる。
堀田が頷くと、君野はまた天使のような笑顔を浮かべ、若い女性店員の前へ立った。
「僕、バニラ3つで!」
一瞬、その場の空気が止まる。
「か、かしこまりました!バニラ3つですね!」
店員は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに笑顔へ戻った。
堀田は笑いを堪えながら会計を済ませ、色とりどりのコーンに載ったアイスを受け取る。
奥の席へ着くなり、とうとう耐えきれなくなった。
「くっ……あははは!それ、ウケ狙いか?」
「え?変かな……。僕、バニラが好きなだけなんだけど」
本気できょとんとしているから、余計に面白い。
「いや、芯が通ってていいと思うぞ。お前はブレない男なんだな」
そう言った直後、堀田の中に疑問が浮かんだ。
「でも、お前、始業式の日は普通にカラフルなフレーバーを頼んでたぞ」
「それも覚えてないなあ」
君野は首を傾げ、真っ白なアイスをひと口食べた。
それから少し考え、ぽつりと言う。
「僕のことだから、みんなに合わせたのかも。ここでバニラを3つ頼んだら、変だと思われるって考えたのかな」
「自覚はあるんだな。じゃあ、俺には変だと思われてもいいのかよ」
「えへへ。堀田くんはお兄ちゃんだから、甘えてみようと思ったんだよ!」
「だっ……!」
またしても、その笑顔に心臓を撃ち抜かれた。
「……そ、そういやさ」
これ以上見ていたら、本当に骨抜きにされそうで、堀田は無理やり話題を変えた。
「お前、先週の金曜、桜谷に殴られてたよな。喧嘩したのか?」
「誰?」
堀田の動きが止まった。
何だ。
こいつ、こういう冗談も言うのか。
「誰って……お前の彼女だろ?あれだけいつもくっついてたんだ。さすがに事故の影響で全部忘れたなんてことはないだろ」
「えっ?僕、彼女いたの?」
「本気で言ってるのか?」
君野の顔には、冗談を言っている様子など一切なかった。
「幼児退行って、そういう症状もあるんだな……」
病気について詳しいわけではない。
けれど、そう思わなければ納得できず、堀田は小さく頷いた。
「女の子なの?どんな子?」
「どんな子って……そういや、みんな桜谷のことはよく知らないんだよな」
堀田は記憶を辿る。
「見た目は、眼鏡に三つ編みで、普通の女子だ」
「すごくミステリアスな子なの?」
「うーん。話しかければ笑うし、別に暗いわけでもない。お前らがいつもいちゃついてるのを気に食わないって男子もいるみたいだ。それも、お前に辛く当たる奴がいる理由の1つかもしれないな」
「そうなんだ」
君野は納得したように頷いた。
「僕、ずっと1人ぼっちだと思ってたのに、あまり寂しくなかったんだ。そういうことだったんだね」
何を言っているんだ、こいつは。
堀田は目を細めた。
1人ぼっちだった。
なのに、寂しくなかった。
その言葉について深く考えると、暗い海の底まで引きずり込まれて二度と戻ってこられないような気がした。
「ねえ、堀田くん! これ見て!」
「ん? 何だ、こりゃ」
アイスを食べ終えたあと、君野は近くの雑貨屋へ駆けていった。
キーホルダーが並ぶ棚から2つの商品を手に取り、堀田の前へ掲げる。
銀色の丸い輪に短いチェーンが繋がり、その先には丸いプラスチックの飾りが付いていた。
片方には「兄」。
もう片方には「弟」。
太い明朝体で、それだけが書かれている。
どう見ても安っぽいキーホルダーだった。
1つ300円。
2つ合わせて600円。
君野は右手に「兄」、左手に「弟」を持ち、無邪気に笑った。
「僕たちだね!僕、これ買う!堀田くんも『兄』を買うでしょ?」
「金、あるのか?」
「明日、貯金箱から10円玉を30枚持ってくるよ!」
「いや、そんなに持ってこられても重いだろ」
「え?じゃあ、1日10円ずつ返すよ」
「これ、そんなに欲しいのか?」
堀田なら、絶対に買わない。
少し落としただけで、ぱきりと割れてしまいそうな代物だ。
「うん!」
君野は歯を見せ、にひひと笑った。
「今日の思い出、これで忘れないから!」
2つのキーホルダーを、自分の頬のそばへ寄せる。
その笑顔を見た瞬間、堀田には安物のプラスチックが、どんなダイヤモンドよりも輝いて見えた。
「じゃあ、少しずつ10円で返せよ」
笑いながら、堀田は「兄」のキーホルダーを受け取る。
2人は乾杯するようにキーホルダーを掲げ、顔を見合わせて笑った。
君野の手の中で、「兄」と「弟」の安っぽいプラスチックが、夏の光をきらきらと反射していた。




