第53話「傷だらけの死神」
君野がイルミネーション会場で意識を失ってから、1週間が経過した。
原因は分からない。
意識は戻らないものの、容体そのものは安定している――医師たちはそう判断し、ようやく家族以外の面会も許可された。
とはいえ、すでに1週間も眠り続けている。
口元には酸素マスクがつけられ、腕には点滴の管が繋がっていた。ベッド脇の生体モニターには、一定の間隔で波形が刻まれている。
眠っているだけとは思えない痛々しい姿が、事態の異常さを物語っていた。
「君野くん。大丈夫よ。私たちがいるから……」
「頼む……頑張ってくれ……」
学校帰り。
ようやく病室へ入ることを許された桜谷と堀田は、ベッドを挟んで左右に立っていた。
2人は祈るように君野の手を握り、冷えた指先をそれぞれの体温で包み込む。
「君野は、このままずっと目を覚まさないのか……?」
「分からないわ……」
「綾目も、もう1週間目を覚ましてないんだろ?」
「ええ」
君野が入院している病院と、綾目がいる病院は別だった。
それでも、イルミネーション会場で君野が意識を失ったのとほぼ同じ頃、綾目も君野の名をつけた枕を抱いたまま、突然目を覚まさなくなったという。
触れることも、声を届けることもできない時間が長すぎた。
2人の間には、静かな絶望が広がっていた。
「綾目のことは忘れたはずなのに……なんで、またこんなことに」
「私たちが、君野くんへ理想の姿を押しつけ続けたことと、関係があるのかもしれない」
桜谷は力のない君野の手を、自分の頬へそっと寄せた。
「幼児退行は、もう治ったんじゃなかったのか?」
「重い症状は落ち着いていたわ。でも、完全に元へ戻ったわけじゃない」
「どういうことだよ」
「治ったように見えていただけ。退行した時の子どもっぽい言動が、君野くん自身の普段の振る舞いとして残ってしまったの」
「そんな……」
堀田の顔から血の気が引く。
握っていた手に、強く力がこもった。
「キーホルダーを壊して、それで全部終わったと思ってた。もう安心していいんだって……」
「それだけじゃないわ」
桜谷は眠る君野を見つめたまま続ける。
「呪いのキスは、1番好きな相手にしか効かない。そう話したでしょう?」
「ああ……」
「だから君野くんの中には、どうしても諦められない『私』が残っているんじゃないかと思うの」
「じゃあ、まだ君野の心は綾目に奪われてないってことか!?」
堀田は思わず身を乗り出した。
「分からないって言ってるでしょう」
桜谷は弱々しく首を振る。
「でも……君野くんが見ていた黒い化け物は、彼の中にいる私なのかもしれない」
「お前が……?」
「私たちが君野くんに理想を押しつけたせいで、彼の中に残っている私は、もう人の姿をしていないのかもしれない」
それに、今の君野には綾目の記憶がない。
ならば、まだ戻ってこられる可能性は残っている。
そう信じるしかなかった。
「お願い……」
桜谷は君野の手へ額を寄せる。
「君野くん、戻ってきて……」
「君野!」
堀田の声が、静かな病室へ響いた。
「愛してる!だから、俺のところに戻ってきてくれ……!」
消え入りそうな桜谷の声と、必死な堀田の叫び。
2人はただ祈るように、君野の手を握り続けた。
「君野くん……どうして?」
綾目は、牢の前で立ち尽くしていた。
ようやく見つけたはずの君野が、見知らぬ相手を見るような目を向けていたからだ。
「ごめんなさい……」
鉄格子の向こうで、君野は申し訳なさそうに俯く。
「僕、あなたのことを忘れちゃったみたいです……」
ようやく、本当の彼に会えたと思ったのに。
「……あなたも、私を裏切るのね」
奥歯が擦り切れそうなほど、怒りが込み上げる。
だが、その感情に飲み込まれる前に、綾目はゆっくりと息を吐いた。
違う。
考え方を変えればいい。
これは裏切りではない。
長い間眠っていた、誰にも手に入れられなかった財宝。
呪いのせいで、持ち主すら忘れてしまう幻の宝物なのだ。
「そういうことなのね……」
綾目は鉄格子へ近づき、その向こうにある無垢な瞳を見つめた。
「それが、あなたというお宝なのね」
忘れられているなら、もう1度好きにさせればいい。
何度でも、最初から作り直せばいい。
あの無垢な瞳へ、自分だけを焼きつければいい。
綾目はゆっくりと振り返った。
少し離れた場所では、巨大な黒い化け物がこちらの様子を窺っている。
先ほどまであれほど恐ろしく見えたはずなのに、綾目を前にすると身動き1つ取れない。
「醜い姿」
綾目は小さく笑った。
「病院へ来たばかりの頃の、瑠璃子みたいで可愛い」
そのまま化け物へ歩み寄る。
「ねえ、死神瑠璃子」
綾目の冷たい声が、白い世界へ響いた。
「もう、ここはあなたの居場所じゃないわ」
黒い化け物が、わずかに身を震わせる。
「あなたがいるから、君野くんはいつまでも檻から出られないの」
綾目が近づくたび、気球のように巨大だった身体がしぼんでいく。
黒い輪郭は次第に人の形を取り始め、やがて綾目よりも小さな少女へと変わった。
長い黒髪。
黒いワンピース。
靴下も靴も、すべてが真っ黒だった。
「やっぱり、その姿が1番可愛い」
綾目は少女の前へしゃがみ込み、強く抱き締める。
その長い髪を、ハープの弦でも奏でるように指先で撫でた。
「誰にも愛されない子」
少女は何も答えない。
「偽物の薔薇色の記憶があって、よかったじゃない」
綾目は耳元で囁いた。
「あなたは、あれがあったから生き延びられたのよ」
腕に力を込める。
「それなのに、好きだと思っていた男の子から、こんな醜い化け物にされてしまった」
綾目は喉の奥で、くすくすと笑った。
「本当に、可哀想な子ね」
――あの子……。
君野が呟く。
遠目からでも分かる、全身を黒で包んだ少女。
その姿を見つめた瞬間、懐かしい光景が脳裏によみがえった。
――ねえ、知ってる?
――桜谷さんが、いつも真っ黒な服を着てる理由。
幼い子どもたちの声が、教室の中で響いていた。
――あの子のお母さん、服を選ぶのが面倒で黒いものしか買ってもらえないんだって。
――フリンよ、フリン!
窓際の隅の席に座る幼い君野は、その会話を黙って聞いていた。
隣には桜谷の席がある。
だが2つの机は、意図的に少し離されていた。
当時の桜谷は、誰も手をつけられないほど感情が不安定だった。
突然席を立ち、廊下の水道の蛇口をひねって水を出しっぱなしにしたまま歩き回る。
別の教室の前へ貼られた掲示物を、はさみで切り裂く。
教卓へ上がると、黒板用の小さなマグネットを生徒たちへ向かって投げつける。
そんな彼女を、クラス中が恐れていた。
君野の隣へ桜谷の席が置かれたのも、文句を言わない生徒へ押しつけただけだった。
担任もまた、彼女を扱いきれずにいた。
今、そんな記憶が次々とよみがえってくる。
君野にとっても、蓋をしたい嫌な思い出だった。
「でも……」
君野は鉄格子を強く握る。
壊したい。
その衝動に、手が震えた。
自分がここへ閉じ込められている本当の理由は、あの教室の中にある。
そんな気がしてならなかった。
けれど、なぜそう思うのかまでは分からない。
「なんで……こんなに苦しいんだろう……」
「もう消えて」
綾目の冷たい声が響く。
「ここは、もうあなたのいる場所じゃないわ」
その瞬間、黒い少女は綾目を突き飛ばし、君野のいる牢へ駆け寄った。
「桜谷さん……!」
少女は鉄格子へ両手をかける。
この子は確かに、自分の記憶の中にいた。
ならば今、目の前にいるこの少女は――。
そう思った瞬間、また新たな記憶の扉が開いた。
同じ教室。
幼い君野は、窓際の1番後ろの席で泣いていた。
教壇に立つ担任も、クラスメイトたちも、全員がこちらを見ている。
若い女性教師が、明るい声を上げた。
「君野くん!君なら委員長できるよ!みんなから選ばれて、すごいじゃない!」
違う。
そんな名誉なことじゃない。
これは完全な押しつけだった。
――お前がやれよ。
――昨日休んだから悪いんだ。
そんな言葉が聞こえるような視線が突き刺さる。
「そうか……僕……」
小学1年生のあの日。
クラス全員に裏切られたような気持ちになり、深く傷ついた。
泣いて戸惑う自分へ向けられる視線は、あまりにも容赦がなかった。
「桜谷さん?」
担任の声が響く。
すぐ隣を見る。
真っ黒な服を着た桜谷は、いつの間にか自分の椅子を頭上へ掲げていた。
そして何かを激しく叫ぶ。
「うわっ!死神が暴れてる!」
「みんな、教室の外へ出て!」
担任は生徒たちを廊下へ避難させると、応援を呼ぶために駆け出した。
教室から一斉に人が消える。
あまりにも息の合った動きに、君野はなぜか腹が立った。
その息の合った動きが、君野にはひどく腹立たしかった。
桜谷は誰もいなくなった場所へ、自分の椅子を投げつけた。
机の中の教科書を引きずり出し、床へ撒き散らす。
さらに他の生徒たちの机や椅子を蹴り飛ばした。
「桜谷さん……」
「……こういうの、許せない」
低い声とともに、誰かの机にあったプリントが何枚も宙へ舞う。
白い紙が教室いっぱいへ降り注いだ。
その光景は、幼い君野には映画のワンシーンのように見えた。
怖いはずなのに。
なぜか涙が止まった。
「ありがとう……」
桜谷は一瞬だけ君野へ目を向けた。
だが何も答えず、机をひっくり返し続ける。
壊れた教室の中で暴れ続けるその姿は、世界の終わりのようだった。
それでも君野には、自分の代わりに怒ってくれているように見えた。
「あの……」
もうすぐ桜谷が転校してしまうことを、君野は知っていた。
それでも、もう1度だけ声をかける。
「なに?」
「……う、うん。ありがとう……」
「もう聞いた」
その時だった。
「おい!何をしている!」
異変に気づいた他の教師たちが、何人も教室へ駆け込んできた。
桜谷は何人もの大人に取り押さえられ、そのまま教室の外へ連れて行かれる。
君野は、それをただ見送ることしかできなかった。
助けてもらったのに、何も返せない。
せめてもの気持ちで、離されていた2人の机をそっとくっつけた。
「僕……僕、あの時……君のこと……」
牢の中から君野は震える手を伸ばした。
鉄格子越しに垂れた白い手を、そっと握る。
けれど、その手が握り返されることはなかった。
「そうだよね……そのまま転校しちゃったんだもんね……」
涙が頬を伝う。
「あの時、何もしてあげられなくて……ごめんね……」
君野は堪えきれず、ぼろぼろと涙を流した。
少女は何も言わない。
ただ静かに、君野を見下ろしている。
「そっか……」
嗚咽の合間に、小さく呟く。
「彼女を化け物にしていたのは……僕だった」
もう2度と、誰かを守れない自分にはなりたくなかった。
だから、その後サッカーを始めた。
強くなりたかったら……
それなのに、サッカーに夢中になりすぎて、また彼女を置き去りにしてしまった。
桜谷さんが怒るのも、当然だった。
「でも……」
鉄格子へ額を預ける。
「今も君は……こんな姿のままなんだね……」
少女は何も答えない。
黒いワンピース。
黒い靴。
黒い髪。
その姿は、もう恐ろしくは見えなかった。
ただ、ひどく寂しそうだった。
「ごめんね……」
君野はもう一度、少女の手を握る。
それでも少女は、握り返してはくれなかった。
その沈黙だけが、君野の胸を締めつける。
守れなかった。
その記憶だけが、今も檻の中で静かに息をしていた。




