第50話「日常へ」
数日後、1月中旬。
綾目の記憶を失った君野の前に、ようやく退院した堀田が姿を現した。
「堀田くん!!」
「君野!!」
これまでの不穏な日々が嘘だったかのように、君野は病室から出てきた堀田へ勢いよく飛びつく。
堀田は笑いながら、彼の髪をシャンプーでもするように、わしゃわしゃとかき回した。
その後ろを、桜谷は少し距離を空けて歩いていた。
「お前のおかげだな」
歩きながら堀田が桜谷へウインクする。
……本当、調子だけはいい人。
「桜谷さん、ごめんね。僕の勘違いで連絡ブロックしちゃって……」
「ううん。さ、行きましょう」
一刻も早く病院を離れたかった。
それは隣を歩く堀田も同じらしい。
2人は病院を振り返ることもなく足早に駅へ向かう。
君野もその歩調につられ、3人は病院近くのカフェへ入った。
「はあ……」
ファミリー席へ腰を下ろした堀田は、長椅子へ深くもたれて大きく息をつく。
その瞬間、桜谷と目が合った。
――もう金輪際、あの女の話はしない。
言葉はない。
それでも互いに、その意思だけは伝わった。
「退院祝いだね!堀田くんも思いっきり食べて!」
君野は満面の笑みでメニューを差し出す。
「おっ、そうだな!何にしようかな」
「僕はハンバーグ&ステーキ!堀田くんも?」
「よし、男の友情ってことで1番デカいのいくか!」
2人は楽しそうにメニューを見比べる。
「桜谷、お前は?」
「……パスタのセット。あとホットコーヒー」
注文を終えたところで、君野が勢いよく立ち上がった。
「僕、トイレ行ってくる!」
店の奥へ駆けていく姿を見送り、席には静寂が落ちる。
さっきまでの賑やかさが嘘のようだった。
「……もう、全部終わったんだよな」
堀田がぽつりと呟く。
「見ればわかるじゃない。彼はもうあなたに夢中よ」
「結局、呪いのキスって何だったんだ?」
「忘却の愛よ」
「忘却の愛?」
「……このキスは、お互いに本気で想い合っていないと成立しないの」
桜谷はそこで言葉を濁した。
もし堀田が、君野こそが呪いを持っていると知ればどうなるだろう。
今さら真実を知れば、また精神を壊しかねない。
それは君野も同じだった。
「……お前はまだ、君野のこと好きなんだろ」
堀田は静かに尋ねる。
「それで、本当にいいのか?」
「…………」
返事はできなかった。
「おまたせー!よかった、まだステーキ来てない!」
君野が明るい声で戻ってくる。
その瞬間、さっきまでの重い空気は跡形もなく消えた。
――もう、この話は終わり。
桜谷はほとんど口をつけていなかった水を1口飲む。
そこへ3人分のドリンクが運ばれてきた。
「またメロンクリームソーダか!」
堀田は君野のグラスを見るなり笑う。
「飲み物にアイスとクリーム乗せるとか、お前そんな甘いもんばっか食ってると、またあの病院送りだぞ」
君野は胸を張る。
「食べないほうがストレスって病気になるもん!」
「なんだその理論!」
2人は声を上げて笑う。
そのまま話題は、さくらんぼの茎を口の中で結べるとキスが上手いらしい、というくだらない噂へ移っていった。
そんな2人を、桜谷は少し離れた場所から眺めていた。
――君野くんは、この先もずっと私を1番好きなままなんだろうか。
堀田くんと何度キスをしても変わらないなら。
本当の君野くんは、何を想っているんだろう。
まだ終わっていない何かが、私たちには残っている気がした。
「桜谷さん、パスタ美味しい?」
不意に君野が尋ねる。
「ええ、美味しいわ」
フォークはほとんど進んでいなかった。
今、気にかけてくれた?
……いや。
そう思いたいだけ。
私が未練がましいだけなのかもしれない。
「じゃあな!」
3人で電車に乗り、堀田は乗り換えの駅で手を振って去っていった。
残った君野と桜谷は、いつもの通学路と同じ最寄り駅で降りる。
「桜谷さんって、僕と家が同じ方向なんだね!」
「ええ。学校もいつも一緒に登校しているのよ」
「そうなの!?知らなかった!僕たち3人って仲良しなんでしょ?」
「そう。仲良し……」
桜谷は小さく笑う。
「僕たちって中学生から仲良しなの?その前から知ってた?」
「実はね、私と君野くん、小学校が同じだったの」
その言葉を口にした時だった。
2人は例の公園の前へ差しかかる。
中では少年たちがサッカーをしていた。
その光景を見た瞬間、桜谷の脳裏によみがえった記憶に、思わず足が止まる。
「……私ね、堀田くんが入院していた病院にいたの。小学1年生から5年生まで、精神科に」
「えっ、そうなの?」
「少し……話してもいい?」
君野は黙って頷いた。
2人は公園へ入り、入口近くのベンチへ腰を下ろす。
1月の乾いた風が枯れ葉を舞い上げる。
快晴の空の下では、犬の散歩をする人、遊ぶ子ども、体操をするおじさんが思い思いの時間を過ごしていた。
賑やかな景色だった。
――どうして今、この記憶を思い出したんだろう。
「小学1年生の頃、3か月だけ君野くんと同じ小学校に通っていたの。でも、その頃はただのクラスメイトだったらしいわ」
「そうなんだ。転校したの?」
「ええ。そして小学5年生で退院した時、枕を抱えて歩いていたことを思い出したの」
「あっ、堀田くんの弟みたいな症状?」
「……そう。私もずっと枕を持ち歩いていた」
桜谷は公園を見つめる。
「あの日も、この公園を通りかかったの。ちょうど今みたいに、男の子たちがサッカーをしていて……」
「へえ……」
「その時、1人の男の子が『君野!!』って叫んだの」
「え? それ、僕?」
「そう」
桜谷は少し笑った。
「私はあなたとの小学校の記憶がなかったから、枕と同じ名前の子がいるって驚いたの」
「それ面白いね!本当に不思議な縁なんだ」
「ええ……」
その笑顔が少し眩しかった。
「それから私は、この公園であなたを見ていたの」
静かに続ける。
「その時、サッカーボールが飛んできて、私の君野くん枕に当たったの。私はヒステリックに怒鳴り散らしたんだと思う」
「その時に?」
「ええ。あの子たちが私を『死神』って呼んだの。……私のこと、知っていたのかもしれない」
「死神……?」
その言葉に、君野は眉をひそめた。
どこかで聞いたことがある。
誰だっけ?
そんな感覚だけが胸に残る。
けれど、その記憶には手が届かなかった。
乾いた風が再び吹き抜ける。
砂ぼこりが舞い、子どもの帽子が飛ばされる。
少年たちは笑いながら、それを追いかけていった。
その光景を眺めながら、桜谷は小さく呟く。
「……あの頃に戻れたら、なんて。あり得ないのにね」
その声は風に溶けるほど小さかった。
乾いた唇が、かすかに震える。
――もしも。
もしも、私がもう少し素直だったら。
もしも、あの手紙を読む前に君野くんと向き合えていたら。
もしも、あの時、衝動に任せて彼を突き落とさなかったら。
もしも――。
そんなことを考えたところで、何も変わらない。
それでも、頭より先に口が動いていた。
「ねえ、君野くん」
「ん?」
「……大好き」
君野は少し照れくさそうに笑った。
「あ、うん!僕も!これから仲良くしていこうね!」
「……そうね」
その一言だけで十分だった。
本当はもっと違う意味で伝えたかった。
それでも今の彼には届かない。
大切な言葉は、冬の風にさらわれていく。
――でも。
今の君野くんと出会えて、本当によかった。
それだけは胸を張って言える。
それが、今の私の宝物。
2人は顔を見合わせて笑い、冬の公園を後にした。
その夜。
「え?デート!?」
君野は自室のベッドの上で、スマホを握りしめたまま声を上げた。
堀田から届いたのは、デートの誘いだった。
本当はクリスマスに行くはずだった場所。
夜のイルミネーションを、一緒に見に行かないか――。
そんな内容だった。
君野は嬉しそうに、小躍りする魚のスタンプを送り返す。
待ち合わせは明日の午後4時。
「ふふ……」
仰向けになり、足をばたばたと揺らしながらスマホを胸へ抱きしめる。
キーホルダーを壊してしまってから、初めてのデート。
「僕たち、変われるかな……」
――変われないよ。
「え?」
耳元で囁かれたような、か細い少女の声。
部屋はしんと静まり返っている。
心臓が一気に跳ね上がった。
君野は慌てて動画アプリを開き、音量を最大まで上げる。
だが、部屋のどこを見回しても誰もいない。
「……お化け?」
背筋を冷たいものが這い上がる。
君野はぶんぶんと首を振って恐怖を振り払い、そのまま部屋を飛び出した。
「お母さん!」
1階へ駆け下りる足音だけが、静かな家に大きく響いていた。




