第4話「ある雨の日の天使」
次の日の土曜日。
梅雨も終盤に差しかかり、街には朝から雨が降り続いていた。
湿気を含んだ空気が、肌にまとわりつく。
中学1年生の堀田友樹は、自分の住む7階建てのマンションを出ると、駅へ向かって歩き出した。
白い半袖シャツに黒いパンツ。
太い眉と濃い顔立ちのせいで、ラフな格好でも妙に目立つ。
真っ黒な大きな傘を差し、キャリアウーマンの母に頼まれた冬物のコートを
駅前のクリーニング店へ取りに行かなければならない。
「最悪の雨だな……」
こんな日に外へ出る気なんて起きない。
「帰りに何か食っていくかな……」
駅前を通り過ぎようとした時だった。
びしょ濡れになり、腕をさすりながら歩いてくる同年代の少年が目に入る。
傘も差さず、ふらふらとこちらへ近づいてくる。
「あれ……? どっかで見たことあるな」
まじまじと顔を見る。
同じクラスの生徒だった。
……君野吉郎。
確か、そんな名前だ。
ゾンビのように前かがみになり、ゆらゆらと歩いてくる。
唖然として立ち尽くしていると、冷え切った体が堀田へ寄りかかり、そのまま胴へ腕を回した。
「おい! 離せ! 冷たッ!!!」
濡れた両腕が白いシャツ越しに絡みつき、肌まで冷やしてくる。
「さむ~い……」
「うわあ!嘘だろ、おい……」
最悪だ。
シャツはぐっしょり。
ズボンまで失禁したようにびちゃびちゃになっている。
イライラが湯沸かし器のように一気に沸騰した。
「お前、どういうつもりだよ! 俺に何か恨みでもあんのか!?」
威圧するようにまくしたてる。
だが相手は、うんともすんとも言わない。
君野はそのまま額を堀田の胸へ押しつけ、急に力を抜いた。
「おい。もしもし?は?寝た?」
君野は抱きついたまま離れない。
……どういう状況だよ、これ。
もうこうなったら、家へ引き返すしかない。
……いや。
冷静に考えると、可哀想なやつなのかもしれない。
そう思った瞬間、堀田の口調は途端に柔らかくなった。
「なあ、それよりお前、どうした? 家に入れてもらえてないのか?」
「えへへ。ママは優しいよ。僕、ぎゅーって抱きつくの大好きなの」
無邪気に上目遣いで甘えてくる。
身長差のせいで、潤んだ大きな瞳が下からこちらを見上げていた。
堀田は不覚にもドキッとしてしまう。
「……とりあえず俺の家に来い。この格好じゃ、どこにも行けやしない」
びしょ濡れの君野の手を引き、来た道を戻る。
「あれ?」
君野って、こんなやつだったか?
2か月前の入学式のあと、男子数人でアイスを食べに行った。
その中に君野もいた。
本当に、それだけの関係だ。
当時はサッカーがうまく、なかなかストイックなやつだった。
そう記憶している。
「うわ、ザーザー降りだ……」
街灯の明かりも霞むほど、雨は強くなるばかりだった。
我ながら、お人好しすぎる。
マンションへ着くと、堀田は君野をすぐ風呂場へ連れて行った。
着替えを貸し、シャワーの使い方だけ簡単に教える。
堀田の部屋は、本人の性格そのままに整っていた。
机の文房具も、本棚の本も、すべて向きまで揃っている。
「はあ……災難な日だな」
意を決して雨の中、コートを取りに行くつもりだったのに。
「つーか……」
……あいつ、どうやって送り返せばいい?
電車か?
その前に、親へ連絡するべきか?
とりあえず、風呂から戻ってきたらだな……。
ああ、腹減った。
時計を見る。
昼の12時だった。
「堀田くん、堀田くん!!!」
しばらくして、君野が風呂場から大声で呼んだ。
子どものような甲高い声だ。
堀田が急いで廊下へ出ると、風呂場のドアが勢いよく開き、堀田の部屋着を着た君野が飛び出してきた。
「待て、おい!どこ行くんだ!」
君野はそのまま廊下を駆け抜け、開いていた子ども部屋へ飛び込んだ。
「見て見て!すごい速いよ~!」
「あっ、そこは!」
叫んだ瞬間、君野は子ども用のベッドへ飛び乗った。
小さな足をばたばたさせながら、何度も跳ねる。
「見て見て堀田くん!ボヨンボヨン~!」
まだ濡れている髪から雫が飛び、堀田の顔へ当たった。
「水で濡れているうちは、どれだけ動いてもセーフなの!汗かかないから無敵状態なんだ!」
「おい! いい加減にしろ!下の人にも迷惑だろ!」
そう言った時だった。
「あっ!」
君野が足を滑らせた。
「危ない!!」
堀田は咄嗟に支えようとしたが、2人はそのままベッド下の床へ倒れ込んだ。
「なんなんだよ、もう……」
腰を打ちつけ、堀田は苦虫を噛み潰したような顔になった。
君野は堀田を押し倒すように、馬乗りになっている。
まだ濡れていた髪先から雫が落ち、堀田の頬を冷たく濡らした。
「あのなあ!!」
堀田は君野の首に巻かれたタオルを引っ張り、その顔を強引に近づける。
目が合った。
きょとんと見つめ返す君野へ、堀田は怒鳴った。
「髪はしっかり拭けよ! 風邪引くだろうが!!!」
タオルを広げ、倒れたままの君野の髪を乱暴に拭いてやる。
「気持ちいい……」
君野は目を細め、あまりにも無防備な顔でタオルへ頭を預けた。
入学式のあと、サッカーについて熱く語っていた君野の姿が脳裏をよぎる。
汗を流しながらゴールへ一直線に走り、相手をするりとかわす。
男子からも女子からも注目されていた、あの君野。
それが今は――。
なんだこいつ、かわいいかよッッッ!!!
いや、待て。
何を考えてる、俺。
こいつは男だ。
しかも、ほとんど話したこともない同級生だ。
動揺をごまかすように、タオルを強くこすりつける。
「いたあい!」
眉を寄せる顔まで、妙に可愛く見えてしまう。
「ほら、じっとしてろ。すぐ終わるから」
ぶっきらぼうに言いながら、堀田は熱くなった耳を意識しないようにした。
髪を拭き終えた頃、君野がぽつりと言った。
「堀田くん、ありがと……」
「いいから、少し落ち着け」
「お腹減っちゃった」
「お前な……」
そう言いつつ、堀田は玄関脇のファイルから1枚の紙を取り出した。
出前のメニュー表だ。
「僕、これ食べたい!」
「ラーメン?しょうがねえな」
君野は嬉しそうにメニューを指差している。
堀田はその顔を見て、小さくため息をついた。
「あ、そうだ。お前、家の電話番号分かるか?親が心配してるかもしれねえだろ」
「電話番号……?」
「頼むから思い出してくれ」
何度か聞き直し、どうにか君野から自宅の番号を聞き出す。
堀田は携帯電話で出前を注文すると、そのまま君野の家へ電話をかけた。
電話に出たのは、柔らかい声の女性だった。
事情を説明すると、君野の母親は何度も謝ったあと、彼の状態について教えてくれた。
『事故のあと、たまに幼い頃みたいになるんです。先生には、幼児退行だろうって言われていて……』
「幼児退行……」
事故の後遺症で、君野はサッカーを続けられなくなった。
現在の自分について、うまく思い出せなくなることもある。
その際、一時的な記憶喪失を伴うらしい。
今まさに、その症状が現れているのだという。
「うわっ!」
突然、君野が後ろから堀田の背中へ飛びついてきた。
「おい、やめろって!……あ、すみません。はい。飯は一緒に食べますんで。パートが終わる夕方で大丈夫です。駅まで連れていきます。いえいえ……」
営業マンのように受け答えする堀田の背中で、君野が楽しそうにじゃれついてくる。
堀田は片手で君野を押さえながら、どうにか電話を続けた。
「はい。それじゃあ、またあとで」
電話を切った瞬間、堀田は君野を振り返った。
「……あのなあ!!!!」
しびれを切らし、そのまま君野の脇腹へ手を伸ばす。
「きゃははは……!!!やめてよ、くすぐったい!!!」
君野は床を転がりながら、大声で笑った。
その無邪気な笑顔を見つめていた堀田の目が、ほんの一瞬だけ寂しげに揺れる。
視線の先には、棚の上に置かれた1枚の写真があった。
写真の中で笑っている、小さな男の子。
その脇には花や菓子、子ども向けの玩具が供えられている。
「友……」
「誰?」
堀田の呟きを聞き、君野が体を起こした。
「ああ。俺の弟」
堀田は写真へ目を向けたまま答える。
「ここは、その弟の部屋なんだよ」
「今、いくつなの?」
「5歳で、去年病気で死んだ」
君野の顔から笑みが消えた。
「だから、あいつがいた時のままにしてある。普段は誰も入らない部屋なんだ」
「ごめん!」
君野は慌ててベッドから下りた。
「酷いことしたね。そんな気持ちも知らないで……」
「お前も病気なんだ。仕方ねえよ」
堀田は頭を掻きながら、君野を見る。
「それに、今のお前を見てると懐かしいんだ。弟を見てるみたいで」
「そうなの?僕、似てる?」
「ああ。元気だった頃にそっくりだ。この収拾つかない感じ」
「そっか!」
君野の顔に、ぱっと笑みが戻る。
「えへへ。お兄ちゃん!」
「!」
「……僕、そのままでいい?」
ふざけて言っただけかもしれない。
それでも、その「お兄ちゃん」という呼び方は、堀田の胸へ強く響いた。
止まっていた何かが、胸の奥で再び動き出した気がした。
堀田は動揺をごまかすように、やれやれと頭を掻いた。




