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第54話「大好きな、知らない君へ」

 


「さくら……さ……ん……」


「!?」


 病室で君野きみのの左右の手を握っていた堀田ほった桜谷さくらたには、そのかすかなうわ言に同時に顔を上げた。


「君野くん……!今、なんて……?」


 桜谷が身を乗り出す。


 堀田も聞き間違いではないと確信し、ベッドへ歩み寄った。


 すると、君野の唇が再びわずかに動く。


「君……は……しにがみ……」


「死神……!?おい、またあの黒い化け物がいるのか……?」


 動揺する堀田の隣で、桜谷は両手で口元を覆った。


「君野くん……やっぱり、私と一緒にいるんだ……」


 やっぱり。


 君野くんが見ていた化け物は、彼の中にいる私だった。


 薔薇色の記憶が消え、幼い頃の自分を思い出した今なら分かる。


  それは、自分でも2度と振り返りたくない、封じていた過去。


 私はあの頃、感情を抑えられず、誰かを傷つけ、周囲から恐れられていた。


 どう考えても、私は手に負えない女の子だった。


「そうなのか……?」


「あなたも聞いたでしょう……。私が昔、誰にも止められないほど暴れていたって」


「……じゃあ、小さい頃のお前が、君野を守ってるのか……?」


「分からない……」


 静かな病室へ、重い沈黙が落ちる。

 

その時、君野の唇がまた小さく震えた。


「さくら…さんを……助けて……あげたい……」


 弱々しく続くその声が、桜谷の胸の奥を強く打った。


「君野くん……どうして、そこまで……」


 あんな自分を、彼が好きだった理由が分からない。


 薔薇色の記憶がなければ、ただのクラスメイト。


 本当に、それだけだったはずなのに。


 そして、再会したあとも――。


 彼の未来を、自分の手で壊してしまった。


 それでも彼は、ずっと――。


「ごめんなさい……本当に……ごめんなさい……。私、本当に……」


「桜谷……」


 床に崩れた彼女の肩へ、堀田は静かに手を置いた。


「……俺も、弟を失ったことをずっと後悔してた。でも、君野が教えてくれたんだ」


 桜谷は黙ったまま、涙を流し続ける。


「愛する人が自分のせいで苦しみ続ける姿なんか見たくないって」


 堀田は目を潤ませながらも、真っ直ぐ桜谷を見つめた。


「君野は、お前のことをずっと大切に思ってた」


 肩へ置いた手に、わずかに力を込める。


「だから……もう自分を責めるな。あいつの気持ちを、ちゃんと受け取ってやれ」


「……」


 桜谷は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


 そして、眠る君野の顔を見つめる。


 目元から落ちた1粒の涙が、君野の頬へ静かに落ちた。


「君野くん……私……」


 言葉にならない。


 それでも何度も呼吸を整え、泣き腫らした顔のまま、無理に口角を上げた。


 穏やかな笑顔ではない。


 それでも確かに、前を向こうとしている表情だった。




「お願い……もう、その子にひどいことを言わないで……」


 君野きみのは、震える声で牢の中から訴えた。


 大切そうに少女の桜谷さくらたにの手を握るその姿に、綾目あやめは今まで見せたこともないほど険しい表情を浮かべる。


「この子は死神なんかじゃない……。これ以上、この子を傷つけたら、僕は許さない」


 鉄格子を握る手に力がこもった。


 だが次の瞬間、綾目は冷たい目のまま少女を突き飛ばした。


 少女は音もなく、白い床へ尻もちをつく。


 さらに綾目は右足を振り上げ、その小さな身体を踏みつけようとした。


「やめて!!もう彼女をいじめないで……!!」


「今さら守れないのよ」


 綾目は少女を見下ろしたまま言い放つ。


「あなたはずっと、自分を偽って生きてきた。そうでしょう?」


「……」


「本当の自分は愛されない。だから嫌われないように、子どもっぽく振る舞ってきた」


 その足が、少女の膝を踏みつける。


「だから、今の君野くんを愛せるのは、この私しかいないの!!」


 少女が苦しそうに顔を歪めた。


 綾目は狂気を滲ませた笑みを浮かべる。


「この子は、君野くんの後悔そのもの。本物の桜谷瑠璃子は助けられなかった。そんなものにいつまでも執着して、何になるの?」


 さらに足へ力を込める。


「2人で一緒に壊してしまいましょう。ここを薔薇の枕の楽園にするの……!!」


 その光景を見つめた瞬間。


 君野の胸に、再びあの感情が込み上げた。


 助けたい。


 そうだ。


 僕は、大切な人を見捨てた。


 確かに、嫌われないように子どもっぽく振る舞っていたのかもしれない。


 本当の自分を隠し、誰からも嫌われない人間を演じていたのかもしれない。


 でも――。


「でも……桜谷さんも、堀田ほったくんも大好きなんだ……!」


 それだけは、本当だから。


 誰かに好かれるために作った気持ちではない。


 君野自身が、ずっと抱えてきた想いだった。


「僕の大切な人を傷つけるのは、絶対に許さない!!」


 その言葉を口にした瞬間、鉄格子に細い亀裂が走った。


 君野は奥歯を噛み締め、そこへ全身の力を込める。


 次の瞬間。


 バキッ!!


 鉄がひしゃげ、砕ける音が白い世界へ響き渡った。


 綾目が思わず怯む。


 その隙に君野は牢から飛び出し、倒れていた少女へ覆いかぶさるように抱き寄せた。


「僕は守る……桜谷さんを守るんだ……!今度こそ、絶対に……!!」


 張り詰めていた糸が切れたように、綾目は小さく呟いた。


「……どうして……」


 震える声だった。


「あんなに、私のことが好きだったじゃない……」


「……君野くん……」


 その時だった。


 人形のように動かなかった少女が、ゆっくりと口を開く。


 君野はそっと身体を起こし、彼女を抱き起こした。


 まるで止まっていた時間が再び動き出すように、少女は君野を見つめ返す。


「私のこと……まだ好きでいてくれたんだね」


「うん……」


 少女は静かに微笑む。


「……でもね」


 君野は首を傾げた。


「あなたをずっと縛っていたものは、恋…だけじゃないの」


「え?」


 黒いワンピースの袖が揺れる。


 白い手が、そっと君野の頬へ触れた。


 こんな顔をしていたんだ。


 好きだったはずなのに。


 今は、不思議なくらい穏やかな気持ちで見つめられる。


 胸の中に残っているのは、恋しさだけではなかった。


 助けてもらった記憶。


 守れなかった後悔。


 置き去りにした罪悪感。


 そのすべてが絡み合い、ずっと桜谷への想いを手放せなくしていた。


 その心を見透かしたように、少女は小さく笑った。


「もう後悔しなくていい」


 優しく頬を撫でる。


「責任も感じなくていい」


「してないよ……」


「ううん」


 少女は静かに首を振った。


「あなたは優しい人だから。分かるの」


 その声も、その仕草も。


 子どもの姿なのに、どこか大人びていた。


 君野の胸が、小さく高鳴る。


「もう大丈夫。だから、もう私をこんな化け物にしなくていいんだよ」


 少女は穏やかに笑った。


 君野はその手を握り直す。


「何度も置いてけぼりにして、ごめんなさい……」


「何の話?」


「だって……」


 少女は少しだけ照れたように目を細める。


「私はちゃんと生きて、もう1度あなたに会えたでしょう?」


 君野の頬へ触れたまま、優しく続けた。


「今の桜谷瑠璃子が、それを証明しているの」


 ずっと仏頂面だった少女が、その時初めて心から笑った。


「あ……」


 君野の顔にも、自然と笑みがこぼれる。


「初めて見た……。そんなふうに笑うんだね」


 2人は、同じように笑い合った。




「……笑ったぞ」


 その頃、病室では 桜谷の呼びかけに応えるように、眠る君野の口元がわずかに緩んだ。


 それを見た堀田は息を呑む。


「……」


 言葉にならなかった。


 桜谷も止まらない涙を拭いながら、静かに微笑む。


 ――もう大丈夫。


 狂ってしまった運命は、ようやくあるべき場所へ戻ろうとしている。


「君野くん……ありがとう」


 眠る彼の頬をそっと撫でる。


 私は、もう大丈夫。


 あなたに出会えて、本当に良かった。


「……ちゃんと、堀田くんと幸せになるのよ」


 堀田が驚いて顔を上げるより早く、


 桜谷は君野の唇へ、そっと口づけた。


「……幸せになってね」



 白い世界。


 黒い少女が、君野を優しく抱きしめる。


 君野も、その小さな身体を抱き返した。


 ずっと。


 こうして抱きしめてあげたかった。


 守れなかった後悔も。


 伝えられなかった想いも。


 そのぬくもりと一緒に、ゆっくり溶けていく。


 少女の身体は、煙のように光へ溶け始めた。


「ありがとう」


 君野は涙を浮かべながら微笑む。


「君も幸せになってね」


 少女は最後まで穏やかに笑っていた。


 やがて、その姿は光となって空へ昇り、静かに消えていく。


 同時に、白い世界へ1本の亀裂が走った。


 パキッ。


 乾いた音とともに亀裂は広がり、


 世界そのものがゆっくりと崩れ始める。


 綾目の姿も、その白い空間へ溶けるように消えていった。


 壊れていく世界の中、


 最後まで残っていたのは――


 ただ1つの牢だけだった。

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