第3話「呪いのリセマラキス」
その日の放課後――だったはずだ。
「マジックを見せる」という言葉を信じて桜谷の家へついて行った君野君野は、気づけばベッドの下へ閉じ込められていた。
暗い。
息が詰まる。
木の匂いと、埃の匂い。
どれくらい、そこにいたのか分からない。
――気づけば、縄は解かれていた。
それでも君野は、逃げようとはしなかった。
彼女と並んでベッドへうつ伏せになり、頬をシーツへ押しつけたまま手を繋いでいる。
目が合う。
離れない。
「逃げていいわよ」
こんなことをした張本人が、笑いながら言った。
カーテンの隙間から、夏の午後5時の光が差し込んでいる。
外はまだ明るい。
それなのに、この部屋だけが世界から切り取られたように冷たかった。
怖かった。
逃げたかった。
――でも、帰りたくない。
自分でも、その理由が分からなかった。
桜谷は三つ編みをほどき、眼鏡を外していた。
長い髪がシーツへ広がり、大きな黒い瞳が君野だけをまっすぐ見つめている。
今朝、一緒に学校へ向かった少女と同じ人には思えないほど綺麗だった。
「だって、君野くんがここにいる理由なんてないもの」
「……僕は、どうしたらいいの?」
「どうしたい?」
少しだけ間を置き、桜谷は静かに続けた。
「……覚えていられるなら、ね」
その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
「幼い頃、このベッドの下で君野くんは私にキスをしたの」
君野は何も答えられなかった。
「私、過去に戻れるなら何でもするわ」
「僕は僕だよ……」
その瞬間、桜谷の表情が止まった。
やがて、口元だけがゆっくりと歪む。
「あなたがどこへ行こうと、私からは離れられない」
繋いだ手へ、強く力がこもった。
離したら、何かが終わる気がした。
根拠なんてない。
それでも君野は、彼女には抗えない気がした。
「ハッ!」
目を覚ますと、いつもの朝だった。
白い天井。
無機質な照明。
見慣れた自分の部屋。
ここが現実だと分かった途端、遅れて安心が広がっていく。
「はあ……はあ……」
変な夢を見ていた気がする。
でも、何も思い出せない。
「ん?」
手首に、不自然な痕が残っていた。
細い線がいくつも肌へ食い込んだような痕。
「寝てる時に引っ掻いたのかな……」
そう呟いて、深く考えるのをやめた。
体を起こす。
トイレへ行こうと部屋を出たところで、玄関から母と誰かの声が聞こえてきた。
そっと階段の上から覗く。
三つ編みに眼鏡をかけた、真面目そうな女の子がいた。
君野は、その姿をしばらく見つめていた。
知らない。
けれど、なぜか胸がざわついた。
「おはようございます、お母さん」
桜谷は玄関を上がると、食卓で君野の母と向かい合っていた。
事故のあとから、彼の母は桜谷を実の娘のように可愛がっている。
まさか、その少女が自分の息子へ何度も“リセマラ”を繰り返しているとは、夢にも思っていない。
「瑠璃子ちゃん、本当に吉郎と仲良くしてくれてありがとね」
「いいえ。好きでいるので」
「あの子、サッカーをやってた頃みたいに段々元気になってきて。とっても嬉しいわ」
「でも、事故の原因は私ですから……」
「ううん。マジックをしようとして吉郎がパニックになっちゃっただけなんだから。あの子、昔からそそっかしいし」
桜谷は曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
本当のことを、この人は知らない。
知らないままでいてくれたほうがいい。
その時、階段から慌ただしい足音が響いた。
「起きたわね。また寝ぼけて変なこと言うのかしら」
桜谷は、空気を変えるように明るく笑った。
やがて、制服姿の君野が居間へ姿を現す。
「おはよう。……誰ですか?」
今日も、リセットされていた。
変わらない。
何も変わらない。
毎朝、同じ言葉。
毎朝、初めて見る顔。
それでも桜谷は、いつもと同じように笑った。
「もう。せっかく好いてくれる女の子が来てるっていうのに……」
「え?あ、そうなんだ……」
君野は照れたように頬を人差し指で掻いた。
「ふふ」
桜谷は、君野の母へ自分たちが恋人だとは伝えていない。
『息子を好きな女の子』。
それだけ伝えておけば、毎日自分を忘れる彼が不思議がっても、母親は深く疑わない。
君野の母が席を外すと、桜谷は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
細かな文字が、何ページにもわたってびっしり並んでいる。
・サッカーの話はNG
・火曜と木曜は蜂蜜とのりたまを選びやすい
・子ども舌。味の濃いものを好む
2か月かけて書き続けた、今の彼の記録だった。
できることは全部試した。
思い出の場所へ連れて行った。
昔話もたくさんした。
好きだったものも教えた。
それでも、事故前の君野へ戻る兆しは一度もない。
「……焦っちゃダメ」
昨日の自分の失敗を思い出す。
昔話ばかりじゃ駄目。
まずは、今の君野くんを見なくちゃ。
今の彼を知って。
今の彼に好かれて。
その積み重ねの先で、もう一度あの“薔薇色の記憶”へ辿り着く。
そうすれば、きっと。
昔の彼が帰ってきてくれる。
桜谷は、そう信じるしかなかった。
その日の午後。
姿の見えない君野を探して廊下を歩いていると、他のクラスの女子生徒たちに囲まれている彼を見つけた。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
「君野くん!」
桜谷は女子たちの間へ割って入り、君野の腕を掴んだ。
そのまま人のいない階段の踊り場まで連れて行く。
「どうしたの、桜谷さん」
「私以外の人と話さないで」
桜谷は掴んだ腕を離さない。
「じゃないと、また最初からやり直すわよ」
「どうして?ただ話してただけだよ。僕には桜谷さんしかいないよ」
「……口だけ」
「え?」
桜谷は一歩踏み込んだ。
もう逃げ場のない距離だった。
「あなたは、私が見ていないところで“別の人”になる。それが怖いの」
「どういうこと?」
「あなたがサッカー部だった頃、怪我をした時はトイレまで付き添った。松葉杖も持ってあげた。ずっとそばにいた」
その声が、少しずつ震えていく。
「なのに治ったら、すぐ私のことなんて無かったみたいにサッカーへ戻ろうとしたのよ……」
「……ごめん。それは酷いね。でも……覚えてなくて……」
君野は本当に申し訳なさそうに俯いた。
――まただ。
桜谷は拳を握り締めた。
彼はいつも謝る。
自分が知らない誰かの罪を聞かされたみたいに。
それが余計に苦しかった。
君野も何も言えない。
重苦しい沈黙だけが、2人の間に落ちた。
やがて桜谷は、小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい。怒ってしまって。ただ、あなたがどこかへ行ってしまう気がして」
君野は少し困ったように笑った。
「あのね……僕、桜谷さんに愛されてるって分かるものがほしい」
「何がほしいの?何でもあげる」
「僕の彼女だっていう証明がほしい……」
その言葉に、桜谷は息を止めた。
嫌な予感だけが胸をよぎる。
「あのね、君野くん。私、キスはしたくないって言ったわよね。だから、やめてくれる?」
「うん……ごめん……」
桜谷は背を向けた。
そのまま歩き出そうとした時だった。
「……したことないから、分からないんだよ」
「え?何?」
振り返った瞬間、君野の顔が近づいた。
避ける間もなく、唇が触れる。
「――!」
パンッ――。
乾いた音が、踊り場に響いた。
気づけば、桜谷の右手が君野の頬を打っていた。
「っ……!」
君野はよろめき、そのまま床へ崩れ落ちる。
「どうして勝手にキスするの!」
「どうして……?なんで……?」
また全部、台無しになった。
今日1日かけて積み重ねてきたものが、たった一度のキスで崩れていく。
どうして。
どうして分かってくれないの。
桜谷は唇を噛んだ。
本当は、したくない。
この先を知っているから。
それでも。
「そんなにしたいなら……してあげるわよ」
その瞳に宿っていたのは、怒りではなかった。
諦めだった。
「わっ、やめて!」
桜谷は君野の顔を掴み、そのまま強引に唇を重ねた。
君野が身を引こうとしても、離さない。
やがて、唇が離れる。
君野は床へ座り込んだまま、怯えた目で桜谷を見上げていた。
その瞳はもう、恋人を見る目ではなかった。
「何で……何でこんな酷いことするの?」
その言葉に、桜谷の胸が痛んだ。
でも、その痛みさえ、もう何度目か分からない。
「私は呪われた子だから、キスができないの」
彼女は静かに言った。
「なのにあなたは、何も知らずに私へキスを求めてくる……」
「呪いって何?それでキスができないって……?」
「知らないわ」
ナニソレ?
知りたいのは、私の方。
どうしてキスをすると、好きな人だけが私を忘れるのか。
どうして、何度やり直しても同じ場所へ戻ってくるのか。
誰も教えてくれない。
窓から差し込んでいた日差しが、ゆっくり雲へ隠れていく。
もう、この繰り返しにも慣れてしまった。
今日が駄目でも、明日がある。
明日になれば、彼はまた私を忘れる。
今日の恐怖も。
今日の怒りも。
今日、私を嫌いになったことさえも。
全部なかったことになる。
そして、また最初からやり直せる。
それが呪いであり。
桜谷にとって、唯一の救いだった。
「これでいいの」
桜谷は怯えた君野へ静かに言い残し、踊り場をあとにした。
「なんか、すげえもん見たな……」
2人が去ったあと。
階段の陰から、太い眉の男子生徒がひょいと顔を出した。
あれは同じクラスの“名物の2人”だ。
さっきまでの光景を思い返しながら、ぽかんと口を開ける。
「なんか、そういう宗派なのか?」
どう考えても、普通の恋人同士には見えなかった。
男子生徒は腕を組み、小さく首をひねる。
「……まあ、関わらないほうがいいか」
そう呟いて、階段を上がっていった。




