第5話「ひとりぼっちの君野くん」
その2日後、月曜日の朝。
「桜谷さん、体調崩してしばらく学校に来られないって」
「あー用事で海外に行ってたってね。グループ活動どうしよう……」
1年2組の教室で、堀田の後ろから女子の声が聞こえた。
堀田は教室中央の席に座り、机に肘をついている。
「いつも2人で一緒だったもんね。君野くん、今頃寂しいよね」
女子2人の会話は続く。
堀田が窓際へ目を向けると、桜谷の席はがらんとしていた。
その隣では、君野が1人で本を読んでいる。
いや、読んでいるというより、ただそこに座っているだけだった。
桜谷と君野は、いつも2人きりだった。
ほかの誰かが入り込む隙もなく、2人だけの秘密の花園を作っていた。
それなのに、今の君野へ話しかけようとは思えない。
塾でだけ仲のいい友達のような、曖昧な線を引いている自分がいた。
それでも、自然と君野を目で追ってしまう。
数日前の出来事が、頭から離れないせいだ。
「よ。おはよう」
「おう」
後ろの席から、バレー部の藤井が白い歯を見せて笑った。
小麦色の肌をした、気のいい男だ。
堀田はこれまで、藤井の助言に何度も助けられてきた。
「なあ、いい感じか?」
藤井が笑顔で尋ねる。
こう聞かれた時は、堀田の彼女である波田美咲についてだ。
「あ、ああ……。まだ付き合ったばかりだからな」
「大事にしてくれよ。俺の幼馴染だからさ」
藤井は堀田の肩を叩いた。
だが、堀田はわずかに目を泳がせる。
「藤井、あのな……。俺、実は考え直そうと思って――」
「ゆうじゅ~~~~~!!!!」
言い終わる前に、派手な巻き髪の少女が教室へ飛び込んできた。
波田美咲だ。
彼女は隣の1年1組で、学年1の美人と評判だった。
整った顔立ちに、目を引くスタイル。
堀田へ絡む美咲を、周囲の男子たちが羨望の眼差しで見つめている。
「なんだよ、ゆうじゅって」
「私の自慢のカレピなのに、その態度はないでしょ! 友樹だから、ゆうじゅ! 可愛いでしょ?」
美咲はそう言いながら、座っている堀田へ抱きついた。
藤井は終始笑顔で見守っていたが、堀田はどこか複雑そうな顔をしている。
「どうしたの?元気ないわね。私が来て嬉しいでしょ?」
「ああ。嬉しい」
「なんでそんなに淡白なの!?ねえねえ、今日一緒に駅前の喫茶店へ行こうよ!SNSで人気のパンケーキ、食べに行こ!」
「ああ……」
堀田は生返事をした。
しかし、マイペースな美咲は気にも留めない。
机に両肘をついて顔を乗せ、恍惚とした表情で堀田を眺めている。
「うふふ。みんな羨ましがってるの。まさか私が、ゆうじゅと付き合えるとは思ってなかったみたい」
美咲は満足そうに笑う。
「みんなの悔しそうな顔を見ると、本当に付き合ってよかったって思うの!」
その時だった。
ガシャン!
教室の後ろで、何かが盛大に床へ落ちる音が響いた。
堀田も美咲も振り返る。
君野が派手に転んでいた。
一瞬だけ、教室の空気が止まる。
だが、誰も動かなかった。
君野は何事もなかったように立ち上がり、席へ戻っていく。
その背中を見て、堀田の喉が小さく鳴った。
「ねえ、見た? 山田くん、さっき君野くんに足をかけてたよね」
「うん……君野くんに絡んでない?」
女子たちの会話を聞き、堀田は再び君野へ目を向けた。
「もしかして、君野くんが気になるの?」
美咲が露骨に怪訝そうな顔で尋ねる。
堀田は、ようやく正面へ向き直った。
「そうよね。あんなぼっちくんを、イケメンで文武両道のゆうじゅが相手にするわけないもんね!」
「……ああ。そうだな」
堀田の喉が、また息苦しそうに鳴った。
昼休み。
君野は人気のない階段の踊り場で、同じクラスの男子数人に囲まれていた。
「金、出せよ」
「……今日、お昼を買うつもりで……」
無理やり財布を開かれ、中の硬貨を指でかき出される。
「明日はもっと持ってこいよ」
「そんなお金ないよ! 僕、お小遣い少ないし……」
「親の財布から抜き取れよ」
「働いてもらったお金を盗るなんて……」
「うるせえ!!」
山田が君野の腕を掴んだ。
さらに髪を鷲掴みにし、そのまま力任せに壁へ押しつける。
背中へ鈍い痛みが走った。
「上納金を持ってくるって言え」
「……嫌だ。できないよ……!」
「言え!! 持ってこなきゃ、明日どうなるか分かってるよな?」
その剣幕に耐え切れず、君野は震えながら口を開いた。
「……持ってくる。明日、持ってくるから……」
「最初からそう言えよ」
山田たちは笑いながら立ち去っていった。
「……うぅぅ……っ」
静まり返った踊り場で、君野は力なく崩れ落ちる。
空になった財布を拾い上げると、涙が止まらなかった。
「ごめんね、お母さん……お父さん……。お金、盗られちゃった……」
こんな姿を見たら、きっと悲しむ。
「僕、こんなに1人ぼっちだったのに……今まで、どうやって学校へ来てたんだろう……」
何も思い出せない。
こんなにつらい学校生活だったなんて、少しも知らなかった。
今日だって、お母さんは笑顔で送り出してくれたのに。
君野は涙を拭い、無理やり立ち上がる。
昼休みも、もう残りわずかだった。
教室へ戻ると、クラスメイトたちは昼食を終え、楽しそうに談笑していた。
君野の視線は、自然と教室の中央へ向く。
そこには友人たちと話す堀田の姿があった。
堀田の家へ上がり込んだこと。
弟の話を聞いたこと。
一緒にラーメンを食べたこと。
全部、奇跡だった。
きっと、自分なんかに話しかけられたら迷惑に違いない。
机の荷物掛けには、白いナイロン袋が下がっている。
中には、堀田から借りた服と、ささやかな謝罪の品が入っていた。
特に、堀田の彼女である波田は、近づく相手を露骨に選んでいる。
自分が、彼女のお眼鏡にかなうはずもない。
「……でも、駄目だ」
借りた物は返さなければならない。
今日を逃したら、もう渡す機会がなくなるかもしれない。
君野は堀田へ話しかけるタイミングをうかがい続けた。
放課後
「あ、堀田くん……」
帰りの会が終わると、堀田は白いエナメルバッグを持って1人で教室を出ていった。
君野も慌ててリュックを背負い、その後を追いかける。
「ほ、堀田くん! 待って……!」
1年生で混み合う廊下を歩く堀田の背中へ手を伸ばした、その時だった。
「うわっ!?」
突然、リュックを後ろから引っ張られる。
「君野! お前、こっち来いよ。肩パン対決しようぜ」
山田たちが背後に立っていた。
君野は小さく悲鳴を上げ、足を止める。
「ごめん……今、用事があって……」
「ああ? お前、舐めてんのかよ。弱虫のくせに」
「僕、舐めてもおいしくないよ……! 本当にごめん!」
「逃げんなよ!!」
馬鹿にした笑い声が響く。
君野は人混みをかき分け、必死に走った。
前を歩く堀田の背中が見える。
お願い。
助けて。
声にならない叫びを胸の中で繰り返す。
昨日の楽しかった時間が、走馬灯のようによみがえった。
君野は必死に右腕を伸ばす。
届いて……!
「あっ!!」
だが、山田にリュックを掴まれ、後ろへ強く引かれた。
君野は派手に転び、床へ尻餅をつく。
堀田は気づかないまま、人混みの向こうへ歩いていく。
君野の前には、腹の出た山田が仁王立ちになり、意地の悪い笑みを浮かべていた。
絶望で涙がこぼれる。
その時だった。
あの時、写真の中で笑っていた、小さな男の子。
優しく髪を拭いてくれた堀田の手。
ようやく、自分が何と叫べばいいのか分かった。
「助けて!! お兄ちゃん!!!!!!」
叫び声が廊下中へ響き渡る。
山田達が一瞬動きを止めた。
廊下は一瞬で静まり返る。
「何言ってんだよ、お前! 気持ち悪いんだよ!」
山田が君野へ向かって足を振り上げた、その時だった。
「君野!!」
人混みをかき分け、堀田が一直線に駆け戻ってきた。
「……ちっ」
山田は舌打ちすると、仲間へ目配せをし、足早にいなくなった。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
君野の目から涙が次々とこぼれ落ちた。
堀田は震える手を掴み、ゆっくり立ち上がらせる。
気づけば、廊下はいつもの騒がしさを取り戻していた。
君野はもじもじしながら、持っていたナイロン袋を差し出す。
「堀田くん、あの……これ、返したくて……」
「あ、ああ! 俺の服!」
「ちゃんと洗濯したんだ……。ごめんね。本当に迷惑をかけちゃって……」
「いや、迷惑だなんて思ってない。それより、お前、あの日のことをどこまで覚えてるんだ?」
「えっと……弟くんが亡くなった話とか、一緒にラーメンを食べたことは覚えてるよ」
「そうか……」
堀田は小さく頷いた。
ふと君野の背後へ目をやると、離れた場所からこちらを窺う山田たちと目が合う。
堀田は静かに睨み返した。
山田たちはすぐに目を逸らす。
堀田は何も言わず、君野の肩へ腕を回した。
「このまま、一緒に帰ろうぜ」
「え? いいの? 彼女さんと帰らなくていいの?」
「ああ。あいつは今日、女友達とカラオケだ」
「そっか……。本当にいいの?」
「いいに決まってんだろ」
堀田は照れくさそうにはにかんだ。
その笑顔があまりにも嬉しくて、君野の目からまた涙があふれる。
ありがとう、神様……!
朝、落ちていた財布を交番へ届けたからかな。
すごく、すごく嬉しいです……!
この機会を絶対に逃してはいけない。
君野は胸の中で強く思った。




