第52話「脳内楽園」
きらびやかな光に包まれたカップルシートへ、君野が先に腰を下ろした。
堀田もその隣へ、あえて堂々と座る。
少しでも気を抜けば、緊張で逃げ出してしまいそうだった。
冷たい夜風が、2人の頬を撫でていく。
――ここで、キスする。
隣にいる君野は、頬を赤く染めていた。
潤んだ瞳で堀田を見上げ、どうするの、と問いかけるように待っている。
しかし、ベンチへ座った途端、周囲から向けられる無数の視線が気になった。
身体が硬直する。
恥ずかしさを隠そうとする意地と、無駄なプライドが邪魔をした。
「堀田く……」
君野の求めるような声が、かすかに聞こえる。
だが堀田は、こちらのスマートフォンを構える係員へ向かって、反射的にピースサインを作ってしまった。
そのまま2枚ほど写真を撮影される。
キスはおろか、肩を寄せ合うことさえできなかった。
撮影が終わると、堀田は君野の顔を見ることもできず、逃げるようにその場を離れた。
背中へ、戸惑った視線が突き刺さる。
――やっちまった……!
後悔した時には、もう遅かった。
「……なんか、あっけなかったな」
係員からスマートフォンを受け取った堀田は、無理やり笑ってみせる。
「そうだね……」
「写真も、なんかぎこちないし」
「う、うん……。急かされちゃったからね」
明らかに、係員のせいではない。
君野は画面に映る2人を、どこか焦点の合わない目で見つめていた。
いたたまれない沈黙が、2人の間へ落ちる。
「ご飯も食べたし……もう帰る?」
「……そうだな」
堀田が答えた瞬間、近くにいたカップルのニット帽が飛ばされるほど、強い夜風が吹き抜けた。
さっきまで輝いて見えたイルミネーションが、急に遠く感じられる。
本当に、このまま何もせず帰っていいのか。
「悪い。帰る前にトイレ寄ってくる」
「うん。ここで待ってるよ」
2人はほとんど言葉を交わさないまま、入口近くの土産店へ向かった。
堀田がトイレへ入ったあと、君野は1階の売り場を1人で歩いていた。
沈んだ気持ちを紛らわせるように、棚へ並ぶ可愛らしい菓子や雑貨を眺める。
建物の1階は土産店になっており、2階にはイルミネーションを見渡せるテラスレストランがあるらしい。
中央には大きな吹き抜けが広がっている。
君野が頭上を見上げると、高い天井にはめ込まれたガラス窓の向こうに、冬の星空が見えた。
「綺麗……」
やっぱり、本物の星が1番綺麗だ。
そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
「……ふふ。でも、面白かったな」
ポテトを口にくわえ、必死に左右へ振っていた堀田の姿を思い出す。
あれはきっと、キスをしたかったのだろう。
あんな堀田くんは、普段なら見られない。
そう考えれば、イルミネーションと同じくらい価値のあるものを見られた気がする。
「そういうところが好きなんだもん……」
手元には、施設のキャラクターがついた2本のシャープペンシルがあった。
君野は、それぞれのノック部分についたキャラクターの顔を、ちょん、と触れ合わせる。
「僕に、魅力が足りなかったのかなぁ……」
その時だった。
――君野くん。
「……!」
耳元で、少女の声がした。
――君野くん。おいで。
君野は慌てて振り返る。
だが、そこには誰もいない。
周囲にいるのは、楽しそうに土産を選ぶ家族連れや恋人たちだけだった。
昨日、自分の部屋で聞いたものとよく似た声。
全身に鳥肌が立つ。
「誰……?」
――『僕ギャグ』、ありがとう。
君野の胸が跳ねた。
――君野くんがおすすめしてくれた漫画、面白かった。
「えっ?『僕ギャグ』知ってるの?」
自分の本棚から、いつの間にか大量に消えていた漫画。
部屋が散らかっているとはいえ、何冊もまとめてなくなったことには、ずっと納得できずにいた。
――あなたから借りたものだから、返したいの。
「そうだったんだ……」
――この建物の2階へ来て。
「わざわざ持ってきてくれたの?ありがとう!」
声の主が、自分の漫画を知っている。
その事実だけで、君野の警戒心はあっさりと薄れてしまった。
彼は少女の声に導かれるまま、吹き抜け脇のエスカレーターへ向かった。
「お待たせ……あれ?」
堀田が1階のトイレから戻ると、君野の姿はどこにもなかった。
土産物の棚の間を見回していると、不意に頭上から激しい足音が響く。
ダダダダダッ――!
まるで誰かが、エスカレーターの段差を踏み鳴らしながら駆け上がっているような音だった。
「きゃっ!」
上方で、誰かにぶつかられた女性が小さく悲鳴を上げる。
堀田が振り仰ぐと、下りのエスカレーターを逆走している君野の姿があった。
「君野!!」
一目で様子がおかしいと分かった。
周囲の人々が慌てて片側へ身を寄せる中、君野は何かに取り憑かれたように、流れてくる段差へ逆らって走り続けている。
「おい!どうした、君野!」
堀田はすぐ隣の上りエスカレーターへ飛び乗った。
だが、その時にはもう君野は2階へたどり着き、弾かれたような勢いでフロアの奥へ駆け出していた。
「まさか……」
堀田は前に立つ客へ何度も謝りながら、段差を駆け上がる。
君野まで、綾目に何かを握られていたのか。
背筋に冷たいものが走り、こめかみに鋭い痛みが刺さった。
「そうなんだ。アヤメちゃんっていうんだね!」
2階へ駆け上がった君野は、どこからともなく響く少女の声に夢中になっていた。
声は耳からではなく、頭の奥へ直接流れ込んでくる。
まるで骨伝導イヤホンでもつけているようだった。
頭には薄い靄がかかり、声に従うことへの疑問さえ浮かばない。
――こっちよ。吹き抜けのそばのベンチ。
中央の吹き抜け近くには、簡素な木製のベンチが置かれていた。
だが、周囲に人の姿はない。
アヤメと名乗る少女は、そこにいるかのように君野を建物の中央へ誘っていく。
「どこにいるの?」
――目の前のベンチの近くに、漫画を置いたの。
君野はベンチへ近づき、辺りを見回した。
だが、漫画らしきものはどこにもない。
「ないよ?」
――そこから下を見て。
「下?」
君野は吹き抜けを囲う透明な手すりへ近づき、1階を覗き込んだ。
しかし、真下は角度が悪く、よく見えない。
もっと覗けば見つかるかもしれない。
そう思い、君野は靴を脱いでベンチの上へ乗った。
「どこ?」
――君野くん。こっちへおいで。
「……!」
1階と2階の間に広がる吹き抜けの中央。
そこに、ピンクのパジャマを着た少女が浮かんでいた。
柔らかな光をまとい、何もない宙に立っている。
あまりにも幻想的な姿に、君野は恐怖より先に見惚れてしまった。
思考が霞んだ頭で、テーマパークの演出なのだろうかと、ぼんやり考える。
――もう、そんなに悩まなくていいんだよ。
「僕、何か悩んでたっけ……」
少女は優しく近づいてくる。
君野が手を伸ばすと、彼女はいたずらっぽく笑い、吹き抜けの中央へするりと遠ざかった。
「待って……」
触れたい。
その衝動だけが、足元に広がる高さへの恐怖を消していく。
「きゃあ!やめて!」
1階から女性の金切り声が上がった。
続いて、あちこちから悲鳴が響く。
堀田が2階へ駆け上がり、吹き抜けの方角を見た瞬間、血の気が引いた。
君野が透明な手すりをよじ登り、今にも向こう側へ身を乗り出そうとしている。
「頼む!行くな!!」
堀田が叫ぶ。
その声とほとんど同時に、君野の身体が前へ傾いた。
「っ……!」
誰が渡すかよ――!
堀田は反射的に飛びついた。
片手で君野のコートの襟元を掴み、もう一方の手で腰のベルトへ指をかける。
そのまま自分ごと落ちる覚悟で、全体重を後ろへ叩きつけた。
ベルトが軋み、肩が抜けそうになる。
それでも手を離さない。
「戻ってこい!!」
君野の身体が、手すりの内側へ引き戻される。
2人はもつれ合ったまま、ベンチから硬い床へ転げ落ちた。
「ぐっ……!」
背中と脇腹に激痛が走る。
だが堀田は、すぐに君野の身体を抱き寄せた。
「君野……行かないでくれ……!」
腕の中の君野は、まだ意識を失ってはいなかった。
けれど、その目にはもうほとんど光がない。
「……漫画を取りに……」
途切れ途切れの声が漏れる。
「堀田くんにも……貸してあげたくて……アヤメちゃんが……」
「分かった!もう喋るな!」
君野の瞳から、燃え尽きる蝋燭のように光が消えていく。
――君野くん、おいで。
頭の中で少女の声が響く。
――来て。
さらに強く。
――来なさい。
優しかった声には、いつしか隠しきれない苛立ちと執念が混じっていた。
目の前では、涙を浮かべた堀田が必死に何かを叫んでいる。
近くにいた男性が駆け寄り、君野の呼吸や脈を確認し始めた。
別の誰かがスマートフォンを取り出し、救急へ連絡している。
だが、その光景はまるで遠い世界の出来事だった。
綾目の声だけが、堀田の声を塗り潰していく。
「救急車、呼んでもらってるからな!大丈夫だ!」
君野はぼんやりと堀田の顔を見つめた。
「……キス……したかった……」
1粒の涙が目尻からこぼれ、床へ落ちる。
堀田は息を呑んだ。
――ふふ。もう遅いわ。
少女の笑い声が頭の中に響く。
――君野くんは、もう私のもの。
「君野……!」
堀田は衝動のまま、君野の唇へ自分の唇を重ねた。
けれど、その時にはもう遅かった。
君野の身体から力が抜ける。
深い眠りへ沈むように、その意識は途切れた。
「あれ……?」
気づけば、1人だった。
一面が真っ白な世界。
「僕……死んじゃった?」
声だけが虚しく響く。
ふと、視線を感じた。
誰かに見られている。
何もない白い空間の奥に、小さな黒い点が浮かんでいた。
「……なに、あれ」
黒い点はゆっくりと膨らみ、その中心に巨大な単眼が開く。
その目が、君野を捉えた。
逸らそうとしても逸らせない。
見られている――その感覚だけが肌に張りつく。
飢えた獣が獲物を吟味するように、その巨大な存在はゆっくりと近づいてきた。
「ひっ……!」
次の瞬間。
針山のような牙をむいた大口が、暴走するトラックのような勢いで迫る。
君野は悲鳴を上げて走り出した。
「来ないで……! 堀田くん、助けて!!」
どうして。
さっきまで、あんなに楽しくデートしていたのに。
「うわああああっ!!」
冷たい何かが足首へ絡みつく。
その瞬間、世界がぐるりと反転した。
「……っ!」
巨大な口が、もう目の前まで迫っている。
開かれた口だと理解した時には遅かった。
上下から闇が閉じる。
君野の姿は、そのまま飲み込まれた。
「ほんと……醜い化け物」
ピンクのパジャマ姿の綾目は、冷めた目で呟いた。
「そこをどきなさい」
化け物の鋭い単眼が彼女を向く。
だが、その姿を認めた途端、さっきまで大きく開いていた口は、縫い合わされたように閉じた。
「どけって言ってるでしょ!!この疫病神!!」
怒鳴られた化け物は、叱られた犬のように肩を落とし、道を開ける。
綾目はその奥へ歩いていった。
そこには、1人立つこともできないほど狭い檻があった。
大型犬を2匹押し込めた程度の大きさしかない、古びた鉄格子。
綾目はゆっくりとその中を覗き込む。
そして――。
その口元が、これ以上ないほど大きく吊り上がった。
「やっと見つけた」
檻の中には、彼女がずっと探し続けていた宝物が閉じ込められていた。




